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操り糸は切れたのか
山口さんがオーダーして、この卓に入れてくれたのは、これもまた有名な、所謂『クリュッグ』と呼ばれるシャンパンだった。
もちろん、それのロゼを頼んでくれた。
この人、今日何か余程良いことでもあったのだろうか。
それとも私の運が今日で尽きて、明日晴れて死ぬこととなるのだろうか。
自分の為に大量の金が飛び交う様を見る度に、私は毎回「嬉しい」と言う気持ちよりも「不安」に陥った。
だってそんなわけない、私なんかにそんな価値などあるわけがない。
何が起きているのかわからない、私はどうすれば良いのかわからない。
そうだ、ちゃんとその分を、真心を持って誠心誠意を尽くして返さなくては。
そのくらいしか、私に出来ることなどありはしないのだから。
例えば、彼は何が欲しい、どんな対応をされるのが好き、どんなことを私にして欲しい、何を望んでいるの。
そうやって、身を削って、神経を剝き出しにして、どんな些細な合図でも見逃さないで察せるように、体全身心全部でアンテナを張って。
ただただ演じて、与えられるギリギリのものを与えられるようにして過ごす。
ボロボロになるまで。
きっと私はそうなのだろう。
そう言うやり方しか、出来ないのだ。
「いつも頑張ってるうたこさんに、あの言葉のお詫びと、応援を込めて贈らせてね」
「でも…私は、自分の為に頑張っているんです。山口さんのお陰で、頑張らなきゃ、変わらなきゃって思えたんですよ。山口さんはいつも私のことを成長させてくれる、そんな、私の恩人なんです」
「まだまだ、僕だって無知だからね。そんなことを言ってもらえるほどの人間なんかじゃないよ」
「…謙虚ですね、山口さん。やっぱり、すごい人…」
私はめちゃくちゃに泥酔しているけれど、それでも彼が私の為に入れてくれた次のシャンパンを一人で飲みきらなくてはならない。
私がこれをからっぽにすれば、山口さんは多分もうチェックをして帰るだろうと思った。
朝から仕事をしている人にとっては、今はもうさすがに真夜中だ。
これ以上店にいたら明日に響くと思われる、そんな時間帯へと差し掛かっている。
でも、じゃあ、もう一本欲しい。
私が山口さんに言っていることは全て嘘で、ただの口から出まかせだ。
全然いつでも死にたいし、でも積極的に死のうとすると物凄く痛いし怖いし苦しいだろうし、何と言ったって、生きていればたまには楽しいことだってある。
だからただ、とりあえず生きていると言うだけなのだ。
山口さんの言葉に説得されて、このままじゃダメだ、しっかり生きなければ、などと奮起したことなど一度たりともありはしなかった。
私が今、頑張っていることと言えばただ一つ。
マネージャーに褒めてもらって、可愛がってもらって、幸せな時間を少しでも多く得る為に、そう言う結果がもらえるように取る行動だけだ。
その為だけに、頑張っている。
わけのわからないこんなことを、ひと時の幸福が欲しいばっかりに、毎日ひたすら頑張っているだけなのだ。
だからね、山口さん、もう一本同じのが欲しいです、私。
「そんなに褒め過ぎると、僕だって、少しは欲をかくかもしれないよ」
「…はい、山口さんはね、もっと欲張ってもいいと、私は思ってますよ。…いつも」
よければいつでも堕落して下さい、私に。
例えば今日とか。
そろそろいいと思うんです。
酩酊状態の私にだったら、少しくらい何か紳士らしくないことをしたって、明日になったら忘れちゃってるかもしれませんよ。
そんなことを、仕掛けてみる。
この人だったら、営業方法を色恋へと変えたら、もっと沢山私に金を使うだろうと思えた。
微かでいい、関係性が変わるか変わらないかの、微妙な感じだけで大丈夫。
それ以上行くと面倒なことになるし、下手をしたら引かれてしまう。
だから、丁度いいところを見極めて、酷い酔いのせいであったと思わせられる程度で良い。
もう私はさっき知ってしまったから。
一緒に、同じように楽しめばいいんです。
一人の人の存在でぶっ壊れるのって、すごく愉快で幸せなこと。
山口さんは、酔いで潤んだ瞳でずっと視線を外さない私の膝へと手を伸ばした。
今日はロングドレスなので、残念ながら直接肌に触れることは出来ないけれど、それでも彼が私の体へ自分の体温を教えようとして来たのはこの時がはじめてだった。
どうやら、私はちゃんと、彼にとってのいい案配、ってやつを刺激出来たようだ。
ただ、太ももではなく、テーブルで隠れる膝をくすぐるだけならば、フロアにいる誰からも気づかれやしないだろう。
「シャンパンを飲もうか。僕も、やっぱり一杯だけもらおうかな」
「ふふ、嬉しいな。乾杯してくれる気になったんですね。私、寂しかった」
そのシャンパンも、ラベルがシルバーとピンクを混ぜたような色で高級感があり、でとても好みだった。
完璧に酔っぱらっている私は、更に気を良くして、どうせ頭も回らないし、後は好きにやろうと決めた。
クリュッグのロゼをあけ、新しく持って来てもらったワイングラスの方に注いでくれている山口さんの、お腹の部分に両腕を巻き付けて抱き着いてみる。
一度だけ力を込めてから、すぐに腕を離して、本当は店では卓のテーブルに肘をついてはいけないのだけれど、頬杖をついて彼の顔を覗き込む。
「ほら、うたこさん、零してしまったらもったいないよ」
「本当だ、山口さん、ちょっとダイエットした方がいいかもですよ」
「はっはっは、言われちゃったなあ。僕も頑張るよ。君も頑張っているからね」
