嘘つきな正直者

1/1

482人が本棚に入れています
本棚に追加
/611ページ

嘘つきな正直者

「やっぱり、血の味がするな」 「え?」 「おまえ、口、怪我してるぞ」 「…ああ」 中村さんは、顔の角度を変えて、何度か私の唇を食むようにして、舌は挿入しない口づけをした。 その後で、ポツンとそんなことを呟いて、ふ、っと苦い笑みを漏らした。 何があったのか、もしかしたらそれ以上のことがあったと、想像されてしまっただろうか、と思うと、弁解すべきかどうか私は迷ってしまう。 だってそんなことは、中村さんには関係のないことなのだから。 言い訳じみたことを言い出したらまるで、私が自分のことを彼の女だと思って驕っているようで恥ずかしいではないか。 「俺は、うたは、元気な方がいいからな」 「はい、でも私、本当にもう、元気なんですよ」 「何もなかったって言ったな」 「…はい、何も、なかったです」 私は、ちゃんと自室で鏡を見て化粧を直したと思っていたけれど、強く噛みしめた下唇の赤さで、一部が切れてしまっていたと言うことにまでは気づけなかったようだ。 ドロドロとした記憶が頭の中によみがえって来て、それでも心の方はその嫌な気分には支配されることはなかった。 今、中村さんが、私のことを治してくれたから。 「言いたくなったら言え。別に、嫌になったりしないから」 「そうかな、本当に、そうなのかな」 「うたのこと、可愛いと思ってるって言っただろ」 「…中村さんは、正直者ですよね」 「なんだ、いきなり」 「嘘つかないから」 「俺が?そうかあ?」 中村さんは、私の額に自分のおでこをくっつけると、俺なんて嘘ばっかだよ、って、そんな風に言ったけど。 私、嘘つかれたことないよ、中村さんに。 きっと可愛い、も本当。 子供みたいで可愛い。簡単におちてきて可愛い。 楽ちんで、可愛い。 自分に好かれたくて、褒められたくて、必死で頑張ってNo上位にまで入るなんて、可愛い。 でも、それだけ。 私のことは、きっと好きじゃない。 それでいい、それがいい、だからちゃんと、ずっとそうしておいてね、中村さん。 「月曜日、山口さんと同伴して行けるようにしますね。オーラス狙いで行きます」 「無理なくな。頑張れ、うた」 「はい。ありがとうございます、私、頑張ります」 中村さんがもう一度唇を重ねて来たので、私は背の差がある彼に合わせて顔を上げ、されるがままに弱く結んでいた一本の線を緩めて、開く。 もっともっと薄い胸同士がくっつくように、彼の背中に埋めた手のひらに力を込めて 今度は私が、こっちに来て、と抱き寄せる。 中村さんも、私を抱きしめてくれている腕の力を強くしてくれたのがわかる。 息が出来ない。 このままとまればいいのに、息も、心臓も。 あんな、冷えて凍えて死ぬよりも、生温くて甘いこの毒で死にたい。 差し込まれた舌が私の口内を縦横無尽に蹂躙して、その刺激の全てが気持ち良くて、お腹の奥がズクリと疼いた。 私、ちゃんと出来てる? 上手く出来てる? キスも、仕事も、中村さんが仕向けてることも、ちゃんと上手く出来てる? 生きるのはとても下手だし、苦手だけれど、中村さんの思った通りに動けているなら私それでいいの。 生々しい音を立てて行われるキスが終わると、舌がそおっと私の下唇を舐めながら出ていった。 二人の間に少しだけ隙間があいて、中村さんが私の表情を覗き込んで来る。 私はどんな顔をしていたのだろう。 それはわからないけれど、彼の腕が私から離れたので、私の方も同じようにそうした。 「元気になったか」 「…だからあ!私は、ちゃんと元気ですって、何度も言った!」 「ははは、なら、良かったよ」 「ちょっとワンピース着替えますね。山口さんに送る、写メ撮らなきゃ」 「習い事って、何の設定なの」 「ピアノですね。私、平日の昼間は、保育士の専門学校に行ってるフリしてるんです」 「なんか似合うな、いいんじゃない」 「ピアノも昔やってたから弾けるし、丁度いいかなって。