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今日だけ彼女
私は、中村さんの目指す百均やホームセンターが何処にあるのか知らなかったので、彼について行くしかなかったのだが、まさか、そんなバカな、と再び驚かされることとなった。
てっきり、彼の住むマンションの近くに商店街でもあって、そこに百均やら小さなホームセンターっぽい店なんかがあったりするものだと考えていたからだ。
はじめはのんびり二人で歩いて、他愛もない会話をしながら、人通りの少ないマンションやコンビニくらいしかない、そんな道沿いを歩いていた。
けれど、周りの風景が少しずつ変わって行く様に、私の言葉数はどんどんと減って行く。
いくらなんでも、中村さんからの嬉しい提案だったとは言え、軽々しく乗ってしまうべきではなかった、と思い、焦りを隠せなくなって来る。
私は、二人で並んで歩けるだけで、それだけで良かったのに。
ますます中村さんのことと、自分の立場と言うものがわからなくなってしまい、こっそりと頭を抱える。
私、中村さんがクビになるのも、自分がクビになるのも嫌なんですけど、何考えてるんですか一体。
彼が向かったのは、中野駅のすぐ近くにある、中野ブロードウェイと言う結構大きな規模のショッピングセンターだった。
確かになんでも揃うであろうと思われるところではある。
と、言うか、私だってちょくちょく買い物に来たりしていたし、友人だってこの近くに住んでいる。
それなりに賑わっているそこは、もしかしたら店に来る客や、キャストのお姉さんだって訪れたりするのではないかと思われる、そんな場所だった。
ハラハラと焦り、中村さんから少々距離を取って後ろを歩く私を他所に、彼は時々「置いてくぞ~」なんて、振り返って声をかけて来たりする。
結局私は、せっかくの二人でのお出かけなのに、浮かれることなど出来るはずもなく、額に冷や汗をかきながら買い物を済ませることとなった。
俯いて、買った物が入っている白いビニール袋を手首から下げて歩く、そんな中村さんのカカトと薄っぺらいビーチサンダルの底だけを見つめて進む私に、さらに彼はとんでもない言葉を言い放つ。
「うたー、手でも繋ぐかあ」
「はい!?」
「おまえ、歩くの遅すぎ」
「いやいや、何言ってんですか!!」
「嫌ならいいけど」
「えっ!!あ!!ううん!!嫌じゃない!!嫌じゃないですけど!!」
「じゃあいいな」
中村さんが立ち止まるとこちらを向いて、数歩来た道を戻り、私の左手のひらを自分の右手で握る。
そうして、ぐい、っと私の体を自分の隣まで引き寄せた。
なにこれ、なんだこれ、なんの罠なの、私に店を辞めろと言うことか。
それとも中村さんが店を辞めたいのか。
わからない、もしかして、中村さんなりに考えてくれた、最後のお別れ前のデートとか、そう言うつもりだったとしたら、私はどうしたらいいんだ。
けれど、つい先ほど、私が彼の部屋に居続けても良いと感じさせてくれる物たちを購入したばかりでもある。
つまり、私はただ幸せな気持ちで、この状況を楽しんでも良いと言うことなのだろうか?
