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中村さんの真実
好きでもないキヨシくんに対して、本当は私は少しばかりのいらない期待を持っていたことに気づいてしまったことだとか、それが裏切られたことだとか、何より、中村さんじゃない人に、勤務中以外に触れられたり抱きしめられたことへの嫌悪感や、心がズタズタになったようなあの時の気分だとか。
言葉にならない、告げてはいけないことばかりだった。
助けて下さい、中村さん。
私が、本当に言いたい言葉たち。
それらは全て。
告げてしまった途端、私から彼を遠ざけてしまう結果になりかねないものばかりなのだ。
だから絶対に、口にしてはいけないのだ。
私は俯いて、スマホの画面を親指でタップして、口内がスース―とする、まだ吸い慣れない煙草の煙を思いっきり吸い込んで、震えるため息をつくしかなかった。
黒猫柄のマグカップの水割りを飲みながら、好きな人と同じ銘柄の煙草を吸って、涙を堪えて、私は平然を装ってスマホでラインの返信を続け、客への営業を開始する。
「そんなキツいなら、出禁にしてもらうか?」
中村さんは、私の質問には答えてくれなかった。
それはつまり、彼も当たり前に傷つくことがある、と言うことなのではないだろうか。
結構長い間があった。
その間黙していたと言うことは、答えづらい内容の問いかけだったのだろうか、それとも私のようなガキにはわざわざ言う必要がないと思ったのか。
彼は私に弱みなど見せるつもりはないのだろう。
教えてなんかくれないのだろう。
私は、彼にとっての、そこまでの女になることなど出来やしないのだろう。
中村さんが甘えてくれるような、情けない姿を見せてくれるような、そんな女になりたいなどと、望んではいけないのだ。
何より中村さんだって人間なのだから、そりゃあ傷つくことくらいあるだろう。
本当にデリカシーのないことを聞いてしまったな、と反省して、ごめんなさい、と言う気持ちを胸に、眉を下げて中村さんの頭を撫でた。
あ。嫌そうにしない。って言うか、ちょっと笑ってる。
多分、私のこんな感傷的な気持ちすらもお見通しで、子供っぽいな、って思ってるんだろうな。
「いえ、多分大丈夫です。もう来ないんじゃないかな、って思うんで」
「連絡は?」
「来てませんね。私、そこそこのキチガイっぷり発揮してしまったかもなので、引いたのかもしれないです」
「おまえってキチガイなの」
「まあまあそうですかね」
「よく職質されてそうだもんな、うたは」
「いやそれ、そっくりそのままお返ししますよ、中村さん」
私はおかしくて、声をあげてケラケラと笑ってしまう。
それこそ、彼ならば年がら年中どこを歩いていても職務質問されるのではないだろうか。
それは確かに私も同じで、休日一人で街中を歩いていると良く職質にあった。
華奢すぎる体のせいなのか、酒と頓服を飲んでフラフラと歩いているのが良くないのか、自傷痕のせいなのかはよくわからない。
だから普段から、念のためにお薬手帳も一緒に持ち歩いているのだ。
この薬たちは全て、きちんと心療内科で処方されたものです、と答えることが出来るように。
「今のうたは、元気そうでいいな。そのくらいがいいよ、おまえは」
「私は元気ですよ、いつだって、ちゃんと元気でしょう?」
「たまには、死ぬ歌以外も歌え」
優しく、うっすらと薄い唇の両端が上がって微笑みの形を作る。
私の頭に、大きな骨ばった手のひらを乗せてそんなことを言う彼は、真夏の間もずっと黒い長袖のスーツで出勤し、そしてそのままスーツで退勤して行く。
昨日、私が部屋で洗濯物を干している間に、彼がゴミ出しの為に部屋を出て行く際には、暑い時間帯だったと言うのに、わざわざTシャツの上からパーカーを着て行った。
腕が自傷痕だらけなのを隠す為に、夏場外を歩く時、いつも長袖を上から羽織っている私のように。
似ているようで、全く違うその共通点。
私は、はじめて彼の部屋で半袖姿を見た時からソレには気がついていて、単純に察せるそのことに対して、何も思わなかったし、何も感じなかった。
