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泣き虫
涙は結局止まったけれど、私はその珠の乗った真っ黒なスマホの画面に指で触れることはなかった。
中村さんに、すぐに連絡をすることは出来なかった。
タクシーの運転手には駅前ではなくて、改めて自分の部屋のあるマンションまで行ってもらうことにして、道のりを伝え、支払いを済ませる。
スマホをハンカチで拭い、財布と共にバックの中へと仕舞う。
40代から50代に見える、温厚そうな顔立ちをした運転手が、釣りを用意しながら口を開いた。
「お嬢ちゃん、お疲れ様。沢山泣いたら、元気になってね」
「……お恥ずかしいところをお見せしました、ありがとうございます。ご苦労様です」
それだけ答えて、私は彼の白い手袋をした手から釣りを受け取り、開けられたドアへと寄って行って、タクシーを降りた。
マンションの入り口の前に立って、なんとなく頭を下げると、運転手は片手をあげてからハンドルを握る。
タクシーは、そのまま真っ直ぐ道なりに沿って走り出し、そして見えなくなる。
頭がぼんやりとして、今日はアフターへ行くべきではなかった、いや、もしくはキヨシくんの部屋へなんて行くべきではなかった、と自分の失態を後悔し、反省をし、そして凹んだ。
けれど、全ては後の祭りと言うやつなので、今日一日をなんとか生き延びることの方を優先させなくてはと考えた。
マンションの自動ドアをくぐり、フロアへと脚を進め、エレベーターのボタンを押す。
先ほどまでの、熱に浮かされて激情のみで取ってしまった行動については、もう忘れようと思った。
あんなのはいつものこと、これからは、きっとそうなるかもしれないのだから。
私の纏ってきたメッキは、剥がれはじめている。
そんな気がした。
すぐにやって来たエレベーターに乗って二階へと向かうと、外廊下を歩き自分の部屋へと向かう。
マンションの二階の、丁度真ん中辺りにある自分の部屋。
そこへ帰って来るのが、なんだかとても久しぶりに感じて、バックの中を探って鍵を取り出すと、鍵穴へと差し込んでドアを開ける。
東京に出て来たばかりの時に、こっちで最初に出来た彼氏からもらった、アニメのキャラクターのキーホルダーがついているその鍵は、見慣れた物のはずなのに。
あの頃の私は、一体何処へ行ってしまったのだろう、なんてことを考えてしまう。
どの私が本物なのだろう、と、わけがわからなくなる。
私の住んでいる部屋は1DKで、少しばかりキッチンのスペースが広い。
内側から鍵を掛けると、玄関でハイヒールを揃えて脱いでフローリングの床へと上がる。
ついでなので、すぐ脇にある靴箱の中から、店に履いて行く用のヒールの高い靴を幾つか見繕う。
私が店で着るドレスはだいたい白や薄いピンク、水色など淡い色の物が多いので、それらに合わせやすそうな色の物を三足程出して並べておく。
それからシンクで手を洗うと、コップに水を入れてうがいをして吐き出す。
無言のまま冷蔵庫の前にしゃがみ込み、缶酎ハイを一本取り出して、奥のベッドやテーブル、テレビなどがある洋室へと向かおうとして、けれど、もう動けなくて、私はそこで力尽きてペタンと尻もちをついた。
疲労感がピークで、脳ミソはオーバーヒート状態だった。
ピーピーと音を立てて、扉を閉めるように警告してくる冷蔵庫の、冷蔵室の明かりが暗くなる。
缶酎ハイをあけて、ゴクリと一口、多めに飲み干す。
何度かそうして、半分以下まで減ったところで、やっと冷蔵庫を閉める。
立ち上がるのが酷く億劫だったけれど、なんとか最後の気力を振り絞って両足に力を込める。
フラフラと奥の部屋へと入る為に引き戸を開き、気怠げに歩いて、目の前のピンクの折り畳みテーブルの前にある、お気に入りの白い背もたれ付きの小さなソファ型の座椅子へと腰掛ける。
バッグと缶酎ハイをテーブルの上に置くと、脚を投げ出して、何日も閉め切られたままの真っ赤なカーテンを眺めていた。
このカーテン、他のに変えなくちゃ。
色が赤だから、女が住んでいるって一発でわかってしまって危ないって、前に友達が泊まりに来た時に言われたんだっけ。
でも私、全然部屋にいないから、まだ大変な目にはあったことないよ。
出掛け先では、散々な目にあってるかもしれないけれど。
そうでもないのかな、あんなの散々、の中になんか入らないのかも。
日曜日、みんなは一体何をしているんだろう。
私は、一体、何をしているんだろう。
すぐ右側にあるベッドの、ベッドヘッドに並べてある三つの目覚まし時計に目をやると、今は朝の7時前だった。
私の部屋はピンクの物ばかりだ。
ベッドは白だけれど、布団カバーも枕もピンクで、左側の壁にくっつけてあるテレビ台もピンクで、その隣にあるハンガーラックもピンク。
週末で忙しかった店での仕事疲れからか、感情の振れ幅がえらいことになったから、そのせいでの疲れからなのか、頭の芯がジンジンと痛んだ。
心って心臓じゃなくて脳にあるんだよね、だから脳が痛いのかもしれない。
私、もう頑張れないのかな?
