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店での秘め事
操り人形って、当たり前だけど、糸が切れたらもう動かないでしょう。
ネジを巻いてくれる人がいなくなったら、もう動かないでしょう。
操作してくれる人がいなくなったら、ロボットだって動かないでしょう。
でも私には感情があるからさ、涙とかは勝手に出るし、怒りとか迷いとか苦しみとかは感じるんだよ。
面倒くさいなあ。
立ち上がった私は、速攻でよろけて、ソファの上に向かって倒れ込んだ。
先ほどまで座っていた卓の隣にはもう誰もいなかったので、そのままそこに上半身を横たえた。
下半身は床の上で、化粧が崩れるかもしれないけれど、両腕で自分の顔を覆うと、表情が誰にも見られないように隠した。
「…うたこさん、一度、奥へ」
「……いやだ」
「はっはっは、悪いね、君。今日は僕が、彼女に酒を飲ませ過ぎてしまったようだ」
「とんでもございません。少し休憩をしたら、また山口様の卓へつきたいと、元気に駄々をこねはじめると思いますよ」
「そうだね。うたこさん、大丈夫だよ、僕は待っているから。少し休んでおいで」
「……うん、絶対ですよ、行かないでね、どこにも」
誰に向けて言った言葉だったと思いますか。
顔を上げて、片腕の手のひらをソファについて、もう片方の手で化粧ポーチとハンカチを掴む。
山口さんを見て、ニコっと、ちゃんと笑って見せる。
約束してね、と呟いてから、私は今度は隣の卓のテーブルへとからっぽの方の手をついて、どうにか脚に力を込める。
そして今度こそ立ち上がると、山口さんに「行って来ます…」と、切なげに告げ、ヘルプのキャストのお姉さんと位置をかわる。
マネージャーが一礼して歩き出すので、私はフラフラとその後ろをついて行く。
黒いスーツ、私をおんぶしてくれたこともある痩せた背中、その温度は今はもう冷たいの?
そうやって、フロアをぼんやりと歩いていたら、キヨシくんの卓ではなくて、ヘアメ室の方へと連れて行かれる。
叱られるのだろうか。
泥酔して酩酊状態で感情的な行動をはじめて店でとってしまった。
それとも、部屋の鍵を返せと言われるのだろうか。
ガッカリした、失望した、私への気持ちはもうヒトカケラもない、と、そんな接し方をされるのだろうか。
ヘアメ室のドアが開けられ、先に入るよう促されて、私はトボトボと中へと入る。
電気は消されていて、暗かった。
マネージャーも私に続いてこちら側へ来ると、ドアが閉められる。
真っ暗闇になってしまったヘアメ室で唯一感じられる温もりと言えば、フロアとこの部屋を区切るドアのほんの少しの隙間から漏れる、淡い橙色の光の筋一本だけだった。
「…うた、どうした」
「…どうもしません」
「何かあったら、俺のこと呼べって言っただろ」
「…だって、何もなかったです。あのくらい、一人でなんとかやれます」
「あんなに飲んで。俺が、何とかしてやるって言っただろ?」
「…中村さん、ねえ、なんで?」
本当にただのマネージャーとキャストだった時より、私のことちゃんと見てくれなかったよ。
優しくしてくれなかったよ。
笑ってくれなかったよ。
褒めてくれなかったじゃん。
それとも、部長か店長か、誰か客にバレたんですか?
もう、全部お終いなの?
