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傷んだ心
中村さんの部屋の鍵を、ピンクの亀のキーホルダーをバックから出して、くっついている二つのうちの一つから選び出すと、鍵穴に差し込む。
くるりとそれを回せば、ガチャンと音がした。
私はドアノブに手をかけて、ぐいっと下に下げてドアを引いてみたけれど、あれ、開かない。
中村さんの部屋のドアが、開かなかった。
鍵を間違えたのだろうか、でも確かにガチャンと音がしたし、手ごたえもあった。
おかしいな、と思い、何度かガチャガチャやってしまう。
すると、部屋の中の方から、「カチャリ」っと音がして、そのドアは私のいる方へと向かって開いた。
白いTシャツにジャージ姿の中村さんが、片手を唇にあてて笑うのを堪えているような顔で、姿を現す。
「うた、おまえ、鍵使ってみたかったんだな」
「…使ってみたかったです」
「来るんだろうと思ってたから、鍵開けっぱなしにしてたんだよ、俺」
「…私、自分で、鍵閉めちゃってたんですね」
「まあ、次からは使えば」
「はい…ちょっとがっかりしましたけど、中村さんと会えたから、いいや」
中村さんは玄関にあったビーチサンダルを適当に足の指にひっかけて、開くドアにぶつからないように一歩下がっていた私の方へやってくると、頭を撫でてくれる。
ちょっと俯いて、マヌケな私のことを笑っているのを、一応隠す気はある、って言う体で。
そんなに、笑わなくたっていいじゃん。
私ただ嬉しくて、だからすっごくワクワクしながら鍵を刺して、ドアノブを回したんですよ。
少しだけむくれて見せるけれど、中村さんは気にした風もなく、ドアを全開にして、外廊下に置いてあるピンクの小さなキャリーケースと、ショップの袋を確認すると、私の周囲をキョロキョロと見回す。
それから、意外そうな、不思議そうな声で私に問う。
「荷物、こんだけ?」
「え?はい、多くないですか、むしろ」
「女って、荷物もっと多いだろ、なんか」
「そうなんですか?多分これで十分だと思うんですけど」
「へえ。じゃあ、うたはそっちの袋持って。これは俺が運んでやるから」
「あ、ありがとうございます、すみません。お邪魔します」
私は言われた通り靴の入っている方のショップの袋を持って、先に玄関へと入らせてもらう。
それから、中村さんの邪魔にならないようにと、履いて来た方のハイヒールを脱ぎ、玄関の隅にカカトを揃えて置く。
そして一旦、靴箱の上に袋を置かせてもらった。
室内へと入ってジャケットを脱ぐと、洗濯機の中へ入れ、その脇に立って閉めた蓋の上に頬杖をついた。
そうやって、今日はちょこっとだけ長い黒髪を後頭部で一個に結んでいるその姿に「休日の中村さん」を感じて浮かれてしまう。
自然と顔が緩んで、だらしのない顔をして彼のことを眺めていた。
短い黒い尻尾、おくれ毛が首筋にバラバラの長さでかかっているのが、色っぽい。
中村さんはキャリーケースの取っ手の部分を掴むと、軽々と片手で持ち上げて移動し、足だけでサンダルを脱いで、フローリングの床へ進み、ゆっくりとそれを下ろした。
「奥まで持ってくから、うたは自由にしてな」
「あ、じゃあもし靴箱に入るようだったら、後でヒールとか、入れさせてもらっていいですか」
「俺靴全然持ってないから、多分入るよ、好きに使いな」
「ありがとうございます!」
ちっちゃな引っ越しがはじまって、私はなんだか気持ちが華やかに弾けたような感覚を覚え、思わず目の前に立っている中村さんに抱き着いた。
痩せこけた背中に腕を回すと何度も力を込めたり弱めたりして、胸のあたり、丁度心臓のあるあたりに耳をくっつける。
頬ずりをしたいくらいだったけれど、中村さんが着ているのは白いTシャツだったので、ファンデーションで汚しても申し訳ないと思ったからやめておいた。
「うた、アフター大丈夫だったの」
「…大丈夫でしたよ」
はい、今、大丈夫になりました。
私は、大丈夫です、中村さんがいるから、あんなの大丈夫になっちゃいました。
彼は私の背中にも、同じように片腕を回してくてれて、もう片方の手では頭を撫でてくれる。
しばらく私が離れなかったものだから、お馴染みの「しょうがないなあ、うたは」が、低くて大人な大好きな声ですぐ上から降って来る。
でもだって私、本当は中村さん以外の人から抱きしめられり、キスされたりしたくないんです。
仕事ならやるかもしれないし、拒んだりしない場合もあるかもしれないけれど、仕事じゃないのに、抱きしめられたり、キスをされたりしたんです。
「じゃ、先におまえを運ぶかな」
