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カウントダウン
山口さんが何度かトイレに立った際に、手早くスマホで時間を確認し、ついでに他の指名客やフリー客へとラインをしたり、ミサから連絡はないか心配したりしていた。
そろそろこの店を出なければ、店の同伴の時間に間に合わないかもしれない、と考え、私は赤ワインのボトルを持ち上げてみる。
随分と軽くなっているけれど、隣の席のワイングラスには、まだたっぷりと赤黒い血液のように美しいアルコールの湖が見える。
どうやら残りは全部、最後の一杯として私が飲まなければならないようだ。
山口さんは、たまに株の状況を自分のスマホで確認しているようだった。
私には株と言うものがどう言ったものなのか全くわからなかったが、山口さんはすこぶる機嫌が良さそうだ。
今夜は、いや、どうやらここ最近は、いい感じってやつなのであろう。
じゃなきゃ、私にあの提案を持ちかけ続けて来たりはしないはずだ。
山口さんがトイレに立ち、私はラインの返信や営業が終わると、最後の赤ワインを自分のワイングラスに注いだ。
ため息をつきかけた時、丁度運悪く彼が戻って来て、のんびりと席へと座ったので、私は酔い過ぎたせい、と言うフリをしてワザと額に手をやって息を逃がした。
「ねえ、山口さん。そろそろ最後に、もう一度乾杯しませんか?」
「ああ、うたこさんといると時間があっという間だなあ。僕ばかり食べてしまってごめんね、うたこさんはお腹はすかない?」
「お腹は、赤ワインでいっぱいです。とっても美味しかったですよー!ビックリしました…!」
「そう言ってもらえて良かったよ。それじゃあ、乾杯しよう」
カチン、と小さな音を立てて、ワイングラスとワイングラスの出っ張っている部分がぶつかる。
さすがにこのような店でワインを一気飲みするなどと言う行為を取ることは憚られたので、なるべく一口で大目に口内に流し込み、少し間をおいて、再びそうする、と言った飲み方を繰り返すしかなかった。
山口さんは、いつの間にかワイングラスに半分ほどしか残っておらず、すぐに飲み終えてしまう。
彼はいつだって私に多く飲ませようとしたし、自身は少な目で止めておく、と言う風に上手くやっていた。
私の方も、何度目かの最後の一口で、なんとかワイングラスをからにすると、テーブルにコン、と置いた。
山口さんが店員を呼び、自分の持って来たカメラで、二人の姿を撮影して欲しいと話す。
もちろんいいですよ、とその店員は営業スマイルを振り撒いて、私たちの椅子の方向を変え、テーブルの真ん中に赤ワインのボトルと、それぞれのワイングラスを並べ、夜景をバックに美味い酒を楽しんだカップル、みたいにして微笑み合う、そんな私たちの写真を数枚撮ってくれた。
山口さんが会計をしている横で、私はこっそりスマホをバックから取り出すと、マネージャーに一言だけラインを入れる。
『もしかしたら遅れるかもしれません。出る時間がギリギリになりました。すみません』と。
けれど、山口さんが来店し、万が一ラストまで居てくれたとして、むしろラストまでいなくても、普段通り沢山のボトルを入れるのであれば、罰金なんて多分一瞬で吹き飛ぶのだ。
それはイコール、私がそのボトルをどれだけ早く飲み干し、次のものを入れてもらえるかにかかっている、と言うだけの話なのだが。
赤ワインで酔う感じは、日本酒や、他の色々な酒をちゃんぽんした時とは、なんだか種類が違っているような感じがした。
思考の方はしっかりとしているのに、脚がふらつき、よろけてしまう。
まるで、体の方だけに、先にアルコールが回ってしまって、上手く動けないと言うか、感情は激しくなるどころかまったりとして、気を付けていないとついついヘラヘラとしてしまう。
