人生とはいいもんだ。

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 三十二歳になった彼は、その後も河原で暮らしていた。ある日、一人の男が表れた。雑誌記者だという。社会の裏を取材するためにホームレスにインタビューをしているそうだ。  彼は、神社のことを隠しつつ、自分の転落人生について語った。記者は興味を持ち、記事にしたいと言い始めた。詳細なインタビューをするために後日、記者の事務所を訪れることになった。  小さな出版社だった。経済の裏側を調査して鋭い記事を書くことに定評があるそうだ。彼にとって久しぶりの出版の現場は輝いて見えた。インタビューは記者だけでなく、編集長と名乗る人物も同席していた。彼は隠しても仕方がないと考え、オカルト雑誌記者だったこと、神社の(うわさ)を試したこと、その後、人生が転落していった過程を隠さずに語った。 「大変、興味深い。是非、記事にしたいです」  編集長、自らが提案をした。 「記事にしていただくのは結構ですが、神社の話は伏せていただきたいのです」 「なぜでしょうか?」 「運気なんて変えるものじゃない。そう思うからです」  編集長は深くうなずき、伏せることを約束した。そして、以外な言葉を発した。 「君さえよければ、うちで働いてみないですか。試用からになりますが」  彼は二つ返事で承諾した。こうして、彼は夢だった経済関連の記者となった。  彼は必死に働いた。綿密に取材して記事にする。これを愚直に実践した。一年後、彼は正社員として雇われることとなった。編集長も仲間の記者も彼を高く評価していた。当たり前の生活ができることを幸せに感じていた。  さらに二年後、彼に恋人ができた。一つ年下の女性。仲間の記者の紹介だった。交際は順調に進み、結婚することになった。仕事に家庭、彼は充実した生活を手に入れた。やがて、二人に子供が生まれた。男の子だった。彼は浮気をすることも、ギャンブルをすることもなく仕事と家庭を大事にした。 *    *    *  六年が経った。息子は六歳、幼稚園児になっていた。間もなく小学生になるという時期に、彼に不幸が襲い掛かった。  ある日、頭痛を訴える息子を病院に連れて行った。 「極めて稀な、脳の疾患です」  精密検査を行ったあと、医者がこう告げた。 「進行性で治療法は見つかっていません」  彼も妻も、失意のどん底に突き落とされた。 「余命……はありますか?」  彼は声を震わせて尋ねた。 「申し上げにくのですが、このまま進行すると半年程度かと……」  息子は即、入院となった。一見、元気な息子が眠ったあと、彼は妻と抱き合って病室で泣いた。  一か月後、病状は次第に悪化していった。頭痛の頻度は上がった。彼と妻は薬が切れると痛がる息子の手を握ることしかできなかった。  ある日の夜、彼は一人で河原を歩いた。病室にいると息苦しくなってしまったのだ。三十九歳になった彼は、随分前に、この辺りで暮らしていたことを思い出していた。 ――普通の生活を取り戻したんじゃなかったのか!!  これほど苦しいならあの頃の方がまだましだと思った。  彼は真っ暗な河原に立ちすくみ、空を見上げた。大きく深呼吸をして気を落ち着かせた。 「よしっ」  心を決めた。彼は帰宅する前に、便箋と封筒を買って帰った。 *    *    *  三日後、彼の自宅に送り先の記載がない封筒が届いた。妻は病院。気付かれずに受け取ることができた。彼は再び神社の賽銭箱に五万円入りの封筒を投入したのだった。  中身はこれまでと同じ。小さい紙を開くと『0』と書かれていた。一度、分配した運気は再分配できないので正しい値だ。  彼は御札(おふだ)に、次のように書いた。   『三十九歳  100000』   『四十歳  -100000』  運気を変更することに否定的だった彼は、もう一度、奥の手を使う決心をしたのだ。一週間後が四十歳の誕生日。その前日に賽銭箱に投入することに決めた。  誕生日の二日前、病院に行ったあと、妻と二人で食事をすることにした。ゆっくり食事をとる余裕がなかったので、話す時間を取りたいと思ったのだ。妻は随分やつれてしまった。彼自身も同じだった。しかし、その日は努めて明るく振舞った。久しぶりに妻の笑顔が見られた。 「すまないが。明日、取材で泊まりになる」 「……医療費も掛かるので仕事も大事よね」 「明後日、あなた誕生日でしょ」  妻はしっかりと覚えていた。 「ああ。それまでには戻るよ。病院で息子と一緒にささやかなお祝いをしよう」  妻は嬉しそうに笑った。そして、彼は妻にこう付け加えた。 「もし、俺にもしもの事があったら、あの子を頼むな」  なぜ今、そんなことを言うの? と妻は悲しそうな顔をした。しかし、彼には言っておく必要があった。 *    *    *  翌日、彼は例の神社にいた。夕暮れ時に到着して、日が変わる直前まで待った。  彼は時計を見た。 ――あと、十分で日付が変わる。そうすれば四十歳。そろそろだな。  三十九歳の最後の十分間。 ――運気が100000。平均運気の一万年分だぞ。奇跡だって起こせる。  そう願って封筒を賽銭箱に投入した。奇跡が起こったかどうか彼に確認する術はない。そのまま、時間が一分、二分と過ぎていく。  あと一分で四十歳。四十歳になった瞬間に『運気 -100000』。この数字がどんなひどいことを引き起こすのか想像することもできない。  0時。真っ暗な神社の周囲に気配を感じた。目視では確認できないが、本能的に背筋が凍る『何か』だった。 ――これでいい。人生とはいいもんだ。  彼は覚悟を決めていた。 *    *    *  翌朝、それを発見したのは神社に散歩に来た老人だった。生皮をはがれ、手足をもがれ、気に吊るされた彼の遺体。最期の表情は苦悶にも見えたし、笑っているようにも見えた。  遺留品から身元はすぐに判明した。それを知った妻は泣き崩れた。誕生日を祝う約束は叶わなかった。  警察署で身元確認をした彼女は、放心状態で息子の病院へ向かった。旦那だけでなく息子まで失くすのではと、恐怖に駆られた。  病室に入る直前に、彼女は主治医に呼び止められた。 「奧さん、お話したいことがあります」 「な、なんでしょう?」  彼女は身をすくめて、次の言葉に備えた。 「理由は不明なのですが……息子さんの……息子さんの病巣が無くなったのです」 「!?」 「医者の私が言うのも変なのですが……奇跡と言うしかありません」 (了)
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