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「なんで?」
マネージャーが立っている。
当たり前だ。
私のことを、山口さんを案内した卓へと連れていかなければならないのだから。
彼は、私の姿を一瞥するとすぐにフロアへと視線を戻し、真面目な顔をして、小さな声で囁くように、思わず驚いてしまうような事実を告げる。
「行けそうか」
「…はい、行けます」
「良かったな、うたこの指名、おまえが来る前から七名来てるぞ」
「マジですか!?月曜ですよ!?それに、私、もうワインを…大丈夫かな、…」
「大丈夫だ。大丈夫だから。何かあったら、俺を卓に呼んでいいからな。何とかしてやる」
マネージャーはそう言うけれど、いつものように微笑んではくれなかったし、私の今日のヘアアレンジや赤い口紅を引いたことにも触れず、すぐに歩き出す。
私はその背中を慌てて追いながら、何故そんなに険しい表情を浮かべているのだろう、と考えずにはいられなかった。
私、遅刻しなかったよ、ギリギリだったけれど、同伴時間にも間に合ったよ。
指名だって、平日なのに、月曜なのに七人も呼べたんでしょう。
あのね、今日は大人っぽい見た目にしてみたんですよ。
どう思いましたか。
ねえ、なんで、どうして、そんな顔してるんですか。
怒ってるの。
冷たくしないで。
何か、どこか褒めて。
いつもみたいに私にやる気を出させてよ。
もしかして、何か、バレてしまったの?
店で口に出来るわけのない言葉たちが、私の頭の中を駆け巡る。
でも、仕方ない、今は今日のことを考えなければならないのだから、マネージャーのことばかりを考えているわけにはいかないのだ。
それが私の仕事なのだから、選んだ道なのだから。
彼に可愛がっていてもらう為に、沢山の客を呼び、沢山のオーダーをし、店に貢献して、マネージャーの役に立たなければ。
私のこと、捨てないよね?
山口さんのいる卓に着き、まずはヘルプについていたキャストのお姉さんの源氏名が呼ばれ、彼女は彼と乾杯をしてから頭を下げて席を立つ。
私は、そのキャストのお姉さんに「ありがとうございました」と上の空ながらもなんとか感謝の言葉を伝え、入れ替わりで一歩前へと出る。
「お待たせ致しました。うたこさんです」
「山口さん、改めましての乾杯しましょーう!」
「そうだね、うたこさんが喜ぶものにしよう。メニュー表を頼むよ」
「かしこまりました。少々お待ちください」
私は、山口さんに膝をちょこん、と曲げて挨拶をすると、すぐに隣に腰掛ける。
彼は、既に店にキープしてあるボトルを飲んでいたが、私の為に他に何か別のものをオーダーしてくれるらしい。
自分の本心を全て、どうにかこうにか必死で胸の奥底へと押し込めて、少々ぎこちなかったかもしれないが、無理をして笑顔を作る。
死ぬほど飲んでしまおうか、いや、ダメだ、客の前でろくでもない行動を取ってしまったら何にもならない。
でも、だけど、不安だよ。
マネージャー、…中村さん、私がそんなに、強い女なんかじゃないって知っているでしょう?
なんで、笑顔をくれなかったの?
私のこと、安心させてくれなかったの?