「…うん」
中村さんはそう言うと、片腕を伸ばして玄関の鍵を閉め、私のことを抱き上げる。
所謂お姫様抱っこと言うやつをされて、私は照れてしまって、わたわたと慌てながらも、中村さんでもこんなことするんだ、とビックリしてしまう。
中村さんが、コラ、暴れるな、と言って苦笑する。
私はやっと届いた彼の首に腕を回すと、思わず、ひゃははは、と酔っぱらいのテンションに戻って、高い笑い声をあげて笑ってしまう。
「うたはもっと食え、俺でも抱えられるってのは、ヤバイだろ」
「いや、普通に重くないですか、ふふ、でも、似合わなくて、あはは」
「いいだろ、人生で一回くらいは、こういうのも」
「はい!いい思い出になりますね、きっと」
私、ずっとずっと、忘れません。
ケラケラと笑い声をあげる私は、軽快に奥の部屋へと運ばれると、中村さんはサービスよく、深緑色のクッションの前でくるくると回ってくれる。
私はバックをかけている右腕は彼の首に回したまま、左腕だけを上へと向かって伸ばして、酔いと愉快な気持ちからゆらゆらと歪む天井を、目をいっぱいに広げて見ていた。
宇宙が裏返ったよう。
中村さんは、私の傷んだ気持ちも全部裏返えしてしまう。
それから、彼は私を抱えたままの体をゆっくりと内側に折る。
膝裏に通されていた、細い両腕がするりと引き抜かれて行く。
私のお尻がじわじわと深緑色のクッションに埋まって行く間に、目を逸らさずに見上げていた彼の口が動く。
「あと三日だ、うた。頑張ってみろ」
「…?私は、いつだって、頑張りますよ」
「ま、いいことが起こる予定、今んとこ。上手くいけばな」
「いいこと、ですか?」
「そ、おまえはどんな顔するんだろうな」
話しは終わっていないのに、中村さんは私に背中を向けると、キッチンのある方の部屋へと歩いて行ってしまう。
どうしたんだろう、すごく機嫌がいいみたいだし、こんな中村さんのことを見るのははじめてで、珍しくて、もしかして子供っぽい私に合わせてくれてるのだろうか。
だとしたら、幸せをくれたお礼に、たくさんお返しをしたい。
それはつまり、頑張ってみろ、ってことだから、私はただ今までと変わらずできうる限りのことを一生懸命頑張ればいい、ってことで大丈夫なのだろうか。
でも、さっきの中村さんの言いようだと、多分、それ以上に、さらに、もっと、ってことなのだと思う。
三日か、そうだな、ちょっと今日、いや昨日みたいに、様々な種類の酒を、量も、ひたすら飲みまくらなければいけない日が続くとキツイかもしれない。
でも、ミサだってほぼ毎日それをやっているのだし、後ちょっと、もうちょっと頑張ってみたら、私にも出来るだろうか?
もしくは、ボトルを入れてもらうのではなくて、呼べる指名客の人数を増やす方が効率が良いだろうか。
ただそれだと、一人一人に対して満足してもらえる接客が出来なくなってしまうのではないだろうか。
せっかく私と話す為に来店してくれたと言うのに、10分、15分つけるかつけないか、だと、指名で来店してくれた客に申し訳ないような気持ちになってしまう。
色々と頭を悩ませていると、片手にキャリーケース、もう片方に黒猫柄のマグカップを持って中村さんが戻ってくる。
壁にくっつけてある四角いテーブルは、深緑色のクッションに座る私から見て左側と奥が壁で塞がれていて、右側があいているのだが、丁度その部分の空間にそれは置かれて、バタンと倒される。
中村さんの部屋には物が少ないので、私の荷物を少々増やしたところで、なんだかあまり人が長く住むような場所、と言った印象を受けない。
こんなことなら、もっと何か「自分らしい物」の一つや二つは持って来るんだった。
「運んで下さってありがとうございます。あの、中村さん、これ、香水、返します」
「いいよ、やるよ。大丈夫、それ俺が買ったやつだから」
「ふーん、じゃあ、これは中村さんの部屋に置いとく用にしよっと」
私はバックの中から出して手に持っていた香水の瓶をテーブルの端っこに置く。
結局一度しか使わなかったそれは、ピンク色のちょっと潰したようなハート型のガラス瓶の形をしている。
なんだか、爽やかな甘い、柑橘系と薔薇の匂いをバランス良く合わせたような、そんな華やかでフェミニンなイメージを抱かせる香りのものだった。
たまにだったら、こちらをつけてみるのも良いかな、と思った。
それから、深緑色のクッションの真ん中から横へと体を移動させて膝を抱えると、テーブルの下においたバックの中から、スマホと、自分の煙草を探し出して、一本くわえるとライターで火をつける。
