禁句

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禁句

それから私は次々とキヨシくんにワガママを言った。 いっぱい甘えて、腕を絡めて、『クリスタル・ロゼ』をからっぽにすると、からになったそのボトルを両腕で大切そうに抱えて見せ、頬に愛しいものを愛でるようにくっつけて、首を傾げて目元を細めている写メを撮ってもらった。 絶対にブログに載せるね、仲直りの記念だね、なんて言って彼のことを喜ばせると、次に飲むシャンパンを、見た目が可愛いから写真に撮りたい!と言う理由だけで、これがいい!!と言ってお願いをした。 それは、『エンジェルのホワイト』、つまり、再びロゼを強請った。 ロゼってピンクっぽいから、だからなんとなくロゼのあるものだったら、ロゼがいい。 私はピンクが好きだから。 幸せな感じのする色だから。 キヨシくんは私に言われるがまま、楽しそうに、浮かれているように、夢の中にいるだけのような気分で、きっとそのシャンパンをオーダーしたのだと思う。 待っているものは破滅で、自分が使うには相応しくない金額を使っていると言う感覚は、もうなくなってしまっていたのだと思う。 そして、その可愛らしい、モロ私好みの天使の羽根を模った、凝ったラベルと装飾の施されたシャンパンが卓に届くと、私は思いっきり歓喜して、キヨシくんに抱き着いた。 「なにこれマジで可愛い!このボトル、持って帰ってもいいのかな!?嬉しい!幸せ!」なんて言って、早くあけようよ、あけてみて!、と体を離して、酔いで赤らんだ顔をして、恍惚とした瞳でキヨシくんのを見つめた。 「…うたこちゃんがこんなに喜んでくれるんだったら、俺、もっと早くこうすればよかった」 「そんなことないよ、遠回りしたからわかったことが、きっといっぱいあるはずでしょう?」 「…そうだね、うたこちゃん。ありがとう。また、こうして、会いに来てもいいかな…」 「いいに決まってるじゃん!いつだって、私は待ってるよ、…ここで」 そう言って、相変わらずへらっと笑う私のことを見ると、彼は感極まったと言うように、私の手のの甲に自分の手のひらを重ねて来る。 ギュウッと力を込めて情熱的に握ってくるけれど、すっかり愚鈍になった私の心は何の反応も示さない。 ただただアルコールの回った脳が、私に「笑え」と、それだけを命令し続ける。 だからわたしは笑顔でニコニコとキヨシくんに笑いかけ、前と同じであるかのように、まるで何事もなかったかのように、ただの19歳の女のコを演じ続ける。 違うのは、中身はもう19歳の女のコではなくて、19歳のキャバクラ嬢だと言うことだけ。 「うたこさん、よろしくお願い致します」 「あ、はあい!」 山口さんの卓へと戻す為に、一旦マネージャーが私のことを呼びに来て、席を立つことになった。 私がいない間には、もちろん場内指名の入っているナナさんがこの卓につくこととなる。 マネージャーの後ろには、少々不服そうな表情を浮かべているナナさんが立っている。 でも、決して彼は、彼女の為にこのシャンパンをあけることはないだろうと言う自信があった。 「待っててね、キヨシくん。私の前で、もう一度このシャンパンをあけるところを見せてね。それから、この二つのボトルを持って写メを撮ろうよ。私の今日の、一番嬉しい出来事だからさ!」 「うん!うたこちゃん、頑張ってね!俺は、うたこちゃんのこと、本当に大好きだよ…」 「私も、キヨシくんのこと、好きになりそう。…なんてね」 口元に手を当てて、酔っぱらいらしくへらへらと笑って、ナナさんと入れ替わりでマネージャーの後ろへと立つ。 それから、一礼する背の高い彼の背中のお陰で、自分の顔は隠れているだろうと思うと、俯いて頭をちょっとだけ左右に振る。 はあ、むり、しんど。 フラフラだし、脚に上手く力が入らないし、空間はゆらゆらとしていて、私の体はまるで、この黒を基調として作られたキャバクラと言う店の箱の中に溶け出して、原形を留めてはいないような気分。 今、私の心は揺蕩う夜の中、黒ずんだ泥の水たまり。 それでも、限界だと喚き散らすことは許されない。 こんなになってまで、私には、一番と言う名のゴールのテープを切ることは、出来ないのだろうか。 「…うたこ、水、行くか」 「あー、うーん、いっかい、だけ…はい…」 フロアを進む途中で、マネージャーが振り返り、天井に幾つかぶら下がっているシャンデリアのうちの一つの下で立ち止まり、灯りをぼんやり眺めていた私に小さく声をかける。 あ、歩くのやめてたのか、私、と気づく。 どうやらいつの間にか、マネージャーの背中を見ることすらも忘れてしまっていたらしい。 私は方向転換をするマネージャーに、今度こそついて行く。 部長の前を通ったけれど、彼は今度は何も言わなかった。 