482人が本棚に入れています
本棚に追加
/610ページ
気になることだらけ
瞼を開くと、冷房を消してから眠ったので少しばかり暑く感じた。
部屋はだいぶ明るくて、そのことから、太陽が既にそこそこ高い位置まで昇るような時間帯であることを察する。
私は眠った時と同じように仰向けの中村さんの腕に自分の腕を巻き付けて体を寄せたままだった。
その中村さんと言えば、頭は枕に、そして上半身もシーツに埋めたまま、と言った様子で、どうやらはじめて私の方が先に起きたようだと気づく。
そうっと首だけの力で頭を上げると、中村さんの顔を窺い見る。
ああ、うん、そうだ、どうやら当たり。
彼は、まだ夢の中にいるようだった。
気にしたことがなかったのだが、まつ毛自体は多くはないようだけれど、とても長いのだなと思った。
頬に唇で触れる、一瞬だけのキスをして、溢れてしまいそうな愛しさを、気づかれないようにして伝える。
私はそっと絡めていた腕を解いて、静かに壁際の方から布団を出る。
ブラとパンツだけは身に着けて寝たので、枕の隅に放置してあったTシャツを拾って被りながら、自分のスマホを充電させてもらっているところまで足音を忍ばせて進む。
昨夜私はスマホを手にしたまま寝てしまったはずだったから、多分中村さんが充電器に刺しておいてくれたのだろう。
丁度、そこまで行く通り道に放ってあるのに気づいて、エアコンのリモコンを拾い、冷房をつけておく。
ああ、窓際に来るとやはり眩しい、結構沢山の時間を睡眠に費やしてしまったようだ。
そんなことを思いつつ、フローリングの床にペタンと座り、スマホを起動させる。
11時半。
もう昼ではないか。
しまった、朝の営業ラインを一つも出来ていなかった、と焦り、だいたいの社会生活を送っている人々は、多分これから昼休憩へと入る頃だろうと考え、急いで指名客やフリー客のライン画面を開くと文章を打ちはじめる。
それからもちろん、山口さんからのラインにも、短い返事と、今日の同伴を楽しみにしています、と言う内容と共に、以前撮りだめしておいた自撮りの中から、まだ送ったことのないものを探し出して共に送る。
ミサから、は…と、ミサのラインのアイコンへと目をやる。
けれど、そこには新着のメッセージを知らせる表示はついていなかった。
一応やりとりを開いてみるが、私が最後に送った、長めの心配していると綴った文章と、話を聞くよと言う内容に既読がついているだけで、返事はやはりなかった。
今日の夜は、平日の月曜だし。
多分アフターなどは入らないと予想される。
店が終わってから、改めてミサに連絡をしてみようか。
「あー、寝た寝た。おー、うた、起きてたの。おはよ」
「中村さん!おはようございます。中村さんて、寝るんですね」
「寝るよ、そりゃ。おまえと約束もしたしな」
「ふふ、守ってくれて、ありがとうございます」
「冷蔵庫に、コーヒーあるぞ」
「え、そうなの?なんで?」
「前に、おまえ飲んでたから、なんとなく」
「嬉しい!」
一応は目覚ましのアラームが鳴る前には二人とも起きることが出来たが、それでもかなりゆっくりと休めたことには変わりない。
私は、中村さんが起き上がって服を着ている間にキッチンへ行くと、まずは洗面所で顔を洗ってタオルで拭い、それからシンクのある方へ行き、冷蔵庫を開ける。
すると中には、確かに缶酎ハイやビールの缶だけではなくて、コーヒーが三つほど入っていた。
私はそのうちの一つを取り出して、布団のある方の部屋へ戻り、スマホを充電器から外して、定位置である深緑色のクッションに胡坐をかいて煙草を吸っている中村さんの横へと座る。
「うた、ミサから連絡あったか?」
「…それが、返事、来てなくって」
「そうか。一応連絡はして来たわけだし、無断欠勤ってわけじゃないからな」
「明日って言うか、店上がりにでも、ミサが大丈夫そうだったら、会えたら会おうかと思ってて」
「大丈夫か、おまえ。今日、多分かなり酔うだろ」
「だからお願いなんですけど、私が潰れてたら、ひっぱたいてでもいいから起こしてくれませんか」
「ひっぱたきはしないけど、そうだな、出来るだけやってはみるよ」
「ありがとうございます、頼みましたよ」
私は中村さんと顔を合わせないようにして会話をして、化粧ポーチをテーブルの上に乗せる。