だから敢えて今までの文章の中では、ソレについて一切描写はしなかった。
気にしていなかったので、特に中村さんに対して、ソレが何なのか、何故なのか訊ねたことはなかったし、指摘しようと思ったこともなかった。
中村さんと言う人間の一部を作っているものの一つ、としてしか考えていなかった。
それに何より、私といる間は使用したりしないのだから、常用していると言うわけでもなさそうだと思った。
けれどソレはきっと、彼が食事をあまり摂らなくても平気である理由で、だから彼はとても痩せているのだ。
そして、ソレの効果により、睡眠をそんなに必要としない体になったのではないだろうか。
今日、とても機嫌良く出迎えてくれて、子供っぽいお遊びにまで付き合ってくれて、傷ついていた私のことを喜ばせてくれた行為だって、ソレが原因でテンションが高かっただけなのかもしれない。
でも、だからって、それが何だって言うの。
私は中村さんが好きだよ。
例え貴方が、違法であると言われるような行為に手を染めていたとしても。
なんにも、変わらないよ。
スマホからは顔を上げず、時々煙草を吸って、黒猫柄のマグカップから焼酎の水割りを飲んで、何人かの指名客とのラインのやりとりをしながら、友達のラインにも返信をする。
中村さんも私と同じで、自分のスマホをいじりながら煙草を吸って、私が歌う鼻歌の、サビだけがわかるらしい部分に合わせて小声で歌ったりする。
穏やかで、ゆったりとした、静かな時間に私は自然と顔を緩める。
「そろそろ10時になるし洗濯はじめるか。うた、洗い物出して」
「あ、今着てる服とかなんです。私、シャワーと、なんでもいいのでTシャツお借りしてもいいですか?それとね、ちょっと待ってて!!月曜ね、山口さんが来てくれそうな雰囲気なんですよー!」
「おー、そうか。平日で、しかも月曜だと、太客に来てもらえるのは助かるな」
「私ね、日曜は習い事に行ってるって言う設定なんです。えっと、ちょっと私、服に着替えて写メを撮って、山口さんに送っていいですか。この人、私の写メ集めてるので」
「おまえの客って、みんなちょっと個性強めだよな」
「そうですかね?」
私はだいぶ短くなってしまった、中村さんと同じ銘柄の煙草を最後に一吸いだけして、灰皿に煙を上げている部分を押し付けてから立ち上がる。
ピンクのキャリーケースの元へと行くと、ジッパーを引いて開けて、止めてあるベルトをパチンと外す。
その中から、同伴や出勤用に、と厳選して来た私服を何着か取り出すと、どれにしようか、と考える。
山口さんが気に入りそうな服装は、セクシー系で、大人っぽく見えるようなデザインで、尚且つ胸の大きさとウェストの細さが強調されるようなものだ。
だって本人がそう言って、私を同伴で色々なアパレルショップに連れて行き、沢山の服をプレゼントしてくれるのだ。
まあでも、胸など本当のところはペタンコなので、分厚いヌードブラを使って盛って盛って谷間や形を作っているだけなのだが。
「お、どれもいいな。山口さんて証券会社に勤めてるんだろ。うたは、難しい話とかもちゃんと話すわけ」
「いえ、私は頭悪いですし、新聞とかも読まないし、ニュースも観ないので。正直難しい話は全然わかんないです」
「じゃあいつも山口さんと何話してるの」
「あの人は、そんなに難しい、私が知らないようなことは、話さないんですよ」
「意外だな。すごく真面目そうに見えるからな」
「どちらかと言うと、私の話を聞きたがりますね。後は同伴がちょっと…たまに、私が驚くような上品なお店や、ブランド物が売っているショップなんかにも連れて行って下さるので。ドレスコードってやつ、ちゃんと守れてるような服じゃないとダメなのかなって思って、着ていく服に、すごく迷います」
「好きなんだろうな、うたのことを、自分好みにするのが」
「そう言うもんですか」
「そう言う客もいるな。幾つなんだっけ、山口さんて」
「確か40歳とかじゃなかったかな。バツイチって言ってましたよ。元奥さん、写メ見せてもらったことあるんですけど、すっごく美人なんですよ」
