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私は崩壊への夢を見る
中村さんはやっぱりズルいと思った。
もしかしたら、今日私がこうなることがわかっていたのではないだろうか、とすら思えた。
だって、でなきゃおかしいではないか、こんな、私のことをあっさりと引き戻してしまうようなことを、ピッタリのタイミングで起こすことが出来るだなんて。
彼は、私のことをどういったカテゴリーに入れているのだろう。
だって、こんなことを言われてしまったら、色管理をされているだけのただのキャスト、としては何かを期待してしまいそうになる。
そんなのは、怖い。
ダメだった時に、きっと物凄く哀しい気持ちになって、自暴自棄になってしまうに違いない。
まあ、自暴自棄は、いつものことでもあったけれど。
中村さんからのラインの内容は、私にそう言った気持ちを抱かせるようなものだった。
私は缶酎ハイを飲みながら、グスグスと鼻をすすり上げて、涙の止まった顔をティッシュでポンポンと叩いて水分を取り除いてから、ある程度化粧を直す。
そして、収納スペースになっている押し入れから一泊二日用の、一人旅行用であるピンク色の小さなキャリーケースを引っ張り出して来る。
ベッドの脇まで持ってくると、バタン、と床に倒してジッパーを引いてその場に広げて、少し考え込む。
それから、ハンガーラックにかけてあるドレスはどれもロングドレスばかりだけれど、その中でも少し露出の多いものと、自分が気に入っているものを厳選して選び、畳んでキャリーケースの中へと入れる。
ドレスは店のロッカーにも、汚してしまった時の着替え用として1,2着入れてあるし、中村さんが通販で頼んでくれたものも届くだろう。
少なくても全然大丈夫そうだ、と、結局合わせて2着だけにしておいた。
それから、上下揃いのなるべく可愛らしい下着のセットを幾つかと、同伴や店に着て行けるような、上品で清楚に見える系統のワンピースや、セットアップの服。
万能でどんな服装にも合いそうな、腕を覆い尽くす自傷痕を隠す為の上着などを、一週間は着まわせるように6,7着くらい。
最後に、ある程度持って行くと決めた服たちであれば、違和感なく使えるであろうと思われる、大き目だけれどシンプルなデザインの色違いのバックを3つ程。
全てをギュウギュウと両手で押して、ぺちゃんこにして詰め込む。
パジャマは中村さんからTシャツを借りれば良いし、近場に出ると言ってもコンビニくらいだろうと思い、場所も取らないし、デニムのショートパンツが一着あれば十分そうだと思ってそれも入れる。
また季節が変わって、その時にも中村さんの部屋に行っても良い女ポジであった場合には、その季節に合った服を取りに来ればいいだけだ。
何より私は外を歩く時はどうせ長袖を羽織るのだから、秋の始めくらいだったらこれで乗り越えられるだろう。
店で使うハンカチを数枚、それからいつも使っていた香水、コンタクトレンズの替え、客の名前や性格や喋った内容をメモっているノートとペン、眼鏡ケースに眼鏡を仕舞ったもの、スケジュール帳なんかを、服の隙間に埋めて行く。
中身がバラバラにならないように押さえる役目であるベルトをしっかりと止めると、バッタン、と音を立ててキャリーケースの左右を重ね、ジッパーを引いて今度は開かないようにきっちりと閉める。
最後に、心療内科から処方されている薬を、バックの中から取り出したピルケースの中に、入る分だけいっぱい入れる。
それでも不安だったので、小ぶりのポーチを用意して、残った分も全てそこに入れるとバックの中へとピルケースと共に仕舞う。
ブランドの服を買った時に、その店がくれる分厚めの紙袋の中から少し大きめのものを探すと、玄関へ向かって、帰って来た時に靴箱から出しておいたヒールを三足と、脚を傷めた時の為にスニーカーも一足だけその中に放る。
準備は、多分これで終わりだと思う。
他に、何か生活に必要なものはあっただろうか、そう、例えばちょっと長めの旅行に行く時に必要なものだとか、そう言った時に手元になくては困るものは、何か。
多分ないと思うし、もしあったとしても店の帰りにドンキで探せば買えるようなものかもしれない。
とりあえず、これでいい、むしろ多いくらいではないだろうか、などと思う。
でも、だって、中村さんが。
あんなラインくれるから。
私は玄関から冷蔵庫の前に行くと、また缶酎ハイを取り出して機嫌よく座椅子の元へ戻って座ると、ゴクゴクと再びアルコールを投入する。
ああ、なんだか気分がいい、でも深いところにこびりついている不安は消えない。
それを消し去りたくて、私はもっと飲む。
ベッドヘッドの目覚まし時計を再び見ると、8時前だ。
もう一度、中村さんから届いていたラインの内容を見ようと思って、充電中だったスマホを手に取る。
一体、彼は私のことをどうしたいのだろう。
本当に、上手く操って、ただ頑張り続けるだけの人形、彼の傀儡として扱ってくれるのだろうか。
もしそうなのだとしたら、なんてありがたいことだろう。
だって私は、本当は自分の考えや価値観、自分自身の存在にすら自信を持つことが出来ず、生きている意味や価値すらわからないのだから。
そこが例えば間違えた道だとしても、導いてくれるのならば。
その手を掴んでもいいと言ってくれるのならば。
私は、喜んでそうするのに。
『うた、お疲れ。鍵は同じのもう一個作ったから、今持ってるやつはおまえにやるよ。何かあったら、連絡しろな』
私はスマホを元あった場所へ戻し、化粧ポーチの中から中村さんの部屋の鍵を探して取り出すとテーブルの上へ置いて、自分の部屋の鍵に通してあるキーホルダーを外す。
そして、自分が好きでやったカプセルトイ、つまりガチャポンで出て来たキーホルダーをまとめて入れてある小さなカゴの中から、漫画やアニメのキャラクターではないものを探す。
しかし、残念ながら、そう言ったものはなかった。
仕方がない、だって私は昔からオタクだったのだから。
と、ガッカリしそうになっていたら、一つだけ、毛色の違うキーホルダーを見つけて、指先で掴んで取り出す。
これ、沖縄に行ったときにお土産に買って、あまっちゃったやつだ。
形を作っている部分がピンク色で、甲羅の部分が透明になっており、星の砂が入っている可愛らしい亀のキーホルダー。
さっそく、「幸運のホヌ」と書いてある、小さな袋を開ける。
しかも、紐とか、小さな玉の連なっている、よく外れてしまうようなやつじゃなくて、ちゃんと鍵を通す為の輪っかもついてる。
やった!良くやった!一年前の私!いいもの、買っててくれてありがとう!
