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騙していてね
なんて?
そんなことあるわけなくない?
中村さん、夕飯、私と一緒に外で食べるって、そう言う話ですか?
そんなの、誰かにバレたら、見つかったら、どうするの?
店に来る客なんか、みんなどこに住んでいるのかわからないし、たった今、ついさっき、ナナさんとボーイのヒロトくんは付き合っていて、そのうちクビかもしれなくてヤバイって話をしてたはずでは?
え?それとも私か中村さんのどちらかが一人で外食に出る、って、そう言う意味?
「面白いな、うたは。いちいち驚くから」
「いや、え?だって、は?どういうことですか?」
「そのまんまの意味だけど」
「中村さん、何考えてるんですか?」
「いや、俺が食ったら、うたもちゃんと食うんだろ」
「コンビニで何か買って来たらいいんじゃないですか?」
「おまえ、カロリーメイト買うだろ」
「…よくわかりましたね」
やはり今日の中村さんは、ちょっと様子が変なのではないだろうか。
例えば、私がこの部屋にやって来る前に、何か、そう、気分が良くなるって言う、そう言う違法の行為にふけり、ハイになっているだけなのではないだろうか。
じゃなきゃ、以前私のことを突き放そうとして告げた言葉と矛盾が生じる。
俺とは、映画とか一緒に観に行ったりも出来ないって、一緒に出掛けることなんて出来ないって、そんなのおまえはつまらないだろう、って。
確かにそう言われたのを覚えている。
「軽いもんなら食うのか、うたは」
「は、い、…まあ、そうですね、ガッツリは食べられないです、けど、えっと、マジで?」
「飲み屋だけどいいか?」
「…中村さん?」
私は多分、ものすごく訝し気な顔か、驚愕している顔か、そのどちらかをしている。
拭えない疑念を抱いたまま、中村さんの横へ行って、自分も深緑色のクッションに座る。
煙草を一本箱から抜いてくわえると、火をつけて気を紛らわせるようにソワソワとした仕草で、二回ほど煙を吸い込む。
中村さんが次に紡ぐ言葉が、「冗談」であった場合は、さすがに怒ってしまうか、落ち込んでしまいそうだったので、そんな態度を取らない為にも落ち着く必要があった。
「最初に百均寄って、ホームセンター行って、丁度いい時間だろ」
「なんで、ですか?」
「何がだ」
中村さんは、こんなに優しい微笑みを浮かべる人だっただろうか。
以前、私の仕事ぶりを褒めてくれた時だって、もっと、どこか裏がありそうな笑顔をしていたような気がする。
いつだってそうだったような気がする。
こんな、「ほんとう」みたいな、そんな笑みが作れる人だったなんて、思わなかった。
「…騙されてる?」
「うたを騙して何か得するのか、俺は」
「します、中村さんは私をいいように騙して得をしてたらいいんです」
「おまえ、人のことなんだと思ってんの」
「ひどい人だと思ってますよ」
「そうか、そりゃあ心外だな」
「…嘘です、私の大好きな人です」
面と向かって告げるのは照れ臭かったので、目の前の壁の方を見て、忙しなく肺を汚し続けた。
中村さんの煙草はとっくに灰皿の端っこで燃え尽きていて、煙だけをあげている。
私が持っていた中村さん像と、本来の中村さんは、もしかしたらだいぶ違うのだろうか。
それとも中村さんは、ただの気分屋、ってやつなのだろうか。
考えるのが面倒になって来て、私は疑うことを一旦やめ、床に置いてある焼酎の瓶を掴む。
「うた、もう出るから、飲むなら後にしとけ。財布はいいから」
「そうですか?でも」
「そんな気になるなら、帰って来てからでいいよ」
「じゃあ、スマホと煙草」
中村さんは、私には止めた癖に、自分はグラスに残った焼酎を一気に煽った。
私は、一応、念のために、と思い、バックの中を覗き込んでヘアゴムを探し出し、適当に手櫛で髪を束ねてアップにすると、お団子頭を作る。
ブカブカの白いTシャツにデニムのハーパン、お団子頭にスニーカー、化粧も控えめ、…これならば、万が一客やキャストのお姉さんとどこかですれ違っても、私だとはわからないのではないだろうか。
煙草を消して、スマホをデニムのショートパンツの右の尻ポケットに突っ込んで、左の方には、なんとなく中村さんと同じ銘柄の煙草の箱とライターを詰め込んだ。
それから、バックからピンクの亀のキーホルダーのついた鍵を取り出して立ち上がる。
その間に、中村さんもテーブルの上に放置してあった黒い二つ折りの財布を掴んで、煙草の箱と一緒にジャージのポケットに入れて私の隣に並んで立った。
「じゃ、行くか。もし、百均に壁掛け用のフックあったら、そこで揃えられて楽だし、いいけどな」
「あー、ありそうですね。でも、粘着力弱そう。うーん、服ってそんなに重くないから平気かな」
「ま、見てみてからって感じだな」
私は、中村さんが乾いた洗濯物の山からパーカーを引き出して上に羽織っている間に、もう一度キャリーケースの前に行って、何かTシャツの上から着ても違和感のないような上着は持って来ていただろうかと探そうとする。
すると、中村さんが私の手を掴む。
何?どうしたの?時間、急いでるの?