真っ直ぐ厨房に連れて行かれると、厨房のスタッフが再び私の為にアイスノンを冷蔵庫から出し、すぐに氷のいっぱい入ったミネラルウォーターを準備してくれる。 私はそれを一気飲みすると、顔を上に上げて額にアイスノンをくっつけ、「あああー」と呻いた。 「…一回、ミサの指名の客のとこに行くから、送りだから。その後、山口さんとこ戻れ。多分、さすがに次でチェックするだろ、明日だって仕事だろうし。キヨシはラストまでいそうか?」 「わかりません…ナナさんの手腕次第では、いるんじゃないですかね」 「どういうことだ」 「ナナさんが、自分の為に吹き込んだことが、私にいい方へと動いただけですね」 「なんだそれは。でもまあ、ナナもちゃんと役に立ったわけか」 「あ、そうだ。ねえねえ、私ね、マネージャーが、私のこと面白いって言う意味、わかりましたよ」 「…なんの話だ」 「ふふ、本当、面白いですね」 人が、人の人生が、自分のせいで、あんな風にあっさりと壊れて行ってしまう瞬間を見るって言うのは、面白いものなんですね。 こんなに罪悪感でいっぱいで、辛くって胸が張り裂けそうで、申し訳なくてたまらなくって、今後もしかしたら、思い出すたびにずっと、自分を責め続けなければならないような、そんな素敵な自傷行為、私だってやったことないですよ。 好きな人の部屋の鍵一つで、完全に道を踏み外した女と。 高級と言われるシャンパンを、相場の値段よりもだいぶ高い金額を支払って私へと捧げることで、再び自分の恋を取り戻したと勘違いして安堵する青年と。 どちらがより悲惨で哀しく、虚しい目に合っていると言えるのだろうか。 私たちはある意味では同じで、そして、全く違う立場にある人間となった。 「行けるか、もう」 「はい、行きます。…平気、だいじょぶ」 「うたこ、頑張れ」 「…わかってますよ」 そうして私は、今日だけ私指名の、本来ならばミサの本指名である客の卓へと案内されると、見送る為に、オーダーしてもらったカクテルと、彼のキープボトルの酒の入ったグラスで乾杯をして、簡単に別れの挨拶を済ませる。 二人でフロアを共に歩き、出入口の自動ドアまで行って、踊り場で「ご馳走様でした。ミサも、きっとすぐに元気になって戻って来ると思うので、是非またいらして下さいね」と言うと微笑む。 それから、指名をしてくれたお礼を丁寧に告げてから、「ミサ、返事しない癖に、寂しがり屋さんだから、連絡してあげて下さい」なんて言って、ちゃんとミサの顔も立てる。 客は、「おう、そうだな!次は三人でまた飲もう。今日も、楽しい酒だったよ」と言って、赤ら顔で気分良さそうに、「じゃあな」、と私とハイタッチをしてから階段を下りて行く。 私は手を振りながら「ご馳走様でした!お気をつけて!」と背中に声をかけると、普段通りしばらくその場で手を振っていた。 さあ、これで私の指名客は山口さんとキヨシくんだけだ。 店内に戻ると、待機席からキャストのお姉さんたちが半分以上立ち上がり、移動しようとしているところだった。 どうやら、指名客が来店する予定のない、場内指名も入っていない、また、今日はフリー客に率先してつけることはないと判断されたキャストのお姉さん達は、部長から早上がりを言い渡されたようだ。 丁度、着替えを済ませる為にロッカールームへと行って、帰るところなのだろう。 そんな中、私はマネージャーに連れられて山口さんの卓へと戻ると、相変わらずピンクのラベルが特徴的な、お気に入りであると言い続けているシャンパンを飲み続ける。 もう完全に泥酔していたし、頭も全く回らなかったが、山口さんの卓で入れられたモエのロゼは両手に届く本数へと達していた。 我ながら一人きりで、たった数時間でこの本数を飲みきるのは、そこそこ頑張った方ではないだろうかと思う。 私は、それらのボトルをテーブルいっぱいに並べると、ボーイのヒロトくんを呼び、からっぽになった全てのボトルを自分の前へと並べ、中身の揺れるシャンパングラスを口元にあてて微笑む。 ナナさんは飲んだことのないシャンパンを飲み、満面の笑みを浮かべるそんな私を、彼女のことが好きなヒロトくんに、「ブログに載せるからいい感じの写メを撮って下さいね」なんて言って澄まし顔で頼む。 嫌な女だ、私は。 「うたこさんは、今日は少し忙しかったね。けれど、良く働いて、頑張っていたね。今日は僕も、新しいうたこさんのことをまた一つ知れたよ」 「山口さんは怖いなあ、私が泣くようなことだってたまに平気で言っちゃうし」 「まだ、あの時のことを根に持ってるのかな?」 「だって、私のことを酔わせて、哀しくなるようなことを言ったじゃないですか」 「はっはっは、いやあ、あの時は悪かった」 「本当ですよ、山口さん。でも、私も悪かったんです。酔って、自暴自棄なところを見せてしまったから、あんなことを言ったんでしょう」 すこし前に、私は店ではなくて、同伴の最中に山口さんに結構飲まされて、酔っぱらい過ぎて泣いてしまったことがある。 