私はとりあえず、濃い紺色の、シンプルだけれどボディラインを強調するようなデザインになっているワンピースを取り出して、床の上に広げる。
これならば、胸元も大きくあいていて、デコルテと胸の谷間も露わになるような作りだし良いかもしれない。
尚且つ、体の線に沿ってピタリとしている作りで、ウェストからひざ下の裾まではタイトになっていて、布地も光沢などのないものだから、下品には見えない。
と、思う、多分。
「ハンガー使っていいぞ。シワになるだろ、畳んで入れておくと」
「いいんですか?じゃあ、ワンピースとドレスだけでも、中村さんのスーツかけてあるところに、一緒にかけさせてもらって大丈夫ですか?」
「そうだな。あー、じゃあ、ちょっと増やすか、服かけるとこ」
「中村さんの部屋に、ですか?」
「だって、あった方がいいだろ」
「え、本当に?」
「どうした、何か変か」
もし、私の聞き間違いではないのだったら、今、中村さんは、中村さんの部屋に、私の服をかけておく為の場所を増やすって、そう言ったんですよね。
それって、まるで私がこの部屋に住んでいてもいいって、言ってくれてるみたいで。
私がこの部屋にこれからも居ていい、って言ってくれてるみたいで。
私のものがこれから先、増えてもいいって、思ってくれてるみたいで。
私がこの先もここにいるならば、必要そうだって、そう思ってくれたって言う、そう言うことですよね。
当然のこと、みたいにそんなことをサラっと言われて、私は呆然としてしまった。
でもそれは、大きな歓喜の前触れである沈黙で。
「ええっ!!マジで!?いいの!?」
「さっきから何言ってんだ、うた。ない方がいいのか」
「すみません、取り乱しました!!あった方がいいですね!!」
「うち、収納ないから悪いな、下着とか入れとく場所はないんだけどな」
「そんなの全然いいです、洗濯物の山んとこに、一緒に放っといてくれても、私、全然気にしないんで!!」
「ほんと、うたは何も気にしないよな」
またそんなことを言って、いつもと同じように笑ってくれる。
スマホに視線を戻してから、中村さんは、「後で壁掛け用のフックと、適当に必要なもん買いに行くか」なんて、なんでもないような声音で言う。
彼は、ぼんやりとしている私の様子を気にもとめず、何故か小さなため息をついてから、スマホをテーブルに置いて、グラスいっぱいの焼酎を一気飲みすると吸っていた煙草を消した。
「えっと、じゃあ、私まだ化粧落とさない方がいいかな」
「いいよ、スッピンで行けば。どうせホームセンターだし」
「でも私、スッピンで着れるような服持って来てなくて」
「俺のTシャツ着ていけば。靴は?ハイヒールだけか?」
「いえ、一応スニーカーもあります」
「下は?」
「デニムのハーパン持って来ました」
「じゃ、大丈夫だろ。営業ライン終わってからでいいから、その服ハンガーにかけたら、洗濯機回すか」
この先の予定が決まると、中村さんは立ち上がって、広げたワンピースの前でしゃがんでいる私の隣にやって来て膝をつく。
なんだろう、と思って中村さんの顔を見ていたら、横からふわりと抱きしめられた。
中村さんの方から抱きしめて来てくれたのは多分はじめてのことで、私は物凄く驚いてしまって、彼の腕の中の狭い空間でポテンと尻もちをついた。
「…な、中村さ、ん?」
「うた、こっちおいで」
「う、ん」
脚の力だけでなんとか体を起こすと、私も膝立ちになって中村さんの方へと体を向けてズリズリと側に寄る。
一体どうしたの。
何があったの。
中村さん、ラリってるだけなんじゃないの。
混乱しながらも、私も同じように彼の背中に腕を回して、ギュウ、っと強くしがみついた。
別に、ラリってても、なんでもいいや。
だってほら、顔を上げたら、こうして降って来る口づけが、ちゃんと私のことをまた正気じゃなくしてくれるんだから。
ちゃんとまた、私の頭、おかしくしてくれるんだから。
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