彼は、わけがわからず戸惑っている私のことを無視して、布団のある部屋を出ると、キッチンの方へと連れて行く。
「あの、中村さん、でも、私」
「気にしなくていいから、そんなの」
「でも、不幸そうに、悲劇のヒロイン気取り、みたいに思われたら、嫌じゃないですか」
「誰もおまえのことなんかそんな見てないよ。見ても、すぐに忘れる」
「それはまあ、そうなんでしょうけど…」
私は、そんな中村さんの言葉で、手首から肘の内側までをビッシリと埋め尽くす傷痕を晒して外を歩く羽目になった。
中村さんは長袖を着ているのに、私はこんな情けなくてみっともない、瘡蓋と縫い痕だらけの、汚らしい腕を露わにした姿で好きな人と共に出かけるのか。
そう思うと、なんだかとても哀しくて、でもちょっと面白い、不思議な気分になった。
小さな玄関まで辿り着くと、中村さんは私の手を離して、バラバラに脱いだせいでひっくり返っていたビーチサンダルを自分の方へと引き寄せる。
私は靴箱の上に置きっぱなしにしていたブランドの紙袋に気づいて、そうだった、ハイヒールを仕舞うのを忘れていた、と思い出す。
紙袋の取っ手を掴むと、中村さんに「ここ、開けてもいいですか?」と訊ねて、「いいよ」と言われたので、開けてみる。
その靴箱はフラップ扉式で、二段に分かれている白いもので、少しばかり埃をかぶっていた。
なんとなく上から順番に、と、一段目をあけると、ダークブラウンの革靴と黒の革靴が一足ずつ、つまり合計二足の靴が入っているだけだった。
下の二段目を開くと、空っぽで何も入っていなかったので、再び中村さんに断りを入れると、紙袋からスニーカーを出し、それは玄関に置いて、次にハイヒールを靴箱の中に一足ずつ並べて入れて、フラップ扉を閉めた。
「中村さん、まさか、冬でもビーチサンダルなんですか?」
「一応スニーカーあるよ、窓の外んとこに」
「全然気づかなかったです」
「ゴミ袋置いてるしな、今年は買い替えるかな」
中村さんは既に玄関のドアを開けて外廊下に出ている。
私も急いで素足にスニーカーを履くと、彼が開けっ放しにしてくれている長方形の淡い藍色の空間へと踏み出す。
そうしてニッコリと笑って見せると、さっそくデニムのポケットからピンクの亀のキーホルダーを取り出して、ドアがその重みで勝手に閉まりきるのをワクワクとしながら待つ。
「私が、鍵閉めてもいいですか?」
「おまえ、もう準備してるのにきくのか」
「だって、実はこの鍵が、偽物かもしれないし」
「ちゃんと本物だよ」
呆れたような笑い方。
彼は、いい加減に少しは信用しろ、なんて言うけれど、何をどう信用してもいいって言うの?
いつだって肝心な「普通名詞」である言葉が抜けているので、どう思ったら良いのかわからない。
だって「恋人」って「普通名詞」だよね。
まあ、恋人はないか、年齢は10歳も離れているし、私に弱みを見せたり弱音を吐いたりはしてくれないし、甘えて来ることだってない。
いつだって中村さんは中村さんのまま。
でも、多分今日だけちょっと特別、ただそれだけかもしれない。
私は閉まり切ったドアの鍵穴に、中村さんの部屋の鍵を差し込むと、ガチャリと音が鳴るまで、ゆっくりとその瞬間を噛みしめるように、それを回した。
それから外廊下を一緒に歩く。
横に並んで歩くには少しばかり狭そうなので、私が中村さんの少し後ろをついて行く。
店のフロアで、客の卓に案内される時のように。
けれど今日は、今は違うのだ。
中村さんはマネージャーではなくて、私もキャストではない。
「本物だったね」
「本物だって言っただろ」
「あんまり私のことを、調子に乗せないで下さい」
「うたは、このくらいで調子に乗るのか」
「めちゃくちゃ乗りますね」
「欲がないなあ」
「それ、木村さんも言ってました」
めちゃくちゃ欲深いと思うんですけどね、私は。
だから、調子に乗るのは怖いんです、奈落の底に落ちた時に自分が何をしでかすのかわからないから。
気を付けて、気をつけて、小さな幸せにいっぱいいっぱい喜んで、期待はちゃんと捨てるんです。
それでいいから、お願いだから、しっかり最後まで、ちゃんと上手く騙していてね。
エレベーターに乗って、中村さんの部屋のあるマンションを出るまで、私はピンクの亀のキーホルダーと、その鍵を手のひらに握り込み、心の中で何度もそう唱えていた。
そうして二人は、軽率な、それでも私にとっては素敵で幸福な、そんな行動を重ねることとなった。
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