「ねえ、はやく自分のも注いで下さい、乾杯しましょう!」
「そうしよう。それから、うたこさんの写真を撮らせてね」
「いいですよ!どんなポーズがいいですか?」
「さっきの、頬を包んで微笑んでいる、それをもう一度頼むよ」
今日は結局、彼はシャンパングラスを一度も使わなかったが、そのかわり少々小ぶりなワイングラスを使いたいと言い、ボーイに頼んで持って来させた。
うちの店は、もちろんバーなどではないので、そんなに沢山の種類のグラスが常備されているわけではない。
けれど、せめて気分だけでも、と言っていたから、山口さんはキャバクラで私と飲んでいるのではなく、ワイングラスを使ってこのシャンパンを飲むような店にいると錯覚したかったようだ。
何の違いがあるのかは、私には全く知識がないのでわからなかったが、何かが少し、思惑通りに進んだらしい。
「わーい!かんぱあーい!」
「はっはっは、うたこさんが、子供に戻ってしまったね」
「私は、まだコドモかも、ですよ」
「そうだね、じっくりでいい、素敵な女性になろうね」
まるで自分がそう育てている、育ててあげるからね、って言ってるみたいだ。
まあ、勝手にしたらいいんじゃないですか。
私はもう、今日は好きにすることにしたので、覚悟して下さいね。
もう、知らない。
わかんない。
マネージャーがいつもと違うことと、多分赤ワインを無理して飲んだことで、私の中で何かが外れた。
「わー!すっごい!何これ、美味しい!色も、すごく綺麗!これ、私、すっごく好きです!!」
「うたこさんはピンクが好きだよね。僕はいつも、自分の好みのものを贈ってしまうから、次はピンクのバックでも贈ろうか」
「いらないです。何にもいらない、私」
「素直に喜んでくれていいんだよ、僕がそうしたい時もあるからね」
「私は、好きなお酒を飲んで、山口さんとお喋りをして、たまにキツイこと言われて凹んでも、その分ちゃんと頑張る力をもらってるから、他にはなんにもいりません」
適当に優等生っぽいことを、山口さんが好みそうなことをべらべらと並べ立てて、シャンパンで乾杯をすると、はじめの一杯はちゃんとゆっくりと飲む。
味わっていないのがバレてしまうと、気を悪くしてしまうかもしれないからだ。
でもだって、何にもわかんない。
味なんかわかんない。
そんなのどうでもいい。
苦しい。
本当は、しんどい。
それでも私はワイングラスを、シャンパンのボトルをからっぽにする為に次々と飲んで、時々山口さんの為に新しい酒を作ってグラスをハンカチで拭いて、アイスの交換をお願いしたりする。
痛みと叫びが声帯に引っ掛かっているのを、何度もシャンパンで胃の底まで流し込んで、ギリギリのところで耐える。
次またキヨシくんの卓に呼ばれる前には、手を打たなければならない。
私は、山口さんに何度も写真を撮られながら、微笑み続けながら、シャンパンをからにして、ついでに尊厳とかなけなしのプライドとか、信条とかも一旦からにした。
彼の耳に触れるか触れないかくらいまで唇を近づけて、けれど私は特に言葉を発したりはしなかった。
賭けではあったけれど、山口さんに「今日を逃したらもうこのチャンスはない」と感じさせることくらいは出来たのかもしれない、そんな音を紡がない一言。
先ほどと同じ、私が「好き」になったシャンパンがオーダーされ、私はそれを飲むことなく山口さんの卓を離れることになる。
私ではなく、ヘルプについてくれたキャストのお姉さんが卓についている間に、山口さんは最後の延長を問われることになるだろう。
彼はチェックするだろうか。
それともラストまで留まるだろうか。
それはわからなかったけれど、私はキヨシくんの卓で別のシャンパンを飲まなければならない。
私は、付け回しの為に卓へやって来て名を呼んだマネージャーに向かって、山口さんの腕にしがみつくと、思いっきり「ええー!!やだあ!!」と言って駄々をこねた。
別にキヨシくんに聞こえてしまってもどうでもいいからだ。
私の指名客は今この店には二人しかいなくて、月曜だしフロアはすいていたし、ミズキさんの指名客には関係のない言葉だろうし、って言うか、もう何もかもどうでもいいし。
イライラするし、モヤモヤするし、辛いし、喚いて、暴れ出してしまいたい。
「うたこさん、僕は嬉しいけれど、あまり店の人を困らせてはいけないよ」
「だって!私は山口さんのところにいたいんです…」
「ありがとうね、僕はここで待っているから、行っておいで」
なんだ、いるんじゃん、ラッキー。
私はすごく哀しそうで、不満でいっぱい、と言う顔を作ると、もう全てからっぽになった自分の体を、山口さんのラストまでの滞在確定である言葉だけを頼りに、辛うじて操る。
だって、本物の操り糸が切れてしまったのかもしれないと思っていたから。
だったら他の、一時的なものでも良いから、偽物が必要だ。
虚脱感と、絶望感でいっぱいで、立って歩くことすら、今の自分には出来そうにもない難易度の高い試練でしかなかった。
それでもやるしかない。
私はこの店のキャストで、勤務時間はまだ終わっていなくて、給料が発生しているのだ。
その分だけの働きは、最低限しなくてはならない。
あーあ。
嘘でもいいのに。
もう、それすらお終いなの?
やだ、そんなの。
死ぬ。
マネージャーはもう一度、私のことを改めて呼ぶ。
抑揚のない、平坦な声音で。
少しだけ、私の態度を咎めるように。
「うたこさん、お願いします」
もう、私泣きたいよ、中村さん。
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