折り畳み式の鏡を目の前へと設置して、さっそく、まずは一番重要である眉毛を描く。
それからコンタクトレンズをケースから出して装着し、アイメイクをするべく化粧へと取り掛かる。
私的には、そのコンタクトレンズが重要で、瞳を違和感のない程度のピンクベージュの縁取りの、少し黒目部分が大きな女のコ、と言った風に見せることが出来るので気に入っていた。
アイラインを瞼とまつ毛の生えている部分の隙間が埋まるよう、気を付けて塗り潰し、目尻までスウッと引く。
キツイ印象よりも甘い印象になるように、先はほんの少しだけ上げる。
アイシャドウやらリキッドファンデーションやらで適当に顔を作りつつ、私も煙草を箱から一本取り出すと、くわえて火をつけた。
中村さんが買って来ておいてくれたコーヒーの、その脇にくっついているストローを剥がしてビニール袋から出す。
蓋の部分の丸い穴のあくところにそれを差し込んで飲みながら、煙草を吸って、化粧をしつつ、スマホで営業をかけ続ける。
中村さんの方も誰かに連絡をしているのか、文字を打っている様子で、しばらくお互いの煙を吸い込む音と、カチャカチャと私が化粧品を弄る音、紫煙を吐き出す吐息だけが部屋の沈黙を辛うじて壊していた。
化粧が終わり、営業ラインがひと段落つくと、次は友人たちへの返信をはじめる。
私は一本目の煙草を消して、今度は中村さんと同じ銘柄の煙草を取り出して火をつけ、吸い始める。
理由はわからない。
今日も、きっと哀しい気持ちになるようなことがありそうだったから、前以てそうしておいた。
私は感情的だったし、中村さんには秘密だが、酔って山口さんの前で泣いてしまったことがある。
理由はいずれ説明するが、あまりにも酔っぱらうと、涙腺は簡単に脆くなってしまうのだ。
今日は、なんとなく、その時に泣かないようにする為に、と思った。
動かし続けていた指先が、とある二人の名が並んで記されている、まだ見慣れないアイコンを残し、止まる。
友人、と言うか…昨日友人になったばかりの、そんな二人。
まだ多分友人ではなくて、知り合い、もしくは中村さんの友人、でしかない二人である、居酒屋の店員。
昨夜、居酒屋から歩いて部屋に戻って来てから、色々と設置し終わって、ブログを開設したり、イチャついたりなんかしてる最中に、中村さんが私に教えてくれた、あの居酒屋の店員であるカナちゃんとアオイくんからのラインだ。
朝方に何度かやりとりをして、中村さんとセックスした後も、私が眠剤で寝落ちするまでの少しの時間、しばらくラインを続けていた。
私は、てっきり彼らは付き合っているのだろうと思っていたら、どうやらそうではないようだった。
アオイくんは27歳で、ずっと若い頃からあの居酒屋でバイトをしていて、ホールでのチーフだったかな、多分そうだったと思うのだが、まあそう言う、うちの店のマネージャーと良く似た類の業務をこなすらしい役職を担っているとのことだった。
一見、もう少し若そうに見えたので、年齢を聞いた時は意外だった。
カナちゃんは二十歳で、もうすぐ二十一歳だと言う。
まだあの居酒屋で働き始めて1年ほど経ったばかりだと教えてくれた。
東海地方の方から、私と同じで18歳の頃に東京に上京して来たとのことで、特に専門学校や短大などには通っておらず、はじめは会社勤めをしていたらしい。
高卒で、いきなり東京で一人暮らしをはじめ、普通のOLをしていたのだと言う話を聞いて、私はなんて偉いんだ、と感心してしまった。
多分、18歳の頃の私は、OLとして採用されることはなかったであろうし、そもそも会社勤めをしようと言う発想もなかった。
けれど、今はあの居酒屋でほぼ毎日フルタイム勤務しているそうだ。
店長がさすがにたまには休日を取れと言うので、仕方なくたまに休みを入れる程度で、ほとんどの時間をあの居酒屋で過ごしたいくらいだ、と言い出しそうな勢いだった。
そんなラインのやりとりに、彼女はどうやらあの居酒屋での仕事が相当好きなのだな、と、私はそんな風に思った。
つまりアオイくんはカナちゃんの上司であり先輩だ。
中村さんは店長とも仲が良いらしいし、アオイくんも店長や中村さんとカラオケに行ったり飲みに行ったりするそうだ。
