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それぞれの痕の理由
そう言えば山口さんも、うたこさんといると飽きない、と言っていた。
あの人は変わった人で、私が泥酔して変なことを口走ってしまったり、おかしな行動をとったりするところが見たいのではないかな、と思ってしまうくらい、私に酒を飲ませたがるのだ。
売り上げ的には助かるが、勤務中に仕事にならない程にまで酔っぱらってしまうと困るので、山口さんが来店することが前以ってわかっている時は、なるべく他に酒を沢山飲ませるような指名客は、こちらからは積極的には呼ばないような営業を心がけていた。
あの人は、私生活に刺激が欲しいのだろうか。
なんだか難しそうな仕事をしているようだけれど、だからこそ私みたいなちょっと変わったヤツが物珍しいのだろうか。
「ピンク色だったから、多分女もんだろうと思って、小さいやつだけどシャンプーとリンスかな、まあなんか買っといたから、使えな」
「え?マジですか!!ありがとう、中村さん!!」
「洗いもの入れたら、洗濯機、ボタン押しちゃっていいから」
中村さんの言葉で、山口さんへの謎が頭からふっ飛ぶ。
なんでもいいや!!なんでもいい!!
私の為に、私の使うシャンプーとリンスを用意してくれた。
だって私が使うかなって思って、私が居るなら必要かなって思って買ってくれたってことなんでしょう。
どうしよう、私、めちゃくちゃ期待してしまう。
彼女じゃなくてもいいけど、なるべく長く一緒にいられるんじゃないかなって考えちゃう。
もうちょっとこんな日が続くんじゃないかな、って、思っちゃうよ。
「じゃあ、シャワー借りますね!!Tシャツ、どれでもいいんですか?」
「いいよ、好きに着な。夕方に部屋出るから、それまで寝てもいいし」
「私、薬飲まないと眠くならないんです」
「便利でいいなー、それ」
「そうですか?ずっと寝ないと、普通に思考力は落ちますよ」
「起きてる時間が長い方が、得してる気分にならないか、なんとなく」
「あーわかるかも。私も、子供の頃そうでしたよ」
「はは、俺は子供か」
私は一枚、大きなTシャツを乾いた洗濯済みの服の山から引き抜くと、脱いだワンピースや、自室から持って来たブラやパンツと一緒に胸に抱えて、シャワーを浴びる為に部屋を横切る。
「だいすき、中村さん」
「俺もだよ」
中村さんの後ろを通り過ぎる瞬間にそう言って、茶色のヘアゴムで雑に結われた尻尾のある頭に、腰を折って頬を擦りつけた。
そっけない言い方の返事は、相変わらずおざなりだ。
でも、私は別に、同じ言葉が返って来なくたっていいのだ。
私のことを、可愛いと言う、私の可愛い人。
大好きです、出来れば人生の最後のその時まで一緒にいたい、だなんて、全く思っていないけれど。
当然のように、そうはならないって知っているから。
今、私は中村さんのことが大好きです。
だから、今、沢山沢山言っておきます。
私は、振り向いた中村さんに頭を撫でられると、満足して元の体勢に戻り、そのままシャワーを浴びる為にキッチンの方へと向かった。
ほら、あっという間に、今日が良い日になった。
私の気性の荒さも、喜怒哀楽の激しさも、天と地くらいある気分の浮き沈みも、時々は役に立つのだ。
どうしてあんなことくらいで落ち込んでいたのだろう、まるでもう嘘のように元気だ。
洗濯機の中を確かめると、少しばかり中村さんの服や下着も入っていた。
なんだかそれが嬉しくて、私もその上に白いワンピースと、その場で脱いだ下着を入れると、床に直接置いてある洗剤と柔軟剤をそれぞれ指示の書いてある凹みへと適量流し込む。
水道の蛇口をひねり、蓋を閉じてスイッチを押す。
すぐに洗面所へ入り、鼻歌を歌いながら折り戸を開けて浴槽の縁を跨ぐ。
ぬるめに設定したシャワーを全身に浴びて、中村さんのシャンプーやボディーソープが置いてある横にちょこんと並べられた、以前私がコンビニで買ったクレンジングと洗顔以外の、ピンクの小ぶりなボトルを三つ見つけると、勝手に顔がニヤついた。
思わずそのシャンプーとコンディショナー、ボディーソープをギュッと胸に抱いて浴槽の底にしゃがみ込む。
シャワーの雫が私の後頭部で小さく跳ねて散らかって、長い髪をぺちゃんこにして行く。
ポタポタと垂れる水たまりが、私の背中や肩を辿って、体の表面を滑って浴槽の底にたまって行くのをしばらく見ていた。
昨日はファンデーションを何度か厚塗りしたので、化粧をしっかりと落としてきちんと洗顔をする。
体や髪を適当にガシガシと洗っている間も鼻歌は続く。
私は、誰かが、何かが死ぬ歌ではなくて、浜崎あゆみの「TO BE」を歌っていた。