私はさっそくその亀のキーホルダーに、自分の部屋の鍵と、中村さんの部屋の鍵を一つずつ通して、大事な私の二つの仮住まいを繋いだ。
ちょっとだけ宙に持ち上げてみてでブラブラさせると、チャリチャリと鍵同士がぶつかって音を立てる。
私は嬉しい気持ちになって、その星の砂入りの亀のキーホルダーをバックの中に大切に入れて、かわりに昨日の出勤前にコンビニで購入しておいた、中村さんが吸っている銘柄の煙草を出して、周りの包装を剥がす。
テーブルの上に置いてあったガラスで出来た小さな灰皿を持つと、その煙草とライターも一緒に持って、赤いカーテンを開く。
窓を開けて、狭いバルコニーに出ると、灰皿を下に置き、煙草を一本出すと口にくわえてライターで火をつける。
すう、っと吸って、やっぱり喉が変な感じ、と思いながら、ゆっくりと紫煙を吐いた。
しばらくそうして、青空の下で小さくしゃがみ込んで何度か吸って吐く、を繰り返し、フィルター近くまで橙色が侵食して来たのを見て、ガラスの灰皿で揉み消した。
泣きそうになった時に、吸おうと思った。
だって私は、中村さんの前でも、もちろん泣けるわけなどないのだから。
来週からは、9月だ。
給料日も、No発表の日も、すぐそこ。
後、残り数日、私はどのくらい頑張れるだろうか。
煙草とライターと灰皿を持つと、部屋の中へと入り、窓を閉めて鍵をかける。
それから赤いカーテンも閉め切ってしまう。
だって私、しばらくここへは帰って来ない予定だから。
そうなればいいなって思ってるから。
けれど、注意、ちゃんとしっかりと、弁えてなければダメだよ、私。
それだけを自分にしっかりと言い聞かせると、スマホの充電器をコンセントから抜いてバックの中に仕舞う。
化粧ポーチも、二つになった鍵をくっつけたピンクの亀のキーホルダーも、ハンカチもちゃんと中にある。
キャリーケースを立てると、いつでも運べる状態にして、キッチンの方に出しておく。
それから、一言だけ中村さんにラインを送った。
『お疲れ様です、中村さん。今日も、洗濯機は回しますか?』
それだけ、送ってみる。
怯えなくても、きっと大丈夫なはずだと、そう思った。
だってほら、すぐに返信が来る。
『うたが何か洗い物あるなら、回してもいいよ』
私は右手でキャリーケースの持ち手を掴んで、左手の肘にスマホを仕舞ったバックをかけて、ハイヒールの入っているブランドの袋を持ち上げる。
部屋を少しばかり見渡してから、キッチンの方へ出ると、真っ直ぐ玄関へと向かう。
ドアを開けて、先にキャリーケースとハイヒールの入っているブランドの袋を外廊下に出して、自分が最後に部屋を出る。
バックの中から取り出したピンクの亀にくっついた鍵のうちの一つを鍵穴に刺して、ガチャリと音が鳴るまで回す。
念のため、手ドアノブを掴んで回してみたり、ドアを引いてみたりしたけれど、大丈夫だった。
スマホで調べたら、西武新宿線の駅でも中野区にある中村さんの部屋へ最短で行くことが出来そうな駅を見つけることが出来た。
もちろん、その駅から中野駅まではタクシーで向かうことになるけれど。
そして、中野駅からは歩きだ。
今日はもういい、今日は中野駅からの徒歩、もすっ飛ばして、中村さんの部屋までタクシーで行ってしまおう。
さて、と、キャリーケースの持ち手の部分を改めて持って、バックも改めて肘にしっかりとかける。
そしてハイヒールの入ったブランドの袋を引っ提げて、私は外廊下をカツカツとヒールの高いカカトの音を響かせてエレベーターの元へと向かう。
その先が、間違いだとしても、もういいの。
今は、それでいいの。
私には、他に選びたい選択肢なんか、残されてないの。
目は、覚めなくていい。
しばらく、このままがいい。
激情に駆られたまま、突っ走ること以外に、生きて行く方法を知らない。
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