そのうちこれが頭の方まで浸透して来て、結局私は山口さんの見たがっている私へと徐々に変化して行くのだろう。
「あ、タクシーいますよー!」
「本当だ、じゃあ行こうか。それとこれ、今日の分」
「…いえ!!貰えませんから!!」
「いいから、うたこさん、学校も行っていて家賃も払っていたら、好きな物、何も買えないでしょう?」
「…あの、でも私は!!山口さんに、何もしてあげられてないし…」
「いいんだよ、別に僕はうたこさんから、何かもらおうと思ってるわけじゃないからね。ほら、タクシーが止まったよ。行こう」
「はい…、ありがとう、ございます…」
そう、これも困るのだ。
会うたびに、山口さんは私に、所謂おひねり??と言うやつだろうか、それを寄越すのだ。
その度に私は断るが、バックの中に突っ込まれてしまうか、手のひらに強引に握らせて「お願いだからもらってね」と強く、強く言うのだ。
その額はだいたい3万~5万くらいで、物凄く高額だと言うわけではなかったが、私はなんだかこう言うのは良くなような気がしていた。
それに、有名な歓楽街にある、高級過ぎない、けれど安すぎもしない、中間程度の一般的なキャバクラで、指名客からのキャストに対するおひねりの相場の金額と言うものが幾らくらいなのかが、私には良くわからなかった。
そもそも、一緒に服を買いに行く時だって、全ての洋服代を支払ってくれていたのは山口さんだし、私が「これいいな」なんて言おうものなら、それだってすぐさまレジへと直行だ。
まあそれは他の指名客でも、太客ならば同じことだったが、ただ、他の指名客の中には、私におひねり的な物を半ば押し付けるようにしてまで渡して来るような人物は他にはいなかった。
二人でタクシーに乗り、店の近くの通りまで連れてってもらう間に、やはり赤ワインはじわりじわりと元々真っ赤に熟れていた私の頬や肌をますます濃いそれへと変えて行く。
私は、今日のヘアメを気に入っていて、元々機嫌は良かったが、さらに気持ちが高揚して来てしまうのを抑えきれなくなりそうだった。
危険信号だ、私は頭の中で「ドレスに着替えたら、一旦山口さんについたら、すぐに厨房行って水を一気飲みしろ!!」と自分を叱咤する。
「うたこさん、今日の店で撮影する写真が、記念すべき、うたこさんの店での、キャバ嬢としての第一ページ目になるんだよね?」
「ああ、うん、そういうことになりますねえー!!」
「じゃあさ、華やかで、見栄えのする、豪華な写真がいいんじゃないかなと思うんだよ」
「あ、そう言えば、フロアの真ん中に薔薇の花束が飾ってありますので、その近くの卓にしてもらいますか?」
「はっはっは!うたこさん、そう言うことじゃないよ。ううん、僕が、うたこさんの、その第一ページを美しく飾ってもいいかな?って言う、お願いをしているんだよ」
「え?それは、もちろん構いませんけど、私今日、特に新しいドレスとかも、何も用意していませんよ?私も、山口さんも、お誕生日でもないですし、ホワイトデーでもなんでもないし…」
「気にしなくて大丈夫だよ!今日のうたこさんの髪型も、化粧も完璧だ。そこに僕がただ、少しだけ飾り付けを増やしてやりたいだけだよ」
山口さんは何を言っているのだろうか。
良くはわからないが、私のブログを見たとは言っていた。
でも、アップしてあるのはブログを開設してから、たった一ページのみ。
しかも内容は、特に面白みのないただの専門学校生が、これからキャバクラに出勤するから応援してね、頑張って行って来ます、みたいな、そう言った普通で当たり障りのないような内容の更新をしただけだ。
それを、面白くしてくれるって、そう言うことが言いたいのかな?