やだ、騙されない、奈落の底はごめんだ。
行き交う人の多い、広い通りを二人で並んで歩く。
後ろから見たら背の差があり過ぎて、まるで兄と妹、それどころか下手をしたら親と子に見えてしまうかもしれない。
それならばいっそ、もし誰かが私たちを見かけてしまっても、どうかそう誤解して下さい、と祈る。
私は彼の顔を見ないように、真っ直ぐ前だけを見つめながら声をかける。
「…中村さん、見つかったらどうするんですか、何考えてるんですか」
「うたは、何にも気にしないんじゃなかったの」
「…気にしない、にも限度がありますよ、私だって」
「大丈夫だよ、多分。それにな」
「なんですか」
「たまにはいいだろと思ってな、こういうのも」
「…そうですか」
中村さんが、大丈夫だ、と言った。
じゃあ、きっと大丈夫なのだろう。
たまにはいいだろと思った、と、そう言った。
じゃあきっと、いいのだ、たまにはこういうのも。
もしかしたら、私の為に、私の中に優しい思い出を残す為に、こんなことをしてくれたのかもしれないと、そんなことを考えた。
私は、もう今日だけは良いのだ、と言うことにして気持ちを切り替えた。
人の多い大きな広い通りから、途中で横に逸れる細い路地へと入る。
ビッシリと立て並ぶ、小さな店や小さなビル、時々大きなビル、その隙間を縫っているだけのような道にすら、人は沢山歩いている。
私はドキドキとしながら、中村さんが繋いでくれた方の手にギュっと力を込める。
中野駅の付近には居酒屋もかなり多く、キャバクラも確か2、3件はあったはずだ。
「普通の飲み屋だけど、店員と店長が知り合いでたまに行くんだよ」
「へえ、中村さんは居酒屋さんに一人で行くんですか?飲み屋って言うから、バーとかだと思ってました」
「だいたい一人だけど、一応俺にだって友人くらいいるよ」
「え、そうなんだ。いや、そうですよね、そりゃ、いますよね」
「だからおまえは、俺のことなんだと思ってんの」
「今や、ますます謎の人でしかないです」
中野サンプラザのある方へ抜けて、今度は駅のある方面へと向かって曲がり、立ち並ぶ店やビルに沿って狭い歩道を歩いて行く。
もう既に酔っている人や、日曜だったけれど、仕事から帰路についているのであろう様子の人、飲みに出かけるところなのか、私たちのように酒や夕食を目的として、良い店を探しているような人。
様々な人たちの、その間を抜けて、中村さんと手を繋いで、雑踏の中を「普通のカップル」みたいに、何気ない会話を続けて進む。
そして、中村さんが立ち止まったのは、一軒のビルの、少し奥まった位置にあるエレベーターの前だった。
先ほど全てを振り切ったばかりの私は、彼にピッタリと寄り添って、少しの間だけ彼女面する気満々で、ウキウキしながらランプが一階を示す枠内を染めるのを待っていた。
だって中村さんが、自分の知り合いに私のことを紹介、ではないけれど、とにかく私と一緒にいるところを平気で見せる、と言うことでしょう。
そりゃあ、自分たちの勤めている店と関係のない人たちなのだろうから、全然平気だし、関係のないことなのだろうけれど、それは私にとっては凄く嬉しいことだった。
「刺身とか、焼き鳥とか、最低サラダでもいいから、何か食えよ」
「私、お刺身はマグロしか食べられないんで、焼き鳥食べます」
「俺もたまには何か食うから。だし巻き卵とか」
「卵ですか。炭水化物とかタンパク質、摂取しないんですか」
「卵ってなんなの、なんの栄養なの」
「え、なんだろ、もしかしたらタンパク質かも」
「じゃ、いいだろ」
エレベーター内で適当に喋って、日曜の夜だし、混んでいるのではないだろうか、と少し心配もしつつ、中村さんの目指す居酒屋の入っている階に辿り着く。
扉が左右に開いて、一歩店内に踏み出しただけで、元気よく「いらっしゃいませー!」と言う店員の声が幾つか飛んで来た。
この居酒屋は、少し早めの時間帯から開店しているとのことで、店内の広い席は既に大人数の若者たちで埋まり、少し遠くに見えるカウンター席の方も少人数の客が一席ずつ開けて座っているように見えた。
「座れないんじゃないですかね」
「俺、うたが寝てる間に電話しといたから、あいてるよ」
「…そうなの?」
「おまえ、断らないと思ったから」
「…さすが、わかってらっしゃる、ちきしょうです」
ボソボソと喋る私と、とことん何を考えているのかわからない中村さん。
そんな私たち方に、大きなジョッキを両手に器用に三つ、四つくらいくっつけて持ち運んでいる、金髪で襟足の長めな、ピアスを沢山つけた体格の良い男性の店員が一瞬訪れて、人懐っこい笑顔を向けて来た。
中村さんが片手を上げると、彼に向かって声をかける。
「久しぶり。時間、遅れて悪いな。今日、混んでんなあ」
「全然平気っすよ、ちょっとこれだけ運んで来ちゃうんで、待ってて下さいねー!」
少しぽっちゃりとしているからか、背は中村さんと同じくらいあるのに、彼より少し若く見えるその店員。
二人からは、かなり親しそうな雰囲気を感じた。
なるほど?