そうそう、買い物っていつ行きます?」 「涼しくなって来た頃にするか。今から暑くなるだろうし、しばらくゆっくりすれば」 中村さんが、深緑色のクッションの方へ戻ると、自分のグラスに焼酎を注いで、またスマホを見る。 ずっと飲んでばかりなのはもう見慣れたけれど、こんなにスマホを弄るのはキャストのお姉さんたちの出勤確認の時くらいじゃなかっただろうか。 もしかしたら、今日は他に何か特別な予定でもあったのだろうか。 私が中村さんの部屋に来たことで、誰かとの約束を断ることになってしまったのだとしたら申し訳ないと感じて、詮索するつもりなど一切なく、けれどつい訊ねてしまった。 「もしかして、今日って他に予定ありましたか?」 「んー、ないない。これ、ナナだよ」 「ナナさん?」 「そう。昨日、泣き止まないから、あのまま早上がりにさせたんだよ」 「まさか、中村さん、仕事あがってからずっと、ナナさんのラインに付き合ってるんですか」 「適当にな。仕事が上手くいかないから、落ち込んでるだけだ。いつものこと」 「ナナさんって、確か友達と入店したんですよね?」 「ユウコな、ユウコは普通になんとかやってるけど、ナナはなあ、ややこしい、色々と」 「そうなんだ」 ナナさん、ユウコさんに相談すればいいじゃん。 なんで、中村さんに相談するの。 などと言う考えは、別に全く浮かんでは来ないけれど、私はナナさんのキャラが逆に羨ましくもあった。 私なんか、中村さんが担当になってから、相談事が出来るようになるまで、相談をしても良いといいことがわかるまで、だいぶ時間を要したと言うのに。 ナナさんは既に相談しまくり、と言うわけだ。 いいなあ。 私は立ち上がって中村さんの側へ行くと、立ったまんま黒猫柄のマグカップから水割りを二口くらい飲んで、放っておいた自分のスマホを拾う。 長い時間着用していた白いドレスを脱いで、床の紺色のワンピースを掴むと背中のチャックを半分ほど下ろして頭から被る。 少し太めのしっかりとした印象の肩ひもにあたる部分から腕を出し、チャックを上げると、部屋の中を見渡して写メに写っても大丈夫そうな、白い壁だけが背景にくるような場所を探し出し、移動する。 「うたは、入店してすぐの頃、はじめてつく客と何話してたか覚えてるか?」 「え?私ですか?お名前をお聞きして、お決まりの年齢当てクイズをしたりして、年齢より若く見えると言って褒めたり、身に着けているもので素敵なものがあれば褒めたり、それから…ううん、とにかくひたすら褒めたりしてましたね」 「ナナは昨日、どんな感じだった」 「ちゃんとお客さんの名前を聞いて、名刺を渡そうとして、お酒も飲もうとしてましたし、頑張ってるんじゃないかなって思いましたよ。ついた卓が、ヘルプだったから失敗しちゃっただけで」 「確かに、フリーの卓では、あんまり問題も起こらないんだよな」 私なんかに聞かなくても、中村さんは自分の担当しているキャストのお姉さんに向いていそうな営業方法は見抜けると思うのだが。 でも確かに、店自体にはじめて来店したフリー客の性格や好みまでは、中村さんよりは私のように実際に客について会話をするキャストの方が熟知しやすいかもしれない。 ナナさんに合いそうな客、か。 「ナナさんは、辞めたがっているんですか?」 「そうでもなくて。あーでも、ただの愚痴か?これ」 「中村さんを悩ませるなんて、ナナさんもなかなかですね」 「昨日は俺が悪かったしな。ナナは、ちゃんとやってたんだろ」 「そうですね、私にはそう見えました。今のところヘルプには向いてないかもしれないですけど、やり方を覚えれば大丈夫なんじゃないでしょうか。偉そうなこと言えませんが」 私は白い壁に背中をつけると、写真を撮影するアプリを開いて、画面を自分の顔より少し上の方へと掲げる。 そうすれば、不自然ではない程度に上目遣いになるし、頬や顎までのラインも少し細めに写るのだ。 