「…うた、大丈夫だって言っただろ」
「…だいじょばない、私、死にたい」
死にたい、と言ったら、本当に死にたくなって来て、空虚な気持ちでいっぱいになって、思わず俯いた。
途端、突然抱きしめられ、顎を捕まれ上を向かされる。
唇を塞がれて、まだ閉じているのに無理やり舌が入って来て、口内を荒らされた。
すごく寒くて死ぬのを待ってた体に、いきなり油をぶっかけられて火をつけられたようだった。
アルコールのせいもあるのか、それとも突然唇を奪われたせいなのか、体が熱くて汗が吹き出して行くような感覚を覚える。
骨が軋むくらい力を込められていて、息が上手く吸えない。
中村さんの長い腕は背中で交差され、手のひらは私の肩を掴んでいる。
指先が内側に食い込んで、痛いはずなのに、皮膚が敏感になり過ぎていてそれすらも気持ちよく感じてしまう。
絡まった舌が濡れた音を立てて、鼓膜まで刺激する。
私は何も把握出来ないまま、それでも彼の背中に腕をまわして、浅く荒く、甘いため息を喉に詰まらせた。
「死ぬな、うた」
「は、…あ、…いま、殺されかけました、けど…!」
「客に、何かされたのか?」
「…何も、されてません。私がしました」
「…何をだ」
「延長を取る為に、耳を舐めただけです」
やっと、やっとで、彼が笑った。
多分、笑ったのだと思う。
暗闇で表情なんか見えなかったけれど、空気でわかった。
私に向かって微笑んでくれている、と言うのをなんとなくだけれど感じる。
良かった、良かった、本当に良かった…!!
中村さんが、笑ってくれた。
ちゃんと私のこと見て、笑ってくれてるんだ。
いいの?何もないの?まだ私のこと可愛い?まだ、切れてない?ちゃんと、繋がってる?
私を操る為の糸は、その手の中にある?
中村さんは、私の首筋に顔を埋めてちゅ、っと痕がつかない程度に吸った。
「大丈夫だ、後二日だ。頑張れ、うた。出来るから、おまえなら」
「…大丈夫、なんですか?」
「大丈夫だ。何だ、本当に、何があったんだ」
「中村さんの様子が今日、変だったから…」
「そうか。おまえは気づいたのか。俺も、まだまだだなあ」
「何か、ありましたか?」
「そうだな、うたには話すか。店終わったら、ミサのところに行くのか?」
「…連絡、まだないんです、ミサから」
「じゃあ、そのまま連絡なかったら、あそこ行ってろ。アオイとカナちゃんとこ」
「…わかりました」
何か、別件だったと言うことでいいのだろうか。
私にだけ態度がおかしかったわけではなくて、今日は他のキャストのお姉さんたちにもそうなっちゃっていた、と言う、ただそれだけなのだろうか。
私は猪突猛進過ぎて、自分のことしか考えていないから、高慢にも自分にだけ中村さんが冷たくしていると勘違いをしただけだったと言うことなのだろうか。
彼は、仕事とプライベートを完全に分けることが出来る人なのだ、きっと。
何より私は、ただの色管理をされているだけのキャストでしかないのだから、仕事で何か問題が起きたとしたら、後回しにされるのは当然だろう。
その、問題を抱えている状態で、勤務している際に、わざわざ私を幸せな気分にさせたり、楽しい気分にさせたり、優しくしたりする必要性はない。
つまり、そんな余裕は、今日の彼にはなかったと言うことだ。
中村さんは私のことを、私が彼を好きなくらい好きなわけではないのだから、そうなるのは仕方がない。
今日は、中村さんの仕事に関わるような、何か重大で重要なことがあったと言う、そう言うことなのだろう。
なんだ、私バカすぎ、笑っちゃう、一人で勘違いして拗ねてやらかしてただけじゃん。
恥ずかしい、あまりにも子供過ぎて、周りが見えてなさ過ぎて、視野が狭くて、彼を気遣えなくて。
ここが闇の中であることに感謝だ。
とてもじゃないけど、顔向け出来ないよ。
ああ、なんだ、いいんだ、私まだ頑張っていいんだ。
中村さんはまだ、私のこと手放したりしないんだ。
だったらいい、平気、大丈夫、突っ走れる、がむしゃらに頑張れる。
「…中村さんは、私のこと好き?」
「ああ、好きだよ」
「本当に?」
「そうだな」
「嘘じゃない?」
