囲われものの女

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囲われものの女

まだ空は暗くはないけれど、少しずつ少しずつ夕暮れがやって来て、急かすように東の方へも腕を広げて行く。 早々と明かりを灯しはじめるビルや店、街灯なんかが、この席からは良く見ることが出来た。 だいたい新宿駅の近くであろうと思われるこのレストランバーから、店に遅刻することなく辿り着きたいのであれば、最悪21時半前には出なければならない。 その頃までには、きっと美しい夜景を見渡すことが出来るであろう、と言う考えと、もうすぐ18時になるので、3時間程度の時間ならば飲み過ぎてしまう、と言う事態は避けられるのではないだろうか、などと言う、甘い考えが頭をよぎる。 「スパークリングワインを頼むけれど、うたこさんも同じでいいかな」 「はい、山口さんは夕食はどうされますか?何か、頼まれますか?」 「そうだね、少し摘まめる程度の物にするよ。僕、今ダイエットをしているんだよね」 「え!山口さんは、そんな、気にされるような体型ではないと思いますけど」 「もっとスマートで、カッコイイおじさんになりたいんだよね、僕は」 「十分素敵な方ですよ、山口さんは」 そんな風に行って微笑んで、視界の隅で他のカップルの客を覗き見てしまう。 本当だ、どうやらそんなに堅苦しい、きっちりとしたドレスコードのあるレストランバーと言うわけでもないようだ、と思えて安心する。 むしろ、逆に私の方が浮いているくらいなのではないだろうか。 スキニージーンズの女性や、シンプルめなジャケット姿の男性なんかもいる。 もちろん、ミニドレスやスーツを纏っている人々もいるが、そこそこカジュアルな服装の客も少数見受けられた。 どのみち、どう見たって私たち二人は、同伴に気合いを入れすぎなキャバ嬢とその客、にしか見えやしないのだから、まあいいか。 しばらくして、店員に山口さんが色々とメニューをオーダーし、それらが届くまで他愛のない会話をして、彼を良い気分にさせるよう努める。 山口さんは時々私に断りを入れてから、自分が持って来たカメラで写真を撮影する。 その度に私は少し恥ずかしがって、照れた素振りをしながら、頼まれたそれとないポーズをぎこちなく取ったりする。 そのカメラは、彼は「インスタントカメラのようなものだよ」と言っていたが、その場で撮影した写真を確認できるもので、スマホと連携させればスマホで撮影したものも印刷が出来たりするらしい。 私は機械や電化製品、そう言ったものには物凄く疎いし、興味もないので、あまり理解は出来ないし必要に迫られない限りは学ぼうとは思わないのだが。 そんな私を撮影するのが好きな山口さんはたまに、「これ、良く撮れていたから、君にも」なんて言って、何枚か厳選した写真をわざわざ封筒に入れて持って来て、私にくれることがあった。 ビッシリと長い文字で埋め尽くされた、何十枚もの便箋に綴られた手紙と共に。 まあ、そんなことをやっている間にスパークリングワインがやって来て、私たちは楽しい気分で乾杯をして、二人とも一緒にシャンパングラスの縁に唇をつけた。 山口さんは夕食がまだだったのであろう、ステーキを頼んでいたので、それを美味しそうに食べ始める。 私の方は、店に来たばかりだと言うのに、初っ端からデザートであるアイスクリームを頼んでいた。 私は思いつきで、まだ一口しかつけていないスパークリングワインの入ったグラスと、可愛らしく飾りつけられたアイスの入っているアイスクリームカップを、窓際の方へと寄せ、景色も写るようにと並べてから、スマホで撮影してみる。 「うたこさん、ブログに載せる為かな?」 「あ、はい。よくわかりましたね!楽しんでいるのが伝わるような写真が撮れたらなって思ったんですけど…まだ手探りなので、どんなものを載せたら良いのかが、全然わからなくて」 「じゃあ、美味しいワインでもボトルで頼んで、外がもう少し暗くなって来たら、うたこさんも一緒に写るように僕が撮ってあげるよ」 「え、いいんですか?