ほら、バカじゃん私

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ほら、バカじゃん私

なるべく清潔に保たれるべきであろうと掃除はしていると思うが、決して厨房の床は綺麗ではないと思う。 食べ物を作って盛りつける場所だし、ゴキブリだって出ると思う。 そこにはイスなどないので、私は直接タイル張りの冷たいそこにお尻を置いて、脚を折っている。 けれど、着ているドレスの、布のない部分に触れるステンレスで出来た扉は冷たくて気持ちが良かった。 項垂れて下を向いている私は、別に機嫌が悪いだとか不貞腐れているわけではない。 首とか肩とかに力が入らないからそうしているだけで、どちらかと言うと愉快だし、このまま永遠に眠ってしまっても良い程幸せだった。 ただ、先ほどからのマネージャーの言葉には、多少驚いていた。 そして、ああそうなのだな、と言う予感と納得に、少しばかり残念さを感じて、歯向かいたいような、言い訳をしたいような気持ちも抱いていた。 「ちょっとうたこは、帰ったら叱るけどな」 だって、おかしいでしょう。 誰にも知られたらいけないはずでしょう。 そんなことになったら終わってしまうはずで、いつもだったらそう言うマネージャーからの行為を止めていたのは私の方だったはずで。 「いや、でもいつもうたさん、頑張ってんじゃないっすか。たまのオイタくらい、目えつぶってやったらいいんじゃないっすか」 「今回は客に匂わせ、だったから。さすがにダメだなろ」 なのに彼は、店の厨房で働いているこの男性スタッフに、私が自分の部屋に当たり前のように居座っているとわかるような話をしている。 私のことを寝ていると思っているのか、酔っぱらい過ぎて聞いていないと思っているのかは知らないが、嫌でも脳は停止するまで耳から入る情報を解読し続けるものなのだ。 「うたこは本当に頑張ってくれるから余計にな。それに、こっから、更に頑張りどころだし」 「おーい、うたさん、だいじょーぶか、水、飲めるか?」 「戻るのはユウキさんとこだし、もう少しいいよ。本当に飲み過ぎだからこいつ」 そうか、そうだよな。 全部、店側の管理だったのだ、多分。 マネージャ―だけの管理ではなくて、店側も知っていたのだ。 もしかしたら、知っているだけではなくて、時には何か指示だってあったかもしれない。 そう言うものなのかわからないけれど、上手いなあ、いや、私がちょろかっただけなのだろうか。 ああ、なんか、かなしいなあ。 泣いてしまいたいなあ。 楽しかったのに、幸せだったのに、それらは本当にただマネージャーが私に与える時に一手間加えて「まるで二人だけの秘密の魔法」をかけてくれていただけのもので。 嘘だった、だけで。 バカだな、知ってたじゃん、自分にずっとそんなわけないって言い聞かせてたことが、そうだっただけじゃん。 「…水、飲みます…。ユウキさんのとこ、戻ります、私…」 「お、うたさん、大丈夫そうっすよ。まともに喋ってるし」 「うたこ、無理すんな。あと少し休んどけおまえは。タガが外れかけてるの、自分でわかったろ」 だから、の、躾けですかこれは。 手痛いしっぺ返しみたいなものにしては、仕事中に食らったら、なかなかに接客に支障が出そう過ぎるものなんですけども。 ― 私は、そんなことは絶対にしませんけどね、絶対に、しませんけども。 悔しいなあ、だってまだどこかで信じてしまっているのだ。 マネージャ―が私にくれた、二人きりの時間たちの中の細かな輝きを搔き集めてしまっている。 きっと砕け散ってしまったそれらの破片は、切っ先は鋭くて、私の指先を血まみれにするに違いないのに。 「やだ、戻ります。水、ありがとうございます。飲みます」 「ほい、うたさん。蓋、自分で開けられますか?」 「うん、大丈夫です。ありがとうございます。…マネージャー、帰ったら、ぶん殴らせて下さい」 「ふ、なんでだよ。逆だろ」 「私のこと、ぶん殴るんですか?」 「殴るわけないだろ、顔に怪我したら、店に出れなくなるし邪推するやつだっているだろ。じゃ、行くか。水、飲めるんなら全部飲んでから行くぞ」 くっそう、本当に憎らしい。 大好きなんだけど、その笑顔。 私の隣に、ミネラルウォーターを手渡してくれる、厨房の男性スタッフがしゃがんでくれている。 狭いこの一室の中、まわっている換気扇の下で煙草を吸っているマネージャーはこちらに目もやっていない。 けれど、微笑んでいる。 どこか、くたびれたようなその笑顔。 抱き締めてキスして、頭を撫でて、なんでもしてあげたくなってしまう。 捧げてしまう、何もかもを、どうしてもそう言う風に私は出来上がってしまったのだ。 ― 降参だ。 「…ハイヒール、脱いで行ってもいいですか」 「ダメ」 「…カッコよく、歩けそうにないですけど、いいですか」 「いいよ、カッコよくなくても、コケても」 「そんなの、私が嫌です」 「じゃ、頑張って歩くんだな。ハイヒール履いて、背中伸ばしてちゃんと歩け、うたこ」 私はミネラルウォーターをゴクゴク飲むと、片手に持ったまんま、なんとか脚に力を込めて立とうとする。 ハイヒールのヒールの部分が床を滑って、タイルとタイルの隙間にカツン、カツン、とぶつかって遠くへ行ってしまう。 「だーかーらー!!…わかったよ!!わかりました!!立って、歩く!!煙草、寄越せっ!!」 頭を振って、小さく叫ぶ。 床に叩きつけられたミネラルウォーターのペットボトルの口から、中身の水がたぱぱと飛び散る。 大きく体を振りかぶって、ゴンッと後頭部をステンレスの扉にぶつけながら、私は両手を厨房の中間にある、棚になっている部分にかける。 マネージャ―が私の方へ歩いて来ると、へっぴり腰の変な体勢のまま、肩で息をしている私の腰に腕を回すと、グイっと引き寄せた。 今までどう暴れても力が入らなかった体が、勝手にピンと伸びた。 唇に、慣れたマネージャーの唇の感触がする。 厨房のスタッフは、床に零れたミネラルウォーターを片付けて、雑巾で拭いていた。 私の両腕はぶらんと宙に揺れて、体は熱を持ってドクドクと血液の音をやたらと大きくさせている。 それなのに、心だけはひやりとしたもので突き刺された。 「…頑張ってこい、うたこ。あと、ちょっとだ」 「………ん、も、いっかい、してくれたら…」 「しょうがないなあ、うたこ、頑張れ」 「ん…、ふ………う……」 マネージャ―は酔っているわけではないので、素面でこれをやっているわけだ。 店の厨房の男性スタッフは全く気にもとめていないし、前々から知っていたと言うような体だ。 つまりは、やっぱりそう言うことでしかないのだろう。 だから? だからなんだと言うの? そう、久しぶりに頭の中で呟いて、角度を変えて口づけられるままに喜んでその快楽を受け入れながら、腕をマネージャーの背中に回した。 残念ながら絶望慣れしているのだ、こちらは。 そうして、そう言う痛みはだいたいが受け続けることでなだらかになる。 でも痛い。 今はまだ、痛い。 本当は泣きたい。 いいんです、私はそれでも夢を見ますから。 のぼせすぎた自分が悪いんです、わかってます、でも一撃くらいは良いでしょう。 とりあえず、きっと、帰ったら覚えてやがれ。 今はしないですけど、舌に噛みついてやるんだから。 そのくらいは許してよ。
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