「可愛いよ、イイコだしな」
「ん、正解」
「何だ、まだなんかあるのか」
「安心しました。行きます、まだ飲まなきゃ、私」
キヨシくんが入れてくれた、エンジェルを飲んで、そのボトルとクリスタルのロゼのボトルを二本持って、満面の笑みを浮かべて写メを撮るのだ。
ラストまで後少しだけれど、急いで飲めば後一本くらいは入れられるかもしれない。
どのくらいの金額を借金で手に入れて、今日店に持参して来ているのかは知らないけれど、一人のキャストのお姉さんに場内を入れ、本指である私からのおねだりでクリスタルとエンジェルを躊躇いなく入れられるくらいは持っているのだろう。
じゃあ、後一本くらいだったら、いけるかもしれない。
もし渋るようだったら、次の機会でいいし、次の機会が来なければ、それはそれでどうでも良い。
この大切であるらしい三日の内の一日にたまたまやって来て、私の売り上げに貢献してくれたのだから、それだけで別に、彼がその後どのような行動に出るかなんて、どうだっていい。
今後、彼が選び取る手段によっては、私は彼の人生を壊すかもしれないし、目が覚めるようであれば店に訪れることはなくなると言う、ただそれだけのことなのだから。
「そうだ、うた。木村さんに後でラインしておけ」
「あー、やっぱり、あの百合は木村さんですか」
「そうだよ。おまえの名前宛で届いたから。じゃあ、行けるか?」
「はい、…残り、頑張ります!」
マネージャーが、私の頭を撫でてから、ギュウっともう一度、今度は優しく抱きしめてくれる。
そして、少しの間だけ、私も精一杯背伸びをして、腕をマネージャーの首に巻き付けて、黒いスーツにうっすらとファンデーションの色をうつした。
私は捨てられたわけではなかったのだ。
あまりにも酔っていて、ここが店であることや、まだお互いが勤務中の時間帯であると言うことを失念してしまいそうになる。
けれど、そんなわけにはいかない、と言うように、お互いの腕は離れてゆく。
マネージャーがヘアメ室のドアをゆっくりと開けると、フロアのシャンデリアたちが放つ弱い灯りすらも眩しく感じた。
私はかなりの鳥目なので、ここで起きた一切の出来事を、自分自身の両の瞳でしっかりと焼き付けることは出来なかった。
けれど、心には、燃え上がる大きな炎が宿り、なんとかやってやる、と言う強い気持ちがわき上がって来た。
生き返った、息を吹き返した、彼の大事な操り人形。
本当は、いけないことだけれど、それでもなんでも出来そうな気がした。
それがただの気の迷いや、幼さ故の過ちや勘違いだったとしても。
私は、まだマネージャーの操り人形でいられることを、ただただ幸せだと感じていた。
だってそれは、まだ生きていても良いと言うことだ。
マネージャーが、死ぬなと言ってくれたのだから。
私は黒いスーツに身を包んだ、ヒョロリと高い背中について行く。
フロアを、かなり酔ってはいるので、カッコよくは歩けていなかったかもしれないが、それでも気分良く進んで、キヨシくんの卓へと向かう。
スキップしたいくらいの、甲高い声で笑い出したいくらいの、大声で泣いてしまいたいくらいの、めちゃくちゃな感情を抱えて。
いつだって私は自分の狂気に侵されていた。
それはいつ暴れ出すかわからない、禍々しい、けれど無垢で純粋な猛獣で、そんな私のことを飼ってくれる人を探し続けていた。
ずっと一人きりでそのコの面倒を見続けて来た。
本当は愛着だってあったし、愛情だってあった。
けれど外の世界では受け入れられないとわかっていた。
だからひた隠しにして生きて来た。
閉じ込めて、鍵をかけて、口を塞いで、牙を打ち砕いて、咆哮を殺すために喉を絞めて。
でも、マネージャーは、中村さんは、そんなこのコのことを、可愛い、イイコだと言ってくれた。
嘘じゃないって、本当は喉から手が出る程に、私が欲している返答をくれることはなかったけれど、それでも。
このコと共に在る私のことを、こうして可愛がってくれる。
だからいい、私はそれだけでいい。
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