居酒屋の店員とキャバクラの男性スタッフは、仕事が終わる時間もだいたい同じようなものだろうし、もしかしたら、仕事上がりなどによく遊びに行ったりするのかもしれない。
その店員は、ジョッキを若い男女たちが囲むテーブル席に一つずつ並べ、何か挨拶を交わすと、私たちの元へと颯爽と戻って来る。
「今日、あのコいるの?」
「いますよー!後でオーダー取りに行かせますね。個室あけてあるんで、こちらへどうぞー!」
「…中村さん、あのコって誰ですか」
「ああ、丁度おまえと同じくらいの歳、二十歳だったかな、ここでバイトしてるコがいるんだよ」
「ふーん、なんか、おじさんみたいな聞き方でしたよ」
「ははは。俺はうたからしたら、おじさんだろ」
そんなことないもん。
中村さんはカッコイイんだから。
中村さんが予約してくれていたらしい個室へと案内してくれる、その店員の後を追いながら、私はちょっとした悪態をついてしまう。
あのコいる?って、もしかしてそのコは中村さんのお気に入りの女のコだったりするのだろうか。
でも、繋いでいる手は離さないでくれている、と言うことは、そのコのことは恋愛対象外と言うことで良いのだろうか。
まあ、私も対象外でしょうけど。
「こちらのお部屋になります。あ、中村さんはボトル持って来ますかー?」
「えっ、居酒屋さんって、ボトルとかキープ出来るんですか?」
「できますよー!それと、中村さんは店が終わってからも、たまに店長と喋って飲んでたりするんで、ちょっと特別なんです。秘密ですよ」
「じゃ、持って来て。今日はコイツもいるから、長居はしないけどな」
「了解致しましたー!では、ごゆっくりー!」
この居酒屋は、今はだいぶ内装や雰囲気が様変わりして、禁煙の席が多くなったようだが、私がまだ19歳の時は喫煙可の個室もあったのだ。
私たちが通されたのは、その喫煙可能である二人用の個室で、掘りごたつ式の席になっていた。
テーブルの上、壁のすぐ横には割り箸や爪楊枝、醤油やソースなどの瓶、メニュー表や、注文をする際、店員を呼ぶ為のオーダーコール、そして灰皿などが完備されていた。
「ねえ、中村さん。もしかして、私、今日だけ彼女でもいいってことですか?」
「はは、うたは素直だな。そうだな、別にいいんじゃない」
「やった!もっと早く聞くんだった!ずっとハラハラしてて、疲れちゃいました」
「どうせ誰もわかんないって。おまえ、見た目全然違うし、俺だってこんなんだぞ」
「ふふふ、そうですね、ほぼパジャマでしたね、私たち」
二人でメニュー表を覗き込み、中村さんはこの店の店長が取っておいてくれている酒を飲むと言うので、私だけ柚子サワーを頼むことにする。
食べ物は、正直言ってお腹はすいていなかったのだが、中村さんがさっき言っていたし、だし巻き卵と、後は焼き鳥を数本と、シーザーサラダを選ぶ。
それから小さな灰皿をテーブルの真ん中に持って来ると、私は煙草とスマホをポケットから引っ張り出して手前に並べた。
中村さんも煙草を出して、それから当然のように私に言う。
「うた、ライター借して」
「はーい、どうぞ」
「ははは、客じゃないんだから」
「あ。そっか、今日だけ彼氏、ですね!」
私は、ついついいつもの癖で、向かい側に座っている中村さんの方に身を乗り出し、右手でライターをつけ、そこに左手のひらを添えて、彼がくわえた煙草に向かって差し出す、と言う行動を取っていた。
まるで客にそうする時と全く同じように、煙草に火をつけてあげてしまった。
苦笑する彼は、それでも私が手にしたライターの火で煙草の先端を橙色へと変えると、スーッと息を大きく吸い込んだ。
私も吸おう、と思って、煙草を一本箱から出した時、頭の上から腕が伸びて来て、二人の前にポン、ポン、と、一つずつ袋に入ったおしぼりが置かれ、女のコの元気な高い声が響いた。
「いらっしゃいませ!中村さん。お通しと、ボトルとグラス、それから氷です。割物はどう致しますか?一応、ロック用のグラスにしましたけど、変えますか?」
「カナちゃん、ありがとうね。ロックでいいよ、それから、注文いい?」
「はい!どうぞ!今日は、お一人じゃないんですね」
「ああ、うたこだよ。カナちゃんの一個下。仲良くしてやって」
「うたこちゃん、よろしくお願いしますね。お二人とも、ゆっくりして行って下さい!」
「カナ、ちゃん?ですね!こちらこそ、よろしくお願いします」
私も微笑んで返事を返すと、中村さんが私の酒と、決めておいた食べ物の注文をはじめる。
まさかこのカナちゃんと言う女のコに、いずれ私が救われる日が来ることになろうとは、この時はまだ知りもしなかった。
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