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狂った歯車
「お待たせ致しました。うたこさんです」
「……お待たせ致しました」
そして、ナナさんの名が呼ばれると、話しに夢中だった彼女はこちらを見て、驚いた顔をした。
今日、この卓に、私がつくことなどないと思っていたのであろう。
多分、この指名客から、何もかもを聞いたのだと思う。
この客はそう言うやつだ。
相談に乗りますよ、なんて言われて、きっとなんでもかんでも話したのだろな、と予想がつく。
私は呆れて、それでもみっともない姿を店で晒すのなんて絶対に嫌だったので、無理をして自分を律し、堂々と、毅然とした態度でナナさんに微笑みかける。
ナナさんは、ぽかんとしていたところを、まるで私から何か一方的に攻撃を受けた、と言いたげな顔をすると、ツンと顔を背けた。
え、あ、私、そんなつもりで笑顔を向けたわけじゃなかったんだけどな。
長い時間、ヘルプと場内指名を請け負ってくれて、ありがとうございます、って言う意味で笑いかけただけのつもりだったんだけどな。
ナナさんはスッと立ち上がると、客にだけ笑いかけ、また後でね、なんて可愛らしい声で言って、マネージャーの背中へと隠れる。
そんなに避けられると哀しい。
私はナナさんのことが嫌いなわけじゃないと言うのに。
何故だか敵視されてしまったようだった。
どうせ敵視するならば、いいライバル同士でいましょう、みたいなカッコイイ関係がいいんだけど、どうやらそう言う感じでもなさそうだ。
いや、それでも私、絶対仲良くなってやる、私はナナさんのことが好きだもの。
まあ、そんなことを考えて、現実逃避をしている場合ではないのだが。
「キヨシくん、いらっしゃいませ」
「………………うたこちゃん、……会いたかった」
私はその言葉を無視して、彼の横へと座る。
だいぶ、間をあけて。
それから、キヨシくんのグラスがからっぽであることに気づき、アイスペールを覗き込む。
アイスもだいぶ溶けていて、これでは新しい酒を作ることは出来そうにもない。
グラスが置いてある部分も水がたまっているし、そもそも中身のアイスも溶け切っていて、これでは酒を作っても水割りになってしまう。
ナナさんは、一体何をしていたの。
いや、一生懸命、彼の相談を聞いて、色々と話をしてあげていたのだろう。
きっと夢中で、テーブル上の仕事を、基礎的な仕事をこなすことを忘れるくらいに。
私は腕を上げると、「お願いします」と声を上げ、ボーイを呼ぶと、新しいアイスとおしぼりを持って来て貰えるように頼む。
それからグラスを一旦脇へ避けると、自分のハンカチでテーブルに出来た水たまりを拭いて、ハウスボトルを自分の方へと引き寄せる。
すぐに、ボーイであるヒロトくんが、ちゃんと新しいアイスの詰まったアイスペールを持って来て、役に立たなくなった方と交換してくれる。
おしぼりを客の前に置くと、「失礼致しました」と言って、下がる。
私は無言で仕事をする。
テーブルの真ん中に寄せられて、ハウスボトルなどと共に下向きにして置いてあるグラスを一つ取って縁の方を上にする。
アイスペールからトングでアイスを幾つか掴んでグラスに入れると、カラン、カラン、と小気味よい音が鳴る。
そこへ、ハウスボトルの酒を注ぐと、客の前へと静かに置いた。
「どうぞ」
「……うたこちゃん、何か飲んでいいよ。何でも飲んでいい。何でも頼んでよ」
「…そうですか?」
「メニュー表、お願いしてもいいかな」
「わかりました」
私はもう一度、「お願いします」と、大きく、けれど喜びや嬉しさなど何一つ滲んでいない声でボーイを呼ぶ。
今度はマネージャーがやって来て、私たちの様子を探るように一瞬だけ客の表情と、私の表情を盗み見たのがわかった。
私は怒気を孕んだような顔をしているだろうか、それとも冷たく凍ったような目をしているだろうか。
客、キヨシくんは、ハラハラしているのか、ウキウキしているのか、落ち着かないと言った様子で、私がマネージャーに向かって声を発する前に身を乗り出して言葉を紡いだ。
「メニュー表を!お願いします!それと、うたこちゃんに、何か飲み物を!」
「…かしこまりました。うたこさん、何になさいますか」
「…水でお願いします」
「かしこまりました」