機嫌良く最後のサビを何回か繰り返して、シャワーを出ると、バスタオルで体と髪を拭いて下着をつける。
お、っと気づいて、ドアを開けると、一度洗濯機を一旦停止し、中に今しがた使ったバスタオルを放り込んで、再び洗濯を再開させるボタンを押す。
本当に申し訳ないが、女にしては何もかもが基本的に雑なのだ、私は。
どうしたって丁寧な生き方が出来ない。
頑張ってやってみようとしたことだってあったし、未来をなんとかしようと考えたことだってあったはずだ。
もっともっとちゃんとした夢を見ていたことだってあった気がする。
でも、それは叶わなかった。
私には出来なかった。
洗面所に戻り、中村さんの無地の白いTシャツに袖を通して、ハタと、そこで化粧ポーチを持って来るのを忘れたことに気がついた。
眉毛がない、目だってハッキリしない、印象の薄い間抜けな顔が洗面台の大きな鏡に映っていて、これはしまった、と狼狽える。
わかってる。
多分、彼は言うんだろう。
前と、ううん、いつもと何も変わらずに、「可愛い」と。
でも、それでも、絶対にダメなのだ。
キッチンへと出ると、中村さんに聞こえる程度の大きさで隣の部屋へ向かって声をかける。
「中村さーん、私のバックから、化粧ポーチ取ってもらっていいですかー!」
「あー?どうした、まだ出かけないぞ」
「いや、眉毛ないんで」
「気にしないから、大丈夫だよ、おいで」
「いやです。お願いです、後生ですから取って。お願い、こっちの床に、顔は出さないで、床に置いて下さい」
「あはは、うたは本当ちぐはぐだなあ」
裸で部屋をうろつく癖に、と言いたいのだろう。
それは別にいいのだ、あまり恥じ、と言う概念が自分の中には存在していないと言うことには薄々気づいていたし。
でも、化粧は、顔はせめて、多少は作らないとダメなのだ。
好きな人に見せられる、ギリギリのラインと言うものが存在するのだ。
だって化粧は私の、自分を守る為の防具であり、そして剣でもあるのだから。
いつ死んでもいいように。
いつ死にたくなるかわからないからだ。
私は、私の死体の顔がブスなのは嫌だった。
「あ、ありがとうございます!」
「なんだか知らないけど、女も大変だな」
「女もって言うか、私が変なんですかねえ」
「人それぞれなんじゃないか」
中村さんの細い腕だけが伸びて来て、こちら側とあちら側の境目辺りに化粧ポーチがポン、と置かれる。
その肘の内側の、蚯蚓腫れのような跡や、細かな花びらのような赤い痣。
きっと、その抉られたような小さな空洞は、注射針の痕なのだろうと思う。
詳しくは知らないし、どういったものなのかも知らない。
でも、私が知る必要はないものだから何も聞かない。
「ありがとうございます!後で洗濯物、一緒に干しましょうね」
「おー、出かけるんだから、あんま酒飲むなよ」
「はあい」
そうだ、今日は夕方になったら中村さんと一緒にホームセンターに行くのだ。
私は化粧ポーチから折り畳み式の小さな鏡を出すと左手で持って、その場にしゃがんだまま、眉毛を書き、アイラインを引き、ビューラーでまつ毛を上げると、寝化粧よりもちょっとだけプラス、と思ってマスカラを上下厚めに塗る。
アイシャドウやチーク、ファンデーションは肌が荒れるのでやめておく。
一旦出した幾つかの化粧品と鏡だけをポーチの中に仕舞うと、中村さんの居る部屋へとさっそく戻る。
バックからスマホの充電器を取り出して、いつもの場所に刺すと、充電をさせてもらう。
今の「うたこ」は、「習い事へ行って帰って来て、自室に帰って仮眠をとっている」時間帯の予定なので、営業ラインはしばらくお休みだ。
念の為にマナーモードではなく、着信音は鳴るように設定しておいたけれど、後は午後になってからで良いだろう。
「起こしてやるから、少し寝れば」
「嫌です、せっかく一緒にいるのに」
「おまえって、ほんと、そう言う女だったのな」
「二回目ですかね、それ。どう言う意味なんですか」
私は深緑色のクッションの、中村さんが座っているその横、定位置になりつつある場所に膝を抱えて座り込むと、黒猫柄のマグカップに残された水割りを全て飲む。
そして、すぐにまた新しい水割りを作りはじめる。
「あんま飲むなって言っただろ、言うこと聞いとけ」
「って言うか!さっきのですよ。どういう意味なんですか?」
「あー、うーん、なんかもっと真面目で、まともかと思ってたな。イメージだけだと」
「私は真面目ですよ。まともである、って自信の方は残念ながらないですけど」
へらへらと笑って、水割りを飲んで、中村さんに寄りかかるとその体温を楽しむ。
エアコンも効いているし、酒もあるし、煙草も吸えて、好きな人が横にいるなんて最高。