山口さんと喋っている間にも、どんどんと赤ワインは私の理性を侵食しはじめる。
何せ名称こそ覚えられなかったが、結構な大きさのある赤ワインのボトルのほとんどを一人で、二時間足らずで飲み干してしまったのだ。
しかも私は、赤ワインを飲み慣れていない。
体が慣れていない、初めての種類のアルコールだ。
あれ、でも、シャンパンって、ワインだっけ、ブドウ入ってるんだっけ、酒のことは親しみはあっても詳しくは理解していないし味と好み以外興味がない。
ああダメだ、もう、気分はいいし、楽しい気分だし、このままだと、山口さんがオーダーしてくれるシャンパンを、それこそ次から次へと飲んでしまうような気がする。
誰か、せめてナギサさんでも、本指が今日は来店しないようだったならば、場内についてもらえないだろうか。
タクシーが、歓楽街の入り口から少し外れたところに停車して、山口さんが財布を取り出し会計をすると、二人で順番に降りて、二人きりの空間から急に雑踏の波と外気に晒される。
さあ、行くのか、私は今日も、こんな状態で。
何が不安でも、何に困惑していても、マネージャーは言っていた。
三日、と。
まだたった一日目だ。
後、二日も残されている。
「なんだかなあ!山口さんって、私のこと褒めてばかりだから、私自惚れてしまいそうになります」
「そう言って、うたこさんは自惚れたりしないだろう。そう言う、謙虚なところもいいところだよ」
「そんなバカな。私はいつも、ただの酔っぱらいじゃないですか」
「酔っぱらってるうたこさんは、素直だからね。本当のうたこさんのことが知りたいから、僕はつい飲ませてしまうんだよね」
「やっぱりそうだったんだ、意地悪ですね、山口さん」
「はっはっは、そうかなあ、でも、喜んでくれるだろう」
「それは、嬉しいですよ、私のことを知りたいと思って下さってるんですもんね。そのお気持ちは、嬉しいです!」
私は、そう答えるしかない。
それしか、今は正解の言葉なんて見つからない。
二人で横に並んで歩いているけれど、私は山口さんに色恋はかけていないので、今はまだ腕を組んだり手を繋いだりはしない。
ただ、せっかくの同伴なのだから、と、少しだけ寄り添って歩く。
はじめて、腕と肩を彼の体に沿わせて体重を僅かに預ける。
店が近づいて来て、私はホッとする。
22時少し前、本当にギリギリだけれど、遅刻はしていない。
私は実際にも酔っていたが、その酔っている状態を利用して、はしゃいでいるようなフリをして、店の入り口手前の踊り場まで続く階段を駆け上がる。
そして上から、両頬に手をあてると「おーい!や、ま、ぐ、ち、さーん!」と、彼のことを呼んだ。
山口さんはニコニコと人好きのする笑顔を浮かべながら、よ、よ、こらしょ、っと、と声を上げながら、一段抜かしをして私のことを追いかけて来た。
「子供のようなうたこさんも、愛らしいね」
「もう、何度褒めたって、マジで何も出ないんですからねー!」
私の元へ辿り着いた山口さんと一緒に自動ドアを潜り抜け、店内へと入る。
すると、入ったすぐのところにある、行き止まりの壁の方の、私のお腹辺りまでの高さから、天井までをくり抜いて作ってある凹みの部分に、真っ白な百合の花束が、これまた主張し過ぎない控えめさが麗しい花瓶に活けてある。
その他の小さな色とりどりの花たちや、葉と共に、美しく飾ってあるその百合の花は、多分。
今日、店が終わってから、マネージャーか部長か、それか店長に確認して、木村さんだったらちゃんとお礼のラインをしなくては。
そう思って、山口さんに一言断りを入れると、「綺麗だから、後でなんと言う種類の百合か調べてみたくて」と言うと、スマホで写メを撮っておいた。
彼は何か気づいたかもしれないし、何も気にしてないかもしれない。
けれど、何も言わずにそんな私のことを待っていてくれた。