でも、どんなボトルが映えるのかも、私にはまだ良くわからないんです」 「僕のオススメでもいいなら、悪くはないと思うよ。良かったら、一緒に飲んでくれないかな」 「助かります、お願いしちゃっていいですか?」 「赤ワインなんだけどね、もちろんボトルでも、一杯ずつでも頼めるから。うたこさんはお酒に強いし、僕もワインならば結構飲めるからね。君は、ワインは飲んだことある?」 「お恥ずかしんですけれど、ないんです。だから私、飲み方のマナーとかも、わからなくて…」 「僕が教えるから心配しないでね。それに、ボトルで頼んでしまえば、後は二人きりで自由に飲めるからね」 そう言うと、山口さんは、「店を出る前に、店員に頼んで二人で写っている写真も撮ってもらおう」と言うと、満足そうに再びステーキを口に運んだ。 私は、窓の近くに並べたスパークリングワインとアイスクリームを引き寄せると、アイスから先に堪能して、その後でスパークリングワインを酔わないように、一気飲みしないように、気を付けながら少しずつ飲んだ。 そんな私の姿を、やっぱり山口さんは時折眺めては、何枚か写真に残す。 ステーキもアイスクリームもスパークリングワインの入っていたシャンパングラスもからっぽになったところで、山口さんは店員を呼び止め、さっそく赤ワインを注文し、ワイングラスも二つ頼む。 その赤ワインってやつが、物凄く名称が長いもので、一体それは何の飲み物なんですか、どこかの異世界物ファンタジーに出てくる異国の王子の名前か何かなんですか、それともRPGのラスボスかなんかなんですか、と言ったような言葉の羅列で、私には到底覚えられそうにもないようなものだった。 「食べ物を頼まずに、お酒だけを頼んで飲むのって、こう言うお店的にはOKなものなんですか?」 「自由だと思うよ。うたこさんは、まだ慣れていないかもしれないけれど、ここはもっと気軽に来ても大丈夫なお店なんだよ」 「そう、でしょうか。私からしたら、お店の雰囲気からして臆してしまうような作りですし…照明だって、こんなに控えめで、高級感がある作りだし…」 「いつか、うたこさんが僕の案に乗ってくれたら、ちゃんと本物の高級なお店に連れて行ってあげるからね」 「…ああ、はい…そうですね。でも、私まだ、答えが出せなくて、…ごめんなさい」 しまった、さっきのセリフの内のどれかが藪蛇だったらしい。 山口さんが私のことを指名してくれるようになったのはほんの2、3カ月前からだ。 はじめは何も特別なことは言って来なかったし、普通に店に時々来店して、私を指名してくれて、店の酒やフードなどを沢山オーダーしてくれる、そんなただの仲の良い指名客とキャストだった。 しかし、頻繁ではなかったが、時折フラりと訪れる度に物凄い金額を平気で支払って行く彼は、いつの間にかグングンと「太客」に育ち、そして思っていたよりずっと早い段階で既に「極太客」と言われる存在へとかわり、店では男性スタッフたちからも一目置かれる人物となった。 その所以は、そもそも私と同伴をするようになってからだ。 山口さんは、いつしか、私に向かって懇願、と言うか、お願いのようなことをしてくるようになっていた。 「いいんだよ。うたこさんの、自分の力でなんとかやって行きたい、って言う、そう言った自立したい気持ち、頑張りたい気持ちだって、もちろん大切だと僕は思っているからね。だから気が変わったらでいいんだ」 「はい…ありがとうございます」 「いつでもいいからね。君はいつか、僕の頼みに自分の方から飛び込んできてくれる日が来るんじゃないかなって、僕には思えるんだ」 私は曖昧な笑顔を山口さんに向ける。 んなわけねえだろ、と、心の中で毒づく。 だって、山口さんからのお願いと言うのは、案と言うのは、なんと言うか、私にとっては必要のないものだと思うのだ。 