ううん、大丈夫、ただ泣き疲れただけだ、きっとそうだ。
泣いたのなんて久しぶりな気がしたけれど、そうだ、私、数か月前にも確か泣いた。
No2にはじめて入れた時に、嬉しくて嬉しくて泣いてしまったあの時、中村さんは、なんて言ってくれたんだっけ。
確か、そうだ、優しい声で、でもしっかりとした強い口調で、私にこう言ったんだ。
『うたこ、頑張れるか』
そう言ってた。
その言葉は、私に魔法をかけた。
壊れてしまえる、魔法をかけた。
もう一度、何度でも、いつまででも、側で私をそう急き立てて、無理やりにでも頑張らせて欲しい。
『…はい、ぜったい、次も私、頑張ります』
私は、頑張ると答えた。
頑張るんだ、私は次も、その次も、その次だって、ずっと頑張るんだ。
だって、ぜったい次も頑張るって言ったんだから。
そう答えたんだから。
『何かあったら、いつでも連絡していいから』
中村さんは、そうも言った。
店のない日曜日でも、連絡をして良いのだろうか。
せっかくの完全なオフの日に、担当のキャストでしかない私が連絡をしても大丈夫なのだろうか。
いいかな、ねえ、中村さん、私は今すぐに会いたい。
すっかり酔っぱらっていたし、浸りきってしまっていた私は、缶酎ハイに手を伸ばして空っぽにする。
途端、再び大雨が降るように涙がボロボロと溢れ出て来たけれど、今は一人だし、ここは自分の部屋だし、わざわざ止める必要はないのでそのまま泣いた。
肩と喉を震わせながら、バックを膝の上に持って来て、中からスマホを出すとラインの画面を開く。
何人かの友人、ミサ、マナミさん、ナギサさん、それから指名客やフリー客からの受信を確認する。
そして、中村さんの名前も。
内容を見たわけでもないのに、ラインが来てたと言うだけで、私の涙腺はあっと言う間にもっとバカになった。
私は一体どうしてこの人のことがこんなに好きなんだろう。
私はどうしてこの人にこんなに会いたくてたまらないと思ってしまうんだろう。
私は彼のことが恋しくて愛しくて仕方がないけれど、それでも決して縋り付いたりしてはいけない人なのだとわかっている。
ちゃんとそう理解している。
なりふり構わずに、行動出来たならば何か違っただろうか。
けれど、こんな状態で会えるわけなんてない。
面倒くさいと思われる、バレてしまう、私が中村さんのことを、心の支えにしてしまうほどに好きなのかもしれないと言うことが。
それは避けなければいけない。
だってもう二度と部屋に呼んでもらえなくなるかもしれない。
私がもっと大人の女だったならば良かったのに。
カッコイイ女だったら良かったのに。
そうしたら、何もかも平気だったかもしれないのに。
何もかもをきちんとしっかり諦めて、楽しいだけの時間を過ごせるような、そんな女だったならば良かった。
私がたかだかこのくらいのことで泣いてしまうような女だと知ったら、中村さんはきっともう私をもう相手にはしてくれなくなるのではないだろうか。
私はしゃくりあげながら、友人や店のキャストのお姉さんたち、客にラインの返信を打つ。
友人たちからは、今日遊べたら遊ぼうだとか、恋人の愚痴だとか、チケットのノルマがあるからライブに来てくれないかだとか、様々な内容のラインが届いていたので、一つ一つに適当に嫌な思いはさせないような文章を作って送る。
ミサからのは、今日自分の指名客と行った店が面白かったから今度一緒に行こう、と言う内容だったので、私はもちろんいいよ、教えてくれてありがとうと返す。
マナミさんからのは、タツくんの卓ではお世話になりました、と言う丁寧なお礼のラインだったので、私の方も、こちらこそお世話になりました、と言う当たり障りのない文章を返す。
ナギサさんからは、私に対して、ちゃんと帰ることが出来たのか、と心配をしてくれていて、その後は楽しく過ごせていたから何も問題はない、大丈夫だと言う内容だった。
私は少し安心して、きちんと、アフターに付き合ってもらったお礼と、騒ぎを起こしたことの謝罪の文章を打った。
そして最後には、あの後すぐにタクシーで自分の部屋へ帰った、と言う嘘の報告を付け足して、ため息を吐くのと同時に送信ボタンを押した。
それから指名客やフリー客の中で、家庭を持っていないと思われる客たちにだけ、文面に合う内容にプラスして、店で話したことや、今日は習い事があるから頑張って来ます、と言う、日曜日お決まりの作り話を添えて返信をする。
その間、ずっと涙は止まらなかった。
嗚咽を耐えきれず、子供のように声を上げて、泣きながらスマホを握って指だけを動かしていた。
泣きたい気分だった。
もう何が理由で泣いているのかなんて関係なかった。
沢山泣いたら元気になる。
タクシーの運転手が言ってくれたではないか。
そうだ、沢山泣いたら、私は元気になる。
私は、これでも、いつだって元気でいたいのだ。
ああ、中村さんのラインを見る番が来てしまった。
私はフラフラと立ち上がると、気怠げに歩き、また冷蔵庫から缶酎ハイを持って来て定位置へと戻って座る。
力のこもらない指でプルタブをあけて口をつけると、今度こそ中村さんからのラインを開いた。
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