482人が本棚に入れています
本棚に追加
/609ページ
私は「犬」ですか
「お待たせ致しました。うたこさんです」
「来たよー!キヨシくん!」
「うたこちゃん、良かった。もう、来てくれなくなったら、どうしようかと思ってた」
「心配しなくていいよ!一緒に飲もうね、可愛いラベルだし、味が楽しみ!」
「ナナさん、