私の杞憂や不安なんて、とても軽いものだと感じてしまう。
それってちょっと危うい。
この人が私の世界の全て、って感じで、危険だ。
わかってる、だから私はどんなに幸せでも、いつでもしっかり心の隅っこで、別れの予感に傷ついていなくてはならない。
「ま、うたはいいこだから、それでいいよ」
「中村さんがそう言うなら、私もそれでいいです」
ね、そうでしょう、私もそう思うもん。
言われるがまま、されるがまま、思惑通り良く働くでしょう。
だってそれしか出来ないから。
そうすることでしか、この時間を得られないとわかっているから。
そうすることでしか、自分って言う存在の意味や価値を感じることが出来ないから。
なんだ、とっくに私って人形で、傀儡だったんじゃん。
操ってくれる人を、探してただけなんだ、きっと。
でも中村さんは、完璧には操ってはくれないから、60点です。
「あのね、昨日は店で写真を撮りましたよ。ブログの練習!」
「ああ、シャンパンいっぱい入ったもんな、うたの卓」
「どういうのだったら載せてもいいの?」
「ちょっと見せて」
「あ、スマホ取って来ます」
私は充電させてもらっていたスマホを持って来ると、中村さんと顔を寄せ合って、一枚一枚写真を見せる。
中村さんは、和田さんに撮ってもらった、シャンパンを頬にあてて嬉しそうに微笑んでいる、ちょっと酔って頬が赤らんでいる私の写メと、マナミさんがキヨシくんの卓で撮ってくれた私のシャンパンのボトル一気飲みの写メを見て、この二つだったら良いのではないかと言った。
「木村さんの卓での写真が一番豪華だし、載せたくなるかもしれないけどな。他の客と腕を組んで一緒に写っている写真を見て、おまえのことを指名してる他の客はいい気はしないだろ。それに、たまたま見た人間だって、このくらいは用意しないと、このキャストは卓についてくれないんだな、って誤解するかもしれないし」
「ほほー、なるほど。そう言うもんなんですねえ」
「おまえ、ボトルの一気飲みなんかしてたのか」
「しましたねえ」
「なんでまた、似合わないことしたなあ」
「あの時は、それしか切り抜ける術が思いつかなかったんですよ」
あの時、私に出来る最大限の接客だったと思うのだが、中村さんから見たら、「店での私のキャラ」には似合わない対応だったらしい。
私のことを、どのようなキャストだと思っているのかは知らないが、それでも私は私なりに考えた最善策を取ったつもりだったので、仕方がない。
別の人間同士なのだから、私の「店でのキャラ」に関して、相違点があるのは仕方のないことだし、わかって、とも思わない。
客によってやり方を変えてもいるし、場の雰囲気やノリによってもコロコロやり方は変えるものだし。
「まあ、泥酔して寝たり、めちゃくちゃなことを言って客を帰らせたり、場を嫌な空気にしたりしなかったんだから、それは別にいいと思うけどな。ま、客にキレるのだけは、気をつけろよ」
「そんなキャストのお姉さんいないでしょう」
「ミサは昔はよくやってたよ」
「え!!ミサって何歳から店にいるんですか?」
「ミサは二回くらい出戻りしてるよ、二回辞めてる。でも、二回とも戻って来た」
「じゃあ、もっともっと若い頃からいたんですね」
「おまえら仲良いけど、あんまり店の話はしないんだな」
「しないですね。カラオケ行ったり、一緒にご飯したり飲んだり、遊びに行ったりはしますけど」
「ミサは、最近は大人しくなった方だよ」
そうか、ミサは若い頃はもっと激しい感じだったのか。
多分、私でも見たことのない、素のミサがまだいるのだろうし、もしかしたら今のミサは店では結構ちゃんと、気を遣っている方なのではないだろうか。
若い頃のミサは、泥酔して客を怒らせるようなことを言ってしまったり、無茶苦茶なことをやらかしたりしていたのかもしれない。
今のミサは、自分の指名客を増やして、それが例え枕営業の賜物だとしても、わざわざ慣れていないフリー客について嫌な気分にさせたり、自分が嫌な想いをすることのないように、自分を守っているのではないだろうか。
私は、ミサの苦悩を知らない。
だって、話してくれたことがないからだ。
私も、話したことはないし、これからも多分そう言う会話は私たちの間ではなされないだろう。
そうか、ミサだって、沢山苦しんで考えて、自分なりにやって来たのだろう、と思った。
ミサにだって、新人キャバ嬢だった時期があるのだ。
私は、その理由を知ることはないであろう、ミサの左腕に刻まれた自傷行為の痕を思い出す。
ミサも、かつては、私みたいなことで泣き喚いたりしたことがあったのだろうか。
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