「倫理的ビーガン」から自分の軸を探る(前編)

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「倫理的ビーガン」から自分の軸を探る(前編)

前回の「きっかけのイスラーム」を経て、次に私が強く興味を抱いたのは、なぜかビーガンについて。別にビーガンになりたいわけではない。やはり私は、掟があることや、国境を超えた思想などにひかれるのだろうか。 ビーガンといっても、私が知りたいのはレシピや代替肉の情報ではない。健康へのアプローチでもなく、ましてファッション感覚のビーガンライフでもない。 一生を貫くような、「倫理的ビーガン」について強く興味が湧いたのだ。 きっと彼らは「健康のために我慢して肉を食べない」というレベルにはいない。「それは食べるものではない」と根本から違うのだろう。 それ故、ビーガンの思想にふれるのは怖くもあった。知ってしまうと、私も肉を食べることに嫌悪感を抱いてしまうかもしれないから。 それでも倫理的ビーガンについてどうしても知りたくなった。もしかしたら「命を食べること」について一度しっかり向き合ってみたいと、無意識に思っていたのだろうか。 あるいは、確固たる思想や掟を持った人たちの生き方に、単純に興味があっただけかもしれない。 とにかくこの「気になる」は止めてはいけない。気になるままに興味の糸をたどった方がいい。 ということでまずは、倫理的ビーガン肯定派の本を読み始める。そのあとで今度は、反対派の本も読む。 その合間に、マンガ『約束のネバーランド』にも手を出す。この物語は、食べられる側の気持ちを想像する上で大変参考になった。 『進撃の巨人』でも食べられる側を想像する手助けにはなるが、これは例えるなら「天敵と戦う小動物」の気持ち。一方『約束のネバーランド』は、「食用として生まれ、飼育される者」の気持ちを想像させてくれる。 肯定派、反対派、食われる側。 それぞれの考えに触れていくにつれ、私の中で次第に「それはなんか違う」とか「これはちょっと不愉快」というふうな、じんわりとした「違和感」が出てくる。 これに気付けばしめたもの。 なぜ嫌なのか? じゃあ、どうだったら納得できるのか? 自問自答しながら本を読み進める。 そうして読み終わったとき、私の中からあぶり出されたものがあった。自分が無意識に抱いていた、思想の存在である。   * ベジタリアンにはいくつかのタイプがある。 菜食メインなのは皆同じだが、肉以外はOKとか、肉も魚も卵も食べないけど乳製品はOKとか、いろいろだ。 そのベジタリアンの中でも「完全菜食主義」を貫いているのが、ビーガンである。その徹底ぶりはすさまじい。肉、魚、卵、乳製品の他に、蜂蜜も食べない。動物性由来の調味料ももちろんのこと、徹底的に動物性のものを避ける。 倫理的ビーガンの生き方は、動物性食品反対だけに留まらない。種差別・暴力を嫌うことと、環境保護の面から、動物性製品の使用も避けている。例えば革製品や羽毛製品。それと動物実験を経た化粧品。 さらには動物園や水族館の動物たちは解放すべきと考え、行動に起こす人も。 そしてこれは、人間世界にも影響してくる。 女性差別、黒人差別、労働を強いられる子供、低賃金で暴力を振るわれる移民たちなどなど。 とにかくもう、思いつくだけのありとあらゆる差別や暴力の話を持ってきたなという感じ。 あまりにも多岐に渡る話。そりゃ差別や暴力はない方がいいし、ひとつひとつ大事な問題だということはわかる。 だけど倫理的ビーガンとはそんなにあれもこれも背負い込まなければならないのかと、戸惑いも覚えた。 真剣にひとつひとつを想像しながら読んだから、脳が疲れ果てる。おかげでこの読書期間中は、毎晩よく眠れた。 倫理的ビーガンが、ありとあらゆる種へ思いを馳せ、行動することは、とても立派なことなのだろうと思う。 だけど、なぜだろう。 私の中で、そこはかとない違和感が湧き始めていた。 倫理的ビーガンの生き方だけに言っているのではない。この違和感は、今の世の中のありようも含めてのこと。 次はこの違和感を、具体的に突き詰めていく。そうしたらきっと、私は自分のことがもっとよくわかるだろう。 受け入れられないことは何か。 受け入れていることは何か。 自分がどういう思想を持っているか。 (中編へ続く)
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