人の運命

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人の運命

私は今日、何名かの私を指名して来店してくれていた客につくこととなる。 その中には、私のブログを見てたまたま来店してみたと言う二名の客がおり、私は喜び、感謝を伝えると、名刺を渡し、会話を楽しむ。 一生懸命接客をし、そんな私を少なからず気に入ったと、言うような素振りをしてくれた彼らには、もちろん連絡先を訊ねることも忘れなかった。 無事ラインを交換し、私と会うことが出来たから次の延長の時にはもうチェックをする、と言った一名の客には、特に念入りに良い印象を持ってもらえるよう尽力し、ボトルをキープしてもらうことにも成功をした。 そして、既に馴染みである他の五名の指名客には、それぞれ合う営業方法で接して、ドリンクをオーダーしてもらったり、一緒にキープボトルの酒を飲んだりして過ごし、今日からブログをはじめたことを話してみた。 すると、何名かはシャンパンを入れてくれたので、私はその気持ちを素直にありがたく受け止め、はしゃいで見せ、写メを撮り、ブログのURLを教える。 「はじめてだから、きっと文章が下手くそですけれど、たまにでいいから見てくれたら嬉しいです」なんて言って、照れてみる。 私が同伴してくる前に来店して、それから私を待ちながらヘルプのキャストのお姉さん達と飲んでいた指名客の内、三、四名は、23時過ぎともなると、私と会って一緒に飲むことも出来たし、話すことも出来たから、また改めて来店すると言ってそれ以上は延長はせずにチェックをして帰って行った。 私は例え短い時間しか卓につけないとわかっていても、いや、だからこそ、いつもより精一杯気持ちを込めた接客と見送りをして、「今度、店じゃない場所で、もっとゆっくりとお会いしたいですね」と言ったようなことを告げた。 暗に、同伴をしようかな、と思ってもらえるような言葉を、時に内緒話をするように耳元で、時に可愛い子ぶって、その客が好むであろう方法で伝える。 何度か、踊り場で名残惜しそうに手を振って、もちろん山口さんの卓にだって戻って、ついていられる時間以内にシャンパンのボトルを必ず一本以上はからっぽにし、次のシャンパンを入れてもらう。 既に片方の指を全て折れる程には、ピンクのラベルのシャンパンのボトルが、山口さんの卓のテーブルの上を埋めている。 そして、マネージャーか、ヒロトくんより年上である、以前から店に勤めているボーイの方のどちらかかが山口さんの卓に近づいてくるのが見えると、私はその時テーブルの上でまだ中身が残っているシャンパンの全てをなんとか飲みきるように努めた。 延長かチェックかを問われる前に、もしくは私が卓を離れる前に、次のオーダーをお願いすれば、ワインクーラーごと新しいものがやってくる。 卓を離れる際には、「せっかくのシャンパン、あけないのは申し訳ないです。だって、私の為に頼んでくれたものでしょう?」と山口さんに言うと、繋いだことなど一度もなかった彼の手のひらをギュっと握り締めた。 山口さんは、今まで見たことのないような微笑みを浮かべた。 そう、例えば、まるでやっと私が落ちて来た、と思い込んだような、そんな笑み。 だって仕方ないではないか。 そうすること以外、出来なかった。 思いつかなかった。 もの凄く酔っぱらっていて、心のモヤモヤも晴れない、けれどやるべきことは絶対に遂行したい、そんなめちゃくちゃな心理状態の私に残されていたのは、また一つ自分を汚すことだけだった。 その甲斐あってか、あまり関係はないのか、山口さんは私の予想とは反して、23時半を過ぎてもまだチェックをしなかった。 他の客にヤキモチを妬いて怒るようなこともなく、自分の卓に私がずっといられないことに腹を立てるようなこともなかった。 それに、今日来店している指名客の中で、一番の太客である山口さんの卓には、他の卓よりはいられる時間が少しだけ長めに取られていた。 少し長め、と言っても、私が卓を離れる前に、まだ帰るわけにはいかない、と思わせられるような言葉をかけたり、きっかけを与えたり出来るように取られた、ほんの僅かな時間だけだったのだけれど。 はじめは手のひらを握る、次は耳元で「別のものも、頼んでみようかなあ」なんて囁く、次は肩にもたれかかってみる、最後には彼の太ももを指先で撫でる。 そうして0時を過ぎると、さすがに月曜日だと言うこともあって、まだ店に残っている私の指名客は二名に落ち着いた。 山口さんと、後は、元々はミサ指名の客だが、今日来店してみたらミサが休んでいたので、私へと指名がえして店で飲んでいた客だった。 彼は、以前はよく私に場内指名を入れてくれて、ミサと三人でアフターに行ったりしたこともあったので、話しも尽きないし、慣れていないと言うわけでもなかったので、なんとか会話を弾ませることが出来ていた。 酒を飲むことが好きなその客は、ミサのことを気に入っているだけあって、そこそこ酒を飲めるキャストとして私のことも気に入ってくれていたらしかった。 今日だけな、ミサには秘密にしてくれよ、と言って、酒が飲みたい気分だからと言う理由で店に留まってくれていた。 けれど、変だな、と思った。 めちゃくちゃに酔っぱらっていたし、もうほとんど泥酔に近い状態で、まだ残りあと一時間半はある、と言う、そんな半ば拷問に近い状況ではあったが、たまたまトイレに立った時に、ふと気づいたのだ。 マネージャーは、私の指名客が「七名来てる」と言ったはずではなかったか。 22時以降に来店して、既に見送りを済ませた指名客が他に二名いたが、その二名は除外するとしても、おかしい。 七名居たのであれば、私が同伴出勤した際には、既に店には、山口さんを入れて八名の指名客が居たと言うことになるはずだ。 