好きな人には、笑っていて欲しいよ。
いつもみたいに、嘘のやつでもいいから。
いけない、これは、今考えるべきことじゃない。
「ねえ、山口さんは、本当は、酔っぱらった私が、何かやらかすのを待ってるんでしょう」
「はっはっは、どうしてそう思ったんだい?」
「うーん、刺激が欲しいのかな?なんて、ちょっと思ってました」
「それもあるね。でも一番は、やっぱり、うたこさんの本当の姿が知りたいからだよ」
「どうしてですか?山口さんは、私のこと、どう思ってるんですか?」
「急に、いつもうたこさんの方から避けていた話題を振るね。何かあったのかな?」
「…ううん、そう言うわけじゃないんですけど」
今、私の心は潰れそうになってしまっていて、凄く危うい状態で、だから誰かの「君が好きだよ」が聞きたくなってしまっている。
そんな焦燥感でいっぱいになってしまっている、と、山口さんからの言葉で気がつく。
両極端な私の考え方や、思い込みが激し過ぎるところが、酔いによって私の思考を蹂躙しはじめていた。
マネージャーにもし捨てられたら、彼にすぐに拾ってもらおう、なんて無意識に思ってしまっていたのかもしれない。
あの人のかわりなんて、誰にも出来るはずなんてないのに。
私がアワアワと、なんとかいつもの調子を取り戻そうと奮闘していると、そこにメニュー表を持ってマネージャーがやって来る。
今度は、山口さんに、客に向ける方の笑顔を顔にくっつけて。
「あ、ありがとうね。それと、一本目はいつものでいいかな、うたこさん」
「…そうですね!私、あのシャンパン好きなんです。ピンクだし、とっても可愛いから!」
「じゃあ、君、それを頼むよ。それを飲みながら、次のものを考えることにするから」
「かしこまりました。少々、お待ちください」
さっきと全く同じ声音で、全く同じトーンでそれだけ言って、マネージャーは去ってしまう。
私の顔を見たような気がしたけれど、それは笑顔ではあったけれど、嘘の、客に向けるそれだ。
ますます狼狽えてしまいそうな気持ちを、山口さんと話すことで紛らわせようとする。
そうすると、どんどんとボロが出てしまうに違いない。
私は、初っ端から自分の首を絞めてしまったのだから。
充分、気を付けて、慎重にならなければ。
落ち着け、落ち着け、マネージャーはさっきも言ってくれた。
大丈夫だ、と。
そうだ、大丈夫だ、私はちゃんとやれる。
「僕はうたこさんに、可能性を見つけたから、その蕾が開いたらいいなと思って、指名することにしたんだよ」
「…可能性、ですか?」
「そうだよ。僕のことを楽しませてくれる、そんな女性になると思ったんだ」
「えー!難しくて、良くわからないです。わかるように、説明して下さいよー!」
「今はここまでかな?でも、僕の願いを叶えてくれたなら、すぐに教えてあげられるよ」
「やっぱりそれかあ。山口さんは、なかなかの食わせモノってやつなんでしょうか?」
「食わせモノかあ、それはひどいなあ。そんなことないよ。何も、他意はないからね。さあ、うたこさんが二本目に飲みたいものはどれかな」
山口さんがメニュー表を開いて、私の方へと寄せてくれる。
なんでもいいのだろうか。
私が喜ぶものにしよう、と山口さんは言った。
だったらそんなの、一番高いものを選ぶに決まっているではないか。
でも、バカ正直にそれを選んだら、山口さんが私のことを見限ってしまう可能性がある。
彼は、多分、普段の、遠慮がちにオーダー品を決める私のことを気に入っているのだと思う。
そんなに沢山の指名客を持っているわけではない私にとって、その中でも格別な極太客が切れてしまうと言う流れは極力避けたい。
山口さんが私の指名客ではなくなってしまうと言うのは、キャバ嬢としてはとても頭の痛い事態だ。
「そうだなあ、山口さんが今の私だったら、何をお願いすると思いますか?」
「そうだね、僕だったら正直に、本当に頼みたいものを頼むと思うよ。でもそれは、相手のことを考えていないからだね」
「また難しこと言ったー!もう!山口さんは、難問ばっかり私に吹っ掛けるんだから」
「そうやって、考えてくれることが嬉しいからね」
そんな風に山口さんのことに集中して、気を逸らして、やっとで自分を立て直す。
それから、さっきの彼の一言で易々と何と言いたいのかを理解することが出来た私は、迷っているフリだけをする。
あんなに簡単な問題ないですよ、山口さん。
私は、一番高いシャンパンではなくて、いつもと同じ、ピンクのラベルが特徴的な、キャバクラで頼むシャンパンの中ではそこまで高価である、とは言わないであろうそれを指さす。
「私は、山口さんと一緒に飲むのならば、いつもと同じがいいです」
「うたこさん、君は本当に可愛い、素敵なコだね」
そう言って喜ぶ山口さんに、私は、何が?と言いたそうな顔をして首を傾げて見せる。
