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「自分と他者は同じである」をようやく理解できた話
イスラーム、倫理的ビーガンの流れを受けて、次にしつこく考えたのは「自他平等」についてだった。「自分も他者も同じである」という仏教(ヒンドゥーもかな?)の話。そうした方が幸せだよ〜っていう道徳的なことではなくて、宇宙のシステムとしてそうなのだ、という感じ。
自他平等については以前から理解したいと思っていたが、これぞという解説にはなかなか出会えない。「だからどうして自分と他者は同じだと言い切れるのか」という私の問いは、長い間解決されなかった。
唯識や量子力学の本を読んだときも、「自分の存在は曖昧である」という部分は理解できたが、だからといって「そうかだから他者と同じなのか!」という感覚には至らない。
だけど今回、また改めて本やネット上での解説を漁っているうちに、私の中でついにバシッと繋がった。
*
この頃私が何度も見ていたものは、YouTubeの『AmritaChannel』。仏教やヨーガのことをおもしろわかりやすく解説してくれる。バシッと繋がった瞬間に見ていたものは、このチャンネルの「自他平等思想」を徹底考察する回。
そこで「宇宙的巨人」という言葉が出たときに、前に読んだ、仏教とは関係ない本の一節と繋がった。それは、この世界は「相似」や「フラクタル構造」になっているという話。
つまり、ミクロとマクロ、部分と全体は同じ形をしているということ。
例えば原子と太陽系。原子核の周りを電子が回る様は、太陽を中心に惑星が公転するが如くである。
それから、海岸線や山の起伏。遠くから眺めたときのデコボコは、間近で見ても同じようにある。木も、全体像と枝の関係がフラクタルである。
これは私の中で「たしかにそうだな」と納得できる法則。この法則が、「宇宙的巨人」と繋がった。
私たちの体――人体は、小さな宇宙のようである。細胞は毎日生まれたり死んだりしている。マクロファージやキラーT細胞など、それぞれに営みがある。戦ったり情報交換したりもする。血管は道路そのものだし、脳のニューロンは銀河同士のネットワークにそっくりだという話も聞いたことがある。まさに人間世界の如く。『はたらく細胞』の世界である。私たちもきっと、宇宙的巨人の細胞なのだろう。「他者」だと思っていた人たちも、実は自分と同じ、巨人の細胞ということになる。巨人から見れば、私たち細胞のことは全部「自分の体」として、一緒に扱うだろう。
そして宇宙的巨人も、もとは1個の受精卵だったとしたらどうだ。細胞分裂で爆発的に増殖し、ある細胞は「私」になり、ある細胞は「あなた」というように、個性が生まれ、多様化する。別々の存在のように思い込んでいるが、もとは1個の受精卵。兄弟姉妹どころか、同一人物(の一部)ということになる。
*それを踏まえて、もうひとつ理解できたことがある。仏教の「カルマの法則」のこと。良いことをしたら同じように良いことが、悪いことをしたら同じように悪いことが、「時間差で」自分に返ってくるらしい。
この法則が本当だとして。「時間差」が生じる理由も、宇宙的巨人で考えると理解できると思った。
私たち人間は、例えば手に痛みなどの刺激を受けると、その情報は神経を通って一旦脳へ伝えられ、脳が体へ何かしらの指示を与える。これがカルマの「時間差」に当たるのではなかろうか。
『AmritaChannel』でおもしろいことを言っていた。カルマの法則でいくと、他者にしたことが返ってくる。自分が他者を苦しめたら、未来の自分が苦しむ。自分が他者を幸せにしたら、未来の自分が他者から幸せを与えられる。時間的差異があるにせよ、他者にしたことが未来の自分に返ってくるということは、目の前にいるこの他者は、未来の自分である、と。
そういうことからも、「自分と他者は同じ」ということだ。
*
仏教では六道輪廻の考え方がある。執着やカルマによってこの世界に縛られていると、いつまでも輪廻を繰り返し、苦しみから逃れられない。それは天上界に生まれても同じ。六道内にいるから。だから解脱をめざす。六道の輪から抜けるために。
ということは、だ。解脱しない限り、この世界に登場する魂の総数は固定されているわけだ。同じメンバーがぐるぐる回っている。輪廻を繰り返すたびに毎回シャッフルされて、いろんな立場で生まれてくる。
なんかそれって、想像するとちょっと楽しい。バレー部時代を思い出す。いつもはポジションが決まっているけど、たまに変えられることもある。
この世界でも、毎回シャッフルされて生まれてくるわけだ。毎回みんな違う役を与えられ、「あ、どうもよろしくお願いします」って役者さんたちが初顔合わせであいさつするみたいな感じ。
そう考えたら、世の中の人たちを見るのが楽しくなってきた。態度の悪い人がいても、「ああ、今回はそういう役でお生まれですか」と微笑ましい気持ちになる。
病院の受付のやり方がわからず困っているおばあさんも、前世では私の母親だったかもしれない。こんにちはママ。私が受付まで案内するね。待ち時間が長くて怒っているおじいさんも、前前前世くらいでは私の飼い犬だったかもしれない。こんにちはポチ。あまり騒いではだめよ。
実に楽しい。みんな家族。みんな知り合い。孤独と真逆。全生命体との一体感が湧きそうだ。
「自分と他者は同じである」という考え、理解はできたが、正直実感には至っていない。まずは「みんなシャッフルして生まれてきたんだな」というところから、一体感や親近感といったものを育んでいってみようかと思っている。そうしていったら、苦はかなり消滅するのだろう。
そしてこのあと私は、世界を再認識する挙動をとる。
舞台はFacebook。前にもやってみたものの、人が怖くなって退会した。そのFacebookに、「自他平等」「みんなシャッフル」のフィルターを搭載した私が、再び挑むのだった。
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