そこには、カナちゃんもいたり、いなかったり、様々だと言う。
カナちゃんは第一印象の通り、とても良いコで、ラインの文章からもそんな彼女の人柄が良く伝わって来た。
見た目の大人っぽさとは少しギャップがあり、どちらかと言うと可愛らしいと言う印象を抱かせるような女のコだった。
お互い敬語はやめよう、と言って、ラインの文章上ではもう敬語ではなくてタメ語でやりとりをしていた。
二人で飲みに行こうと言う約束もしたし、私が店をあがった後で、いつでもうちの居酒屋においでよ、きっと中村さんの彼女ならば店長も歓迎してくれるよ、と、そんなことを無邪気に送って来てくれた。
私はその一文に、なんと答えたら良いのかわからず、そこで返信を送るのを一旦やめて、そのまま寝落ちしてしまったのだった。
「やれやれ、ナナは頑張ってるんだけどな」
「あ、連絡、またナナさんだったんですか」
「ナナは今日も出勤予定だからな。同伴がしてみたいらしい」
「指名客、いるんですか、ナナさんには」
「たまに指名もらうけど、その客はコロコロ指名を変える客なんだよな」
「…それは、残念ですね。でも月曜ですし、平日ならフリー客も多いですし!ナナさんの元気キャラ、私はいいと思います!」
「そうなんだよ、あいつはそんな悪くないんだよ。間が悪いだけで」
「なるべく私も、同じ卓になったりしたらフォローしますね!」
「無理しなくていいよ。今日は月曜だけど、山口さん来るだろ」
「まあ、はい、なんとか頑張ろうとは、思ってます…!」
そうだった、今日は山口さんと同伴するのだった。
呑気に人様のことを気にかけている場合ではないし、そんな驕りなど私には禁物だった。
忙しなく煙草をもう一度指で挟んで煙を吸い込むと、本物の大きなため息を誤魔化すように、ふうう、っと憂鬱さを煙と共になんとか逃がそうとする。
山口さんは、結局どこにある、どんな雰囲気の、なんと言う店に私を連れて行こうとしているのかは教えてくれなかった。
もしかしたら、どこか高級な店に行くのではなく、ただ単に私に着せてみたい服などの買い物へ行くだけの予定なのかもしれないし、どの程度気合いの入った服装を選べば良いのだろうと頭を悩ませる。
「22時までに、店入れそうか」
「山口さんは、いつも結構ギリギリですね。でも、一応遅れたことはないので、大丈夫かと」
「そうだ、うた。服着てからでいいから、写メ撮って、出勤前のブログ書いてみろよ」
「ブログ、ですか?」
「そうそう、せっかく作ったんだから。それ見て、来店する客もいるかもしれないだろ」
「それもそうかも!指名が増えたら、山口さんの卓でずっと飲んでなくてもいいですしね!」
「文章は適当に、いつものうたの感じで大丈夫だから。今日も頑張ります、って、そう言うやつな」
「なんだかやる気出て来ました!そうしてみます。えっと、スマホにアプリをおとしたんでしたよね、あ、コレか。…え、ナナさん、もうブログアップしてる」
「ナナは、写メはいいんだけどな。内容がちょっとな」
中村さんも、ナナさんのブログには、どうやら私と似たような感想を持っていたらしい。
確かに、ナナさんのブログの文章はちょっと何を言いたいのか、伝えたいのかがよくわからず、一定数の人間から見た場合は、一貫性がないように感じるかもしれない。
全ての内容がその日その時の気分次第で構成されており、ポエムに至っては理解する以前に目が滑る、と言うかなんと言うか。
もっと短く、端的に、言いたいことだけをズバッと書いてしまった方が良いのではないだろうか。
彼女らしく、堂々と、「指名で来てくれたら嬉しです!!」とか、「一緒に飲みましょうね!!」とか、私シャンパン飲んだことないので、飲んでみたいです!!」とか。
いやでも、私もブログなんて書いたこと、今まで一度もないしな。
上手く出来るかわからないのだから、人のことをアレコレ言えた義理じゃない。
でも、頑張ろう、頑張ってみよう。
それにしても今日は、気になることばかりだ。
ミサのこと。
山口さんの連れて行ってくれる場所のこと。
カナちゃんと、アオイくんのこと。
ナナさんのこと。
一番は、中村さんのこと。
私は、ぐるぐると頭の中で色んなことを考えながら、なんとなしにナナさんのブログへと飛んでみた。
最初のコメントを投稿しよう!