山口さんは私のことをいつも褒めてくれるけれど、相当頭の方は悪いと思われているらしい、と言うことだけはわかっている。
頭が悪いと言うか、侮られていると言うか、何も考えていないと思われていると言うか、まあそんな気がする。
だから、そう言うような女のコを演じているのだ。
実際そこまで頭が良いわけでもないし、むしろ悪いと思うし、浅慮で感情のみで動いてしまう自分のことを、賢いなどとは到底思えなかったのだから、別に構わないし、怒りもない。
そうして話にやっと花が咲きはじめると、マネージャーではなくて、若い方の、例のナナさんにご執心であるらしい猫目のボーイがやってくる。
彼は、ワインクーラーに入れられたシャンパンと、シャンパングラス二つを持っていて、それを私たち二人の前にそれぞれ置くと、緊張した面持ちでちょっと高い声で言葉を発する。
「いかがなさいますか、お客様が、ご自分で…あけますか?」
「そうだね、僕がやるよ。君は多分、まだ慣れていないのだろう?」
「……はい、申し訳ございません。今日が、はじめてです」
「いいんですよー!気にしなくって大丈夫です!山口さんはね、なーんでも出来ちゃう、凄い人なんですから!」
「誰にだってはじめて、って言うのはあるからね。その機会を奪ってしまってごめんね。君、名前は?」
「滅相もございません。えっと、僕は、林ヒロトと申します」
「君も頑張って。いつも一生懸命だな、と思って見ていたんだ」
「…あ、ありがとうございます!!では、あの、失礼致します!!」
ヒロトくんの苗字は林と言うのか。
それにしても、彼はどうやらまだクビにはならなさそうだ。
つまり何もバレていないと言うことなのか、ただ黙認されているだけなのか。
でも、こうして新しい仕事を覚えさせる為の指令を言い渡されたのだから、部長や店長からは、そして一応マネージャーからも、期待はされているのだろう。
山口さんがシャンパンをあけてくれて、私の前に置かれたシャンパングラスへとその液体を注ぐ。
それから、自分の方にも同じようにそうすると思っていたら、彼はシャンパンのボトルをワインクーラーの中に再び斜めに立てかけて入れると、先ほどまで飲んでいたキープボトルの方の酒が入ったグラスを手にした。
「あの、山口さんは、今日はシャンパンは飲まれないんですか?」
「もう少しで、こっちのボトルの方があきそうだからね。今日飲み切ってしまおうと思ってね。ちゃんと新しいものを入れてから帰るから、安心してね」
「せっかくのシャンパンで乾杯しないのって、ちょっと寂しいです、私」
「まあまあ、うたこさん、拗ねないで。僕だって、明日も仕事だからね。そのかわり、今日のうたこさんのブログを盛り上げさせてもらうよ」
「ふふ、山口さんてば。さっきもそうおっしゃって下さいましたね。すごく嬉しいけれど、酔った私は何をオーダーするかわかりませんよ?後悔するかも」
「それもいい経験だよ。新しい発見が出来るからね」
この感じだと、ラストまで居てくれる、と言う線は薄いかもしれない。
山口さんの口からは、明日も仕事だと言うワードが出たし、赤ワインと、キープしているブランデーと、それからシャンパンのちゃんぽんまではしたくない、と言うことなのだろう。
じゃあ、私は山口さんが帰る、そんなに残されてはいないであろう時間以内に、ブログを盛り上げられる、華やかで、見た人が思わず驚く、そんな大量のシャンパンを、一人で飲み続けなくてはならないと言うことなのだろうか。
さすがにそれは、無理じゃない??
「さてははじめから、一番高いシャンパンをお願いすれば良かった、ってことなんでしょうか」
「そんなことはないよ。うたこさんは正直に自分の思ったことを言っただけなのだろうから、それで当たりだよ」
「本当かなあ、山口さんは読めない人だから…、食えないやつ、って言うんでしたっけ」
私は腹をくくって、シャンパングラスを持つとすぐに口へ持って行き、ゴクゴクと飲み干す。
山口さんは、私と会話を続けながらも、忘れることなく、目ざとく、からになったシャンパングラスを見れば新たな波をそこへと作る。
その、繰り返しを数回やって、一つ目のボトルがあく。
まるでそこを狙ったかのように、マネージャーと共にヘルプを担うキャストのお姉さんがやって来て、私のことを呼び、新たな指名客の席へと付け回しをはじめる。
わかった。
わかりました。
今日はもう、そう言う日なのだと言うことですね。
傷ついている時間など、たったの数秒だって与えられないと言う、そう言う日だって言うことだ。
まあ、勤務中には元々、そんなものが用意されていることなんか、一度だってなかったけれど。
ねえ、でも、マネージャー、なんで?
なんでいつもとこんなに違うの?
なんで。
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