自分の頑張りには関係なく、ぶっちゃけ働かなくたっていい、ただ生きているだけで良い、と言う、ある意味すごく魅力的ではあるそんな話。 ただ、実際に私がそれを受け入れてしまったら、何もなくなるのは目に見えている。 その先に待っているのは、死んでいるのとそう変わらない人生。 そこへ、先ほど頼んだ赤ワインがやって来て、多分なのだが、ソムリエらしき人がもう一度そのワインの名称を告げ、味に関する良い部分や経歴なんかを手短に説明してくれる。 大きなまあるいぽっかりとあいた縁が見慣れない、そんなワイングラスが二人の前に一つずつ静かに並べられ、ソムリエっぽい人がワインをあける。 その、ガラスで出来た上弦の月が、満月へと少し近づいたような、そんな、まるで昨日、私が好きな人と一緒に見たそれに似た形をしている入れ物の内側を、スルスルと赤黒く染めて行く。 いのちの色みたいだ。 「…綺麗ですね、赤ワインって。とっても美しい色、してる」 「そうかい?そんな風に思ううたこさんは、とても可愛いなあ」 「え、はあ…そうで、しょうか?」 「もう一度、乾杯をしようね」 「はい!赤ワインって、ここまで匂いが届く、すごい」 ソムリエっぽい人が、その赤ワインのボトルを山口さんと私の間に置いて行ってくれたので、私はくっついているシンプルなラベルをジッと見てみる。 やっぱり、なんて書かれているのかなんてわからないし、度数と言うものがあるのかどうかも知らなかったので、どの程度気をつけて飲んだら良いのか予想することが出来ない。 ただ、濃厚な果実を凝縮させたような、不思議な香りは気に入った。 私は山口さんに教わりながら、シャンパングラスよりも大きくて重たくて、どうやって上手く指を使って支えたら良いのかわからない、そんなワイングラスの持ち方をなんとかマスターすることが出来た。 ボウルと呼ばれていると言う半球体の部分の下の、ステム、と言う、脚になっている部分との境目辺りを持つと安定すると言われ、様になっているかどうかはわからないが、とりあえず見様見真似でやってみた。 それで良い、と言った風に山口さんが微笑むので、一度乾杯をして、一口だけを恐る恐る口の中に含んでみる。 うん、私は子供だ、味は、正直いいとか悪いとか全くわからない。 でも、飲めない、と言うような味ではなくて、辛めと言うやつではあるとは思うが、渋みも感じずまろやかな味わいであるように感じた。 どうやら、このボトルの一本くらいだったら、時間以内に二人でなんとか出来そうだなと思えた。 と、そう、私の方は思っていたのだが。 山口さんは、ダイエットをしていると言っていたわりには、ちょくちょく何かしら食べ物をオーダーしては、それを食べながらワインをゆっくりと飲んだ。 私は食べたいものも、食べようと思うものも特にないので、ワインを飲む。 そして、何より時間を気にして、ボトルの中身を減らそうとする。 確か、こういう店でワインをボトルごと頼んだ場合は、残さずに飲み切ってしまうのがマナーと言うものではなかっただろうか。 聞きかじりのそんな記憶に、私は少々焦り、なるべくだったらそのマナーを守らなければと思い、ワインを飲み続けてしまった。 「うたこさん、ボトルと一緒に、ワイングラスを持っている君の姿を、写真に撮ってあげるよ」 「あ、そうでしたね!ありがとうございます。丁度、暗くなって夜景も映えますよねー!」 「じゃあ、まずはうたこさんのブログ用だね。スマホを借りるよ。写真を撮影する画面にして渡してくれて大丈夫だからね」 「はい、ありがとうございます!お願いします、可愛く撮って下さいね?」 「そこは問題ないよ、うたこさんは可愛いからね」 私は山口さんに自撮り用のアプリを開いた状態のスマホを手渡し、撮影する際にタップする箇所を教える。 薄暗い広大な店内の天井から注ぐ、淡い橙色の光の一つに照らされた私。 ワインが丁度良い量残っているワイングラスを持って、テーブルの上に置かれたワインのボトルと、それから店の内装半分に、残り半分は夜景が写るようにと、山口さんがアレコレと色々配置を考えている。 