微笑んで、片手の指先だけが入り込むようにして、手を振っている、と言うイメージで撮影ボタンを親指でタップする。 カシャ、っと音が鳴るのを聞いて、撮影出来た自撮りを確認すると、ウェストから上まで写った私が、こちらを見て微笑んでいる。 あ、本当だ、唇に歯型がついてて、一か所だけ裂けてる。 私は歯並びがあまり良くなくて、所謂八重歯と言うやつが上下合わせて四本生えている。 なので、笑顔を作る時は口を閉じるようにしていた。 そう言えば、小中高生の頃はあまりにも奇異な行動ばかりとるものだから、鬼子と言われ、お祓いに何度も連れて行かれたなあ、などと懐かしく思う。 「どうだ、いいの撮れたか」 「うーん、なんか自分の顔って可愛いとかブスとかよくわからないんですよね、私」 「キャバクラが雇うくらいなんだから、ブスではないだろ」 「自分を、中身や振る舞いもですけど、容姿も体型も、客観的に見るのが苦手なんです。あと自己肯定感が地の底です」 「調子に乗ってるとか、高飛車なよりかは、そんくらいがいいんじゃないの」 「それもそうなのかな。じゃ、まあ、これでいっか」 どうやらナナさんへの返信が終わったらしい中村さんは、スマホを充電器の先に差し込むと、また焼酎をグラスいっぱいに注いで飲む。 さっきため息をついていたのは、ナナさんへの対応に、困っていたからか、と妙に納得する。 なーんだ。 私のせいじゃなくて良かった。 さて、私もだいぶ酔いがさめたし、頭もしっかりして来たような気がする。 長い時間酒を飲んでいると、こう言うことってよくある。 酒が入っているのに、意識がちゃんとし出す、たまにそんな時間がやって来たりする。 シャワーを借りて、洗濯機を回したら改めて飲み直そう、中村さんと飲む酒は楽しいし、何より幸せな時間だった。 私は山口さんに、お仕事お疲れ様です、と言う前置きと共に、習い事が終わって今帰って来たばかりなので仮眠をとりますね、とラインを送る。 おやすみなさい、と、今撮影した自撮りも送信したところで、月曜日に同伴したいと言われていたことを思い出し、待ち合わせ場所と時間はどうしますか、どこに連れて行ってくれるんですか、と絵文字いっぱいで、いかにも楽しみです、と言ったような文章を作成する。 「うた、昼飯って食わなくていいの、おまえ」 「はい、お腹空いてないので」 「冷蔵庫にカロリーメイト入ってるから食えば」 「ふふ、またカロリーメイト」 「うたは、好きな食いもんとかなさそうだからな。一応迷ったんだぞ」 「ありがとうございます。好きですよ、カロリーメイト」 山口さんに最後のラインを送信してから、私は紺色のワンピースを脱いで、ヌードブラとパンツだけの姿で中村さんのスーツがかかっている布団の横の壁際まで行く。 何も下がっていないハンガーを一つ取ると、そのワンピースをかけてフックに吊るす。 次に、床でくしゃくしゃになっている、二日間着用していた方の白いワンピースを拾うと、キャリーケースから上下セットの、シンプルだけれど布地の部分がレースに覆われているデザインの淡い黄緑色の下着を探し出す。 「おまえ、本当に何も気にしないな」 「え、何がですか」 「恥じらいとか」 「恥じらい…ですか?いる?中村さんは、いる?欲しい?」 「俺も気にはしないけど。あ、シャワー先でいいのか、今日」 「実は、どっちでもいいんですよ、私」 「真面目かと思えば、適当なことも言うし、うたは飽きないな」 「それは何よりです」 私は、中村さんの「飽きない」と言う言葉にホッとすると同時に嬉しくなってニコニコと勝手に顔が笑顔になる。 出来ればしばらくは、こんな私に飽きないで居てもらえると嬉しいです。 飽きてしまったその時は、中村さんは一体、どんな風に私のことをふるのだろう。 笑顔のままで、そんなことを考えた。
/611ページ

最初のコメントを投稿しよう!

482人が本棚に入れています
本棚に追加