実は、彼の言う通り少しばかり根に持っていたリするのだが、まあもういい、だってこんなに沢山シャンパンを入れてくれたのだし、実際に今日の私のブログを華やかにしてくれると言う言葉を真実へと変えてくれたのだから。 「うたこさんは繊細すぎるのだと思うよ、本当はね。僕はあの時、嫌なことを言ってしまったかもしれないが、真実だったはずだ。今はどうかな」 「そうです、図星だったから、傷ついたんだと思います、私…。そんな自分のことを知れて良かったです」 「そうやって、変わって行こうと努力するところが、魅力の一つだと思うよ」 「また、よろしくご指南のほど、…なーんて、出来ればお手柔らかにお願いしますね!」 山口さんは、おっとりとしているし、私のことを結構侮っているし、もしかしたらバカにしているかもしれないけれど、そんなことは特に気にしていない。 ただ、変なところで鋭いし、たまに悪意なく適格なことを言うから、私は耳を塞ぎたくなる。 あの時、彼はただそう思ったから、私にそう言ってみただけなのだろう。 しかし、泥酔していた私はその言葉に過敏に反応してしまい、感情の糸が切れ、思わず涙がボロボロと溢れて来てしまった。 そんなことが以前あったと言う、ただそれだけの話だ。 「僕はうたこさんのことを、自我を持った、ちゃんとした一人の人間になって欲しいと思ったんだ。だから、あんなことを言ったんだよ」 「難しいお話はよくわかりません。でも、私の為だったんですね。なら、ありがとうございます」 「ほら、そうやってまた逃げるだろう、よくない癖だよ、うたこさん」 「もー、せっかく、いい気分なのに!もう一本、飲んじゃいますよ!」 「構わないよ。今日の君のブログの一番は、僕がいいからね。うたこさんのはじめての一ページめを、そうだな、手慣らし程度に、少しだけ飾らせてね。僕がオーダーを選んでもいいかな?」 「いいですよ!でも、無理はしないで下さいね。もうじゅうぶん、いっぱい、煌びやかで誇らしくて嬉しい気持ちでいっぱいな写メが撮れたので」 「そうだ、さっき、林くんに撮ってもらった写メも、後で僕に送っておいてくれないかな、気に入ったんだ」 「はい!了解しましたー!ブログにも載せますからね、楽しみにしてて下さい!」 林くんって誰だっけ?と一瞬悩んだが、そうだ、ヒロトくんの苗字だ。 うちの店の、猫目の、私より年下のボーイで、ナナさんの彼氏、名前は林ヒロト。 そう言えばナナさんは、キヨシくんの卓で何を話しているのだろう。 まあ、どうでもいいけれど、なんでも、どうでもいい。 「じゃあ、オーダー頼むよ、メニュー表は覚えているから見なくても大丈夫だよ」 「はーい。お願いしまあーす!!」 噂をすれば、と言うやつで、すぐにボーイである林ヒロトくんがやって来る。 山口さんは、また今日も、私の飲んだことのないシャンパンの名称を告げて、それを頼むね、と言った。 彼が私を指名しはじめて今月で三か月めくらいだと思うが、その間に同伴した回数はまだ五、六回あるかないかで、来店回数自体も多いと言うほどではなく、二週間に一度来られるか来られないか、と言った感じだった。 けれど、来店した際は、私からみたらの話なのだが、結構あり得ない金額を遣うのだ。 ここは銀座の高級なキャバクラや会員制クラブではないですよ!!と思ってしまうくらいの。 私は山口さんのお陰で店のメニュー表に載っているシャンパンで、飲んだことのないものをはじめて口にする、と言う機会が多かった。 だから、今日もそうだった。 「…もう、根に持ってませんよ、山口さん」 「はっはっは、現金だねえ、うたこさん」 「そうです。私は現金ですよ。わかりやすくて、簡単なんです」 「あの時の言葉は、僕のチョイスが悪かったと思ってるんだ。だから許さなくてもいいよ」 「許してます、とっくに。それに、自分で直さなくちゃと思って、頑張ってるから、今」 山口さんが私のことを傷つけた言葉。 それは、良く聞くなんでもない言葉。 でも私が一番言われたくなかった言葉。 そんな風に見られたくないと、必死で、毎日がとても楽しいと、幸せそうなフリをして、分厚く作り上げた強い皮膚を、ズルリと全て剥がされたような、そんな気持ちになった言葉。 私の血まみれの薄い皮膚を暴いてしまった言葉。 トマトの湯むきみたいに、あっさりと。 上手く誤魔化してたつもりの、現実の自分を突きつけられた。 麻痺させて来たはずのそれは、しっかりとした「真実」でしかなくて。 私、泣きながら、ほっとけよ、って思っちゃった。 山口さんが私に言った、ありきたりなよくある言葉。 『君は、死にたいんだね、可哀想に』
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