あからさまに冷たく、以前とは雲泥の差である私の態度に、それでもキヨシくんは屈しなかった。
マネージャーが、メニュー表と、本来ならばキャストの飲む為の酒が入っている、透明なカクテルグラスを持って来る。
中身はもちろん、アイスとミネラルウォーターだ。
マネージャーは、メニュー表をキヨシくんへ手渡し、カクテルグラスを私の手前に置くと、静かに一礼して去って行った。
キヨシくんは乾杯をすることなど頭にないようで、メニュー表を開くと私に、ズイッと差し出して来る。
「何でもいいよ!本当に、好きなのを頼んで、うたこちゃんが飲みたいやつ!」
「…では、これでもいいですか?」
「うん、いいよ!」
「…そうですか」
私は理解した。
こいつ、借金して来たんだ。
多分、きっとそうだ。
でも、ナナさんはこの卓を離れる時に、ドリンクのグラスを持っていなかった。
どうやら、何も頼んでもらってはいないようだった。
彼女のことだから、何かオーダーして欲しいとキヨシくんに強請っただろうとは思うのだが。
それでも何もオーダーしなかったと言うことは、驚くほどの大金を用意して来ていると言うわけでもないのだろうか。
けれど、私が今指さした、このボトルを入れられるくらいには、持っていると言うことだ。
そして、それプラス、オープンから指名で店にやって来て、一人のキャストのお姉さんに場内を入れられるくらいの、そんな余裕くらいはある、と言う程度の金額。
「俺も、一緒に飲んでいいよね?また、前みたいに…」
「…お客様ですから、当然です」
「すぐに頼んで、うたこちゃん。写メも撮ろうよ、ボトルと一緒に、撮ってあげるよ!」
「いいえ、結構です」
「どうして?本当は、もっと欲しいやつがあるの?それにする?」
「…ナナさんから聞いたんですね?」
「なんのこと?」
「ブログのことです」
「うん!そうだよ、ブログはじめたんでしょ!それで、シャンパンとかと一緒に写真撮って載せると、女のコは喜ぶって言ってたから」
耐えられなくなりそうだった。
私は何もしていない、と思いたかった。
でも、どうやら彼の人生を、壊しかけてしまっているらしいと言うことだけはわかった。
人一人を、私のせいで狂わせてしまうなんて言うことが、あり得るだなんて。
そんなことを考えたことは、今までの人生で一度もなかった。
私は、浅慮過ぎた。
夢を見せてあげた方が良いのだろうか。
それとも、立ち直るよう言い聞かせた方が良いのだろうか。
どのみち、何をしたってキヨシくんが自分で選び自分で決めたことだと言うことには変わりはない。
そんな彼に、壊れかけているから軌道修正をしろ、などと言っても良いのだろうか。
何より、マネージャーに夢中で、自分のことを自分から望んでぶっ壊し続けている私が?
「わかりました。ナナさんも呼びましょう」
「え?ナナさんは、ヘルプでついてもらってただけだよ」
「場内指名が入ってましたよ」
「ああ、丁度、相談に乗ってもらってた最中に延長確認されちゃったから、もう少し話したいって言ったんだ」
「場内指名をしたキャストは、本指名のキャストが卓に居ても、呼ぶことが出来ますよ」
「そうなの?…俺は、二人で乾杯がしたいし、二人で飲みたいんだけど、ダメかな…?」
落胆したように肩を落とし、以前と全く変わらず私へと接して来ようとする、その神経があまり良くわからなかった。
私はあんなに嫌がったではないか。
目の前で、靴も履かずに裸足で飛び出して行った女に、何も思わなかったのだろうか。
ああそうか、簡単なことだった、キャバ嬢だからだ、私が。
「わかりました。それでは、オーダーさせて頂きますね」
「…うたこちゃん、前みたいに喋ってよ」
「そう、お客様がご希望であれば、そのように致しますけど」
「そうして欲しい。お願いだよ」
「…うん、わかったよ。頼むね。ありがとう、飲んでみたかったんだ、これ」
私は、彼の願い通り、キャバ嬢になることにした。
もういいのだ、彼の何を心配してやっていたと言うのだろう。
こんなにも私は、はじめっから、ちっとも人間扱いなんてされていなかったと言うのに。
わかったよ、好きなだけそうすればいい。
つぎ込みたければつぎ込んで。
飽きたり、他に好きなコが見つかったら、勝手に来なくなればいい。
キャバクラって、そう言うものでしょう?