厨房の入り口を通り過ぎ、トイレの入り口を通り過ぎ、部長のいる狭いカウンターまで来ると、私は「おはようございます、部長。鍵、お願いしていいですか?」と声をかける。
部長は私たちが店にやって来たことにはすぐに気づいていたようで、「いらっしゃいませ、山口様」と山口さんに挨拶をすると、すぐに鍵を渡してくれる。
それと同時くらいに、マネージャーがやって来て、山口さんのことを卓へと案内する。
会えたからと言って、もちろん声なんてかけないし、微笑んで見せたり、褒めて欲しいなんて言ったりしない。
今日は月曜だ。
もう22時近くだと言うのに、待機席で待機しているキャストのお姉さんの人数も、普段よりは少し多めに感じる。
その時はまだ、そこには確かにナナさんもいたのだ。
でも、今は声をかけている場合ではないと思った。
何より、特に仲が良いわけでもないのに突然声をかけたりしたら、不自然すぎるし、嫌われてしまうかもしれない。
私は重たい頭と体をなんとか普段通り動かす為に、強制的に「慣れ」のスイッチを起動させる。
私の脳は、ちっとも精巧緻密で完璧になんて出来ていないけれど、体に染みついた行動を取る、それだけだったら役に立つだろう。
ロッカールームへ急ぎ、自分のロッカーを鍵で開けると、しばらく置きっぱなしにしていたドレスを手に取る。
今日着るならば、せめてどのドレスにしたら良いだろうか、と考える。
せっかくヘアメイクを普段と変えたのだから、セクシーな印象を与えられるようなデザインのドレスをロッカーに置いておけば良かったのだが、ここに用意しておいたものは、着用しているドレスが汚れただとか、破れただとか、壊れただとか、あくまでも何かがあった際の為の「緊急時の替えのドレス」でしかなかった。
そのうちの二着をとりあえず厳選すると、せめてざっくりと胸元があいており、谷間がのぞく、スリットが長めに入っているホルターネックのロングドレスの方を選ぶ。
深い赤、まさにワインレッドのもので、柔らかめで体にフィットする生地の上から、黒のレースが重ねられているエンパイアロングドレスだ。
胸下切り替えのデザインで、下半身部分と胸元とを区切っているのは、硬くて太い、幾重にも編み込まれた黒く大きな花の刺繍と、そこに散りばめられた細かなビジューだ。
脇の部分に伸びる、フワフワなソフトチュールのリボンを、ギューっと引っぱると、腰上辺りまで肌が晒されている背中でギュウッと強くリボン結びにする。
私は一度だけスマホを見て、22時ピッタリであることに安堵し、それからミサからラインが来ていないことに、落胆した。
バックから化粧ポーチを出し、ハンカチと名刺入れ二つを中に仕舞い、その上にスマホを詰めて閉じる。
落ち込んだ気持ちを振り払うようにスッと立ち上がると、すぐに着替えを済ませ、腕には黒のレースのグローブをはめる。
ドレスとハイヒールにおいては黒いものは禁止だったけれど、グローブの場合は、どんな色にも合う場合の多い無難なその色のものを着用することが許されていた。
最後に、ワンピースとバックをロッカーに仕舞うと鍵をかけた。
それは、疲れている暇などないと私を鼓舞するには小さすぎて、物足りない、軋んで錆びついた音。
もう行かなくては、山口さんが待っているし、ロッカールームを出てヘアメ室を抜ければ、その扉の前でマネージャーが私を出迎えてくれるはずだ。
厨房に水を貰いに行くには、一旦は山口さんの卓へとつかなければならない。
なんと言って席を立とう。
すぐに行くのはマズイし、失礼に値すると思うし。
足元がどうにもおぼつかないが、なんとかハイヒールの中でつま先に力を込めて、真っ直ぐに歩けるように、と胸の中で唱える。
一日目、まだ一日目。
そうして私は、ヘアメ室からフロアに出る為のドアを開けた。
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