私は、少し可愛い子ぶって、テーブルに肘をついて、ワイングラスを頬の辺りにあてると、いたずらっぽく微笑んで見せる。 何度か山口さんが、こうしてみたら、とか、ああしてみたら、など私のポーズにも注文をつけて来たので、言われた通りに、少しばかり体勢を変えてみたり、ワイングラスに口をつけてみたり、ボトルを両手で胸に抱えてみたりなんかした。 「ありがとうございますー!あ、すごい!ちゃんと夜景も映ってるし、私も…それなり?かな?少しは、様になってますか?」 「うん、うん、とってもいいよ。さて、僕の分も、何枚か撮らせてね。そしたら、僕ももう一杯もらおうかな」 「そうですよ、山口さん。ちゃんと飲まないと、私が全部飲んじゃいますよー!」 「それでもいいけど、さすがに頬が赤いよ、うたこさん。僕が店の人に怒られちゃうなあ」 「ふふふ、かもしれないですね。でも、私が勝手に飲んだんですから、そう言ってくれていいですからね」 ようくわかった。 私が飲んではいけない種類の酒は、日本酒と、赤ワインだ。 白ワインは飲んだことはないから知らないけれど、赤ワインって、飲み過ぎると、気持ちはいいけれど、なんだか頭が重たくなるような、体が沈んで行くような、そんな感じ。 思わず人にもたれかかってしまいそうになる、そんな感覚。 だって、とても機嫌が良いし、上手く笑えるし、スルスルと次の言葉を迷うことなく選び、話すことが出来る。 このままだと、私はヨシキくんや、木村さんや他の色恋へと接客の仕方をシフトチェンジして行った客たちと同じように、山口さんにもそうするかもしれない。 それは、まあ、最悪別にもう構わない、彼だって「いつかはそうなるであろう客」の内の一人なのだから。 そんなことよりも、何よりも私が一番恐れていたことは、また何か小さなきっかけで、山口さんに私の「真実」が見つかってしまうかもしれないと言うことだ。 気をつけられるだろうか? こんな状態の私は、なんとかラストまで、店での接客をまともにこなすことが出来るだろうか。 でももうそんなの、いつものことじゃないか。 なんとかなってるし、なんとかしてきた。 「うたこさん、またか、と思うだろうけど、言わせてね」 「…私の答えは、まだ出ていませんよ」 「うん、でも、どうかな。もう、何度も言ったけれど、真剣に考えて欲しいんだ。僕が月々お小遣いをちゃんとあげるから、店を辞めて僕の家の近くのマンションに住んでくれないかな。同じ中野区だし、引っ越しだって手伝うよ。もちろん家賃だって僕が出すし、お小遣いが足りない時は言ってくれたらまたあげる」 「……とてもありがたいお話ですが、今は、何もお答え出来ないです」 「うーん、今日もダメかあ。うたこさんは、酔っているように見えて、なかなか手強いなあ」 なめないで下さい。 と、言いそうになってすぐに口をつむぐと、困っている、と言うような微笑みの形へと変える。 だって私は、そんな囲われ者のような生活は嫌なのだ。 なんだか自分で納得がいかないし、店で頑張ることを辞めてしまうなんて、今の私にはまだ考えられなかった。 何より、マネージャーと、中村さんと離れるのは嫌だった。 朝起きてご飯を食べてちゃんと学校へ行って終わったらそれなりに友人と遊んで、夜は山口さんと外食をして、マンションまで送ってもらって、風呂に入って資格の勉強なんかしたりして、それから夜には目覚ましをかけて布団に入る。 ごめんなさい、山口さん。 私の為に言ってくれてるのも、私を「普通」にしようとしてくれてるのも、私を想ってそう言ってくれてるのもわかってる。 それから多分、少しの下心にも気づいてる。 でも、私がそんな生活を幸せに送れるはずはないんです。 マネージャーのいない世界で。 そんなこと、今の私には、考えられない。
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