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陽斗という男を初めて認識したのは、高校二年生で同じクラスになった時だった。
初めて陽斗を見た時、太陽のような男だと思った。その後のホームルームでの自己紹介で陽斗の名前を知った時、太陽から生まれた子供のようだと思った。そんな俺の第一印象を裏切ることもなく、まさに陽斗は教室内を照らすような存在だった。
春に行われる学園祭での出し物が決まらない時、陽斗の一声で話し合いがスムーズに進んだ。クラス対抗の体育祭で負けが続いて士気が下がった時、陽斗の応援によってクラスは再び一致団結した。
そんな陽斗と初めてきちんと言葉を交わしたのは、夏休みに行われた自由参加型の夏期講習だった。
俺が陽斗の特別になれるまで、四つの季節が過ぎていた。ただのクラスメイトだった一学期、ひょんなことから距離が縮まった夏休み、互いの距離をはかっていた秋が過ぎ、そしてクリスマスに付き合おうと言ったのは陽斗だった。
「ありがとうございました。またお越しくださいませ」
長蛇の列を作ったレジ作業をようやく終え、腕時計を見ると午後八時前を示していた。そろそろ上がる予定の花火を目的に来た客は店内から出ていき、混み合っていた店内は一時的に閑散としている。
開店時から歩き続けていたふくらはぎが痛いが、忙しかった時間を乗り越えたという達成感が強い。客席の食器やグラスをトレイに乗せて片付けている時、ふいに地響きのような音が足元から響いた。
「あ、花火があがってるね」
会場に行く予定はないのか、ベビーカーをソファー横に置いた家族連れの母親らしき女性が、子供をあやしながらその低い音に耳を傾けている。
ドン。ドドン。
ビルに阻まれて花火すら見えない場所だというのに、暗くなったばかりの空に淡い光が広がっているように見えたのは気のせいだろうか。明るすぎる店内の照明を反射したガラス越しでも、花火の威力が音で伝わってくる。
陽斗と二人で花火大会に出かけたのは、高校三年生の夏休みだった。
高校二年生の冬に付き合い始めた俺達は周囲に関係を公言していなかった分、二人きりで過ごす時間の濃度をあげていくように、さまざまな感情を共有し、多くの事を語った。好きなバンドの話、夢中になった少年漫画、苦手な教科への愚痴、そして将来の夢。
ファミレス店内で初々しいカップルを見た時に感傷が喉元を通り過ぎたのは、今でも鮮明に浮かぶ思い出があるからだ。二十歳になったのを機に二人で暮らし始めて、楽しい事ばかりじゃなかったけれど、陽斗との出来事は俺の心に強く根を張って、もう戻れない。たとえ、忙しさによって生活がすれ違ったとしても。メッセージをやり取りするために設置したホワイトボードがいつの間にか真っ白のままで保たれるようになったとしても。
「お先に失礼しまーす」
午後十一時。花火大会が終わった後も高揚感の溢れた店内で、シフトの時間通りバイトを終えた俺は、スタッフルームの簡易更衣室で私服に着替えて店の外に出た。店内よりも屋外のほうが、祭りの後の静けさが満ちているようだった。疲労した身体が酸素を求め、湿度の高い空気をゆっくりと吸い込んだ時、
「蓮」
駐車場のタイヤ止めに陽斗が座っていた。
「お疲れさん」
羽虫の群がる外灯ですら、陽斗を明るく照らしている。俺はショルダーバッグの紐を握りしめ、立ち上がった陽斗を呆然と見つめた。
「なんで……?」
口にできたのは、その疑問詞だけだった。どうして陽斗がここにいるのか、俺は軽く混乱を起こした。
俺がのん気に大学の夏休みを満喫している間、陽斗は夢を追って研究に明け暮れていた。ひとつの事に真っすぐ向かっていく陽斗を誇らしく思いながら、俺はどこかで寂しかった。
大人になるにつれて、二人で過ごす時間の濃度は様々な外的要素によって薄まっていく。閉塞された空間にいるままではいられない。世界は二人きりで構成されていない。だからこそ、多くの勇気と嘘をもって両親を説得し、俺は陽斗との生活を手に入れた。
「蓮、俺と行った花火大会を覚えている?」
俺の質問には答えず、デニムパンツについた砂を払いながら陽斗が質問を重ねる。
「覚えているよ」
俺は答えて、過去を脳内で反芻した。
高校三年生の時に出かけた花火大会は、地元の小さな祭りで行われたものだった。神社の前に並ぶ屋台、浴衣を着た人々の合間を私服姿のまま二人で歩いた。時折出会うクラスメイトと適当に挨拶を交わしながら、俺は祭りの空気感よりも陽斗の隣を歩いているという事実に浮かれていた。
ある屋台では派手なビニル袋がたくさん並んでいた。綿菓子屋だった。陽斗が笑いながらデニムパンツのポケットから小銭を取り出し、朝のテレビで放送されている戦闘物のキャラクターが大きく描かれた袋を選んだ。袋から現れた白い綿菓子を二人でちぎった。手がべたべたになり、二人で笑い合った。何をしても、何があっても幸せだった。
花火が打ち上がった時、指先で綿菓子を掬っていた陽斗がふいに俺に顔を向けた。
――蓮!
夜空を背にした陽斗の笑顔が、俺の目の前で咲いた。
空に花を描いた光は次第に散っていき、煙となって消えていく。その瞬間すら美しい。花火は人々の希望だ。
次から次へと打ちあがる花火が、陽斗の日に焼けた頬を照らしていた。宇宙を作り出す夜空の下でこっそり繋いだ手が汗ばみ、更にべたついた。陽斗の語る未来に俺もいられたらいいと強く願った。
あの頃の未来に俺達は佇んでいる。花火を打ち上げ終えた、星も輝かない都会の空の下。
「陽斗、研究はどうなの」
ぶっきらぼうに訊ねる俺の肩に、陽斗がそっと頭を寄せた。湿った夏の香りに、陽斗の汗のにおいが混ざった。綿菓子、と陽斗はつぶやく。
「本当は、もっと早く大学を出て、祭りに行って綿菓子を買いたかったんだ」
陽斗の声には疲れが滲んでいた。当然だった。もう何週間も陽斗は休まずに研究室に通い続けているのだ。そんな状況でも郷愁に誘われるように迎えにきてくれた陽斗にたまらなく触れたくなって、俺は汗ばんだ手のひらを陽斗の頭にぽんと置く。
「帰ろう、陽斗」
俺の言葉で、陽斗がゆっくりと顔をあげて俺を見た。澄んだ瞳はどこまでの深く、そこに存在する小さな宇宙でも花火が舞っているのかもしれない。未来を灯す、陽斗の光。その中に俺はいつまでいられるだろうか。
どちらともなく手を繋ぎ合って、ゆっくりと歩き出す。重なった指先で会話を交わす。吹き抜けた風には花火の匂いが混ざっていた。
すれ違った家族連れの、幼い男の子の手には綿菓子の入った派手な袋があり、俺と陽斗は目線だけで小さく笑い合った。
綿のようにふわふわした砂糖菓子は、時間と共にしぼんでいった。それは花火と同じ、刹那的だからこそ美しい。その瞬間を繋げていくために、俺達は二人の家に帰り、時間を分け合っていくのだ。
日々の隙間に落とされた寂しさを、ホワイトボードに描きながら。
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