片付けることや、やってしまわないといけないことが終わって一休憩したら、今身に着けているものたちをいっぺんに洗濯機にぶち込んで、シャワーを借りる予定だった。
「うたは今日は仕事でもだいぶ飲んだし、アフターでも飲んだんだろ。出来れば、大人しく寝ろな」
「うーん、でも私、出来れば起きてて、ラインくれる指名客の内の誰かに、月曜日同伴のお願いしようと思ってるんです」
「月曜なあ、確かにあんまり店混まないからな。月曜もし同伴になったら、一度ヘアメやりに店来るのか?」
「はい。三日でしょう、三日全部太客呼べたら呼びたいです」
「平日だからなあ、平日前半は、ミサもミズキも、ナギサだって待機席にいることあるくらいだから、そんな力まなくもいけるんじゃない」
「いえ、人一倍、百倍くらい頑張って、やっとで普通なんで私」
中村さんが、私の前に黒猫柄のマグカップをコン、と置いてくれて、自分も深緑色のクッションに胡坐をかいて座る。
横の方にズレて座っていた私の下のクッション部分が盛り上がって、転がりそうになったので、中村さんの方にずれて寄り添い、バランスを取る。
それから、彼の二の腕に頭の右の部分をくっつけると、すう、っと煙草を吸ってゆっくりと煙を吐いた。
「疲れてるんだろ、本当に、今日はちゃんと寝ろよ」
「中村さんに言われたくないですよ、本当は、全然寝てないでしょう」
「俺はたまに寝だめして、それで十分だからいいの」
「じゃあ、中村さん、夜になったら一緒に寝だめしよう?私、ちゃんと寝るから、だから一緒に寝て下さい」
「なんだ、やっぱり何かあったんだろ」
「…なんも、ないし」
今日は、焼酎の瓶の他に、私がいつも座る壁越しの方の床に二ℓの水のペットボトルも用意されていた。
きっと、私が来るのだろうと思って、性懲りもなくここでも酒を飲むのだろうと予想した中村さんが、せめて、と用意してくれたに違いない。
私が焼酎をロックで飲まないようにと、下のコンビニで購入して来てくれたんだな、と、そう思うと、私はここに来ても良かったのだ、と感じた。
何日も連続で、しかも店のない日にまで押しかけて、それでも迷惑ではなかったんだ、と思うと、鼻の奥がツンとした。
「言いたくないならいいけど、客のことだったら、相談してくれたら何か役に立つかもしれないし、言うだけ言ってみれば」
「…だって、中村さんに仕事の出来ないやつだって思われたくないです」
「俺は、うたのことそんな風に思ったこと一度もないけどな」
「…そうですか?本当に?嘘じゃない?」
「本当だし、嘘じゃないよ」
ほんと。
嘘じゃない。
この言葉が返ってくる質問が、例の、別の質問であったならば、彼はこうは答えてくれないのだ。
知ってる。わかってる。だから言わない。
せっかく会えたんだから、せっかく今私は幸せなのだから。
中村さんが自分のグラスに焼酎を注いで、私の方の黒猫柄のマグカップにも三分の二くらい入れてくれると、「あとはそこの水、入れろよ」と言って、煙草を吸いながら、飲み始めた。
私は洗濯機を回して、シャワーも借りて浴びなければならないし、キャリーケースも開けて中身の確認もしなければならないし、ドレス三着はハンガーにかけなければならない。
確かに泥酔するまで酔うわけにはいかないので、大人しく大きなペットボトルの蓋を開けるとマグカップに水を入れて、行儀は悪いかもしれないが人差し指を沈めるとくるくると回した。
「キヨシくんが痛客になりました」
「元々、そこそこ痛客の素質あっただろ、あいつは。いや知らないけど、なんとなく」
「…そうかもしれないです。でも私、まだまだガキなので、色々ショックを受けて、そのことが恥ずかしくて」
「そりゃまだ19歳だからな、これからだよ、おまえは」
「…これから、ですか」
「あんまり偉そうなこと言えないけどなー、俺も」
「…中村さんは、傷つくことってありますか?」
つい、そう聞いてしまって、私は自分が吸っていた煙草を灰皿に押し付けて揉み消すと、バックから中村さんの吸っているのと同じ銘柄のものを出して、新しく口にくわえると火をつけた。
本当は何があったのか全部話してしまいたかった。
それは、リンさんと言うまともに仕事をしないキャストに出会ったことでも、タツくんがスカウトだったかもしれないと言う話でもない。
あまりにも子供っぽくて自業自得過ぎて、話したら中村さんに呆れられてしまうような、遠ざけられてしまうような話だと思った。
本当のこと。
それは、彼には絶対に秘密で、言えるわけなんてないことばかりだった。
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