「お願いしまあーす!!」
片腕を上げた私の声が、フロアに大きく響く。
今度は、柔らかく、可愛らしく、元気いっぱいに、19歳の女のコがはしゃいでいる、と言った雰囲気で。
そうして卓へとやって来たマネージャーに、私は作った笑顔を向けて、シャンパンのオーダーをする。
誰でも知っている、有名な名称の、それは『クリスタル・ロゼ』と言うシャンパンだ。
メニュー表の、中間よりかは少し下の方に名が記されている。
マネージャーは淡々と、私が口にしたオーダーの注文を受け、眉一つ動かさずに一礼するとすぐに下がる。
驚きすらしない。
想像通りってことか。
そりゃ、わかるよね。
そして、私がどう言った答えを出したのかも、今この一瞬で判断がついたのだろう。
けれど、これ一本だけだったら、今日の山口さんといい勝負、ってだけだ。
店にとっては。
そして、私にとっても。
「うたこちゃん、良かった、もう怒ってない?」
「…ねえ、キヨシくん、やっぱり写真、撮って欲しい…な!」
「もちろんいいよ!もっと、他に飲みたいの、ある?」
「うん!本当はね、いっぱいあるんだ。ありがとう。次のも、その次のも、一緒に乾杯して飲もうね。もちろん、二人でね」
そう言って、離れて座っていた体を寄せてやる。
キヨシくんはようやっと緊張が解けたようで、ホッとした、と言うのが丸わかりだ。
元々猫背なのにさらに体を内側に丸めて、口元を緩めている。
ナナさんの言うことを聞いて良かったと思ったんでしょう。
残念だけれど、ナナさんも同じだよ、私とナナさんはキヨシくんにとったら、きっと将来恨むべき相手になるのかもしれない。
その入り口が、今日だったってだけで、この先キヨシくんが引き返すのか、このまま突き進むのかは、私には関係のないことだ。
ワインクーラーに入ったシャンパンがやって来る。
シャンパングラスを二人の前に一つずつ並べる、長くて細い節くれだった指先。
私に目くばせするマネージャーは、口角を上げていた。
まるで私に、間違えてなどいないと、それでいいのだと、言ってくれているようだと思った。
キヨシくんが、シャンパンのボトルをあけてみたい、とマネージャーに教えを請うた。
私はニコニコとしながら、二人のやりとりを見守る。
「それでは、ごゆっくり」
「ありがとうございました!おかげで、なんとか出来ました!」
「いいえ、お安い御用です。では、失礼致します」
キヨシくんがなかなか上手く出来ないのを、マネージャーが上手くフォローし、褒めたり、口で説明したりして、なんとか彼は自分の手でシャンパンをあけることに成功した。
その間、私はただの酔っぱらいに戻って、大きな声で応援して、励ましたり、同意したり、大きな身振り手振りで、彼の頑張りを称えて盛り上げた。
一生懸命なんとかしてあけることが出来たそのシャンパンを、キヨシくんは満面の笑みで、達成感いっぱいって感じで、私のシャンパングラスに注ぐと、熱い視線を寄越す。
なるべくうっとりとした表情を心がけて、私はそれに応える。
キヨシくんは照れながら、まだ危なっかしい、零してしまいそうな手つきで、自分のシャンパングラスにも同じようにしてそれを注ぐと、無邪気で無神経な幸せでもって私の心を殴って来る。
「乾杯、うたこちゃん。また、俺に笑いかけてくれて、ありがとう」
「当たり前でしょ。キヨシくんのこと、私は大事に想ってるよ」
だから、私だって殴り返す。
お互いに微笑んで、楽しそうに、満たされたような気持ちで、シャンパングラスを合わせると、カチン、と、簡単で安物の、古臭い悲惨な終焉を迎えるであろう悲恋の物語のはじまりを告げる音がした。
ざまあみろ、と思った。
私はもう、彼のことを人間として見ることを辞めた。
そのシャンパンは、格別に美味しかった。
自己陶酔しきったどうしようもないメンヘラに似合う、涙の味みたいだと思った。
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