私がいくら頭が悪いからとは言え、完全に泥酔状態だからとは言え、なんとか簡単な引き算くらいは出来る。 私が山口さんの後でついた指名客、その次についた指名客、その次についた指名客、と、一人ずつ名前と顔を思い浮かべて、人数を確認する。 もう、目の前の手洗い場の鏡すらも、ゆらゆらと視界の中では歪んでいて、厨房に結局行っていないことだとか、水をもらって来なければだとか、色々な事柄がポンポン介入して来て邪魔をするのだが、それでもわかった。 足りないのではないだろうか。 一名、足りない。 多分、そんな気がする。 今日来店してくれた私指名の客は、はじめは七名、そして途中から二名、そして山口さんを足して十名のはずだ。 私が今日ついた指名客、残っている客も含め、顔と名前を全員思い出してみた限り、私がついた卓は九か所だ。 やはり一名、ついていない指名客がいる。 もしかして、あまりにも私が卓にやって来ないから、怒ったか飽きたかして、帰ってしまった指名客がいたのかもしれない。 うん、きっとそうに違いない。 その客には申し訳なかったけれど、後で部長か店長か…、マネージャーに詳しく聞いてみよう。 そして、その客が誰なのかわかって、連絡先を知っていたら、ラインできちんと謝罪しよう。 私はトイレから出ると、厨房に寄って水を貰おうと考え、すぐに通路を曲がろうとする。 いや、曲がろうとしたのだ。 しかし、そこで人にぶつかってしまって、酔っぱらっていた為、思いっきりハイヒールを履いているくるぶしの部分が外側に倒れて、ドン、っと、トイレの入り口の縁に肩をぶつけてしまった。 「ああ、うたこ、悪い。平気か?あと、ちょっといいか」 「……あ、マネージャー…」 「山口さんもいるし、もう一人いるだろ、だから手短に説明するけど」 部長が、このすぐ横のカウンターにいる。 私は哀しい顔なんてしないし、泣き言だって言わないし、マネージャーを罵ることだってしない。 出来ない。 なんで、不安にさせたの、だなんて。 そんなことを言えるような立場ではないのだ、私は。 それより今は、感情の全てを捨てて、あなたにどんなことをされようと私は平気だ、と、仕事のことをしっかりと考えている、と言う、そう言う虚勢を張って、自分を守ることの方を優先させなければならない。 「…もしかしてなんですけど、まだ、ついていない指名客がいますか?」 「わかってたか」 「いえ、さっき気づいたばかりですけど」 「店ももう、ミズキさんとおまえの客くらいしかいないしな。多少なら揉めても大丈夫だと思うけど、出来れば静かにな」 「揉める?」 「オープンから来てるんだよ。うたこのことを卓につけない、ってのが答えなのにな。途中からナナに場内入れて、今までずっと居続けてる」 「…誰だかわかりました」 「無理しなくていいんだぞ」 「いえ、行きます」 私は、本当に泥酔しきってはいたが、理性と感情はまだ辛うじて生きていた。 本当に、塵芥程度の、残り微かではあったが。 だから、この選択が正しかったのかそうでなかったのかはわからない。 未だに、その答えはわからない。 だって、人一人の人生を、運命を、もしかしたら大きく変えてしまうような出来事になりえる、そんな答えだったのだから。 私はフラフラだったし、もう、シャンと背筋を伸ばして歩くことも出来なくなっていたかもしれない。 せっかくの、私をご機嫌にしてくれたヘアメイクも、赤い口紅も、もうその影響力を発することはなくなっていた。 マネージャーに頼み、共に厨房へと一度寄ってもらうと、ミネラルウォーターをガブ飲みした。 厨房を任されている、フードやカクテルを作ったり、酒の管理をしているスタッフが、小さなアイスノンを冷蔵庫から出して来て、私にかしてくれる。 私がミネラルウォーターを飲んでいる間、マネージャーはそれを、私の項へとあてていてくれた。 それだけでいい。 気遣ってくれた。 じゃあ、もうさっきの、はじめの、私を不安にさせた顔と態度のことは、今は一旦忘れてあげます。 「うたこ、行けるか」 「はい、大丈夫です、行きます」 そして私は、店のオープン、つまり20時から、この時間、そう、0時過ぎまでずっと私を指名し、待ち続けていたと言う客の元へと向かうこととなる。 自分の卓に私が来ると信じ、願い、ナナさんに場内を入れ、きっとフロアを行ったり来たりする私の姿を見ていたのであろうその人物。 帰らずに。 諦めることなく。 それは辛抱強いと言うよりは、ただの一時の狂気であり、執着だと思えた。 気持ち悪いだとか、恐ろしいとは感じなかったけれど、なんとかしてやらなくては、と言う想いすらもうわいて来なかった。 私はその人のことを完全に見限っていた。 二度と会うことはないと思っていた。 ミネラルウォーターを飲んでいたグラスをシンクに置くと、厨房のスタッフに感謝の言葉を告げて、マネージャーの後ろに続いて厨房を出る。 部長の前を通る時に、彼は私を呼び止め、「何かあったら、すぐにボーイかマネージャーを呼ぶんですよ、すぐに店長を行かせますから」と声をかけてくれた。 何故、部長が事情を知っているのだろう、と思った。 いや、実際には何があったのかはわかってはいないだろう。 マネージャーだ。 多分、部長にも伝えたのだ。 なんと言って伝えたのかはわからないが。 当然だ、だって仕事に関わることなのだから。 店のキャストは、稼いでくれるNo上位もちのキャストは、大事にしないとならないもんね。 やっぱり、マネージャーはひどい人だ。 私と二人きりでいる時に、二人だけの内緒話みたいにして、こっそりと話したことなんか、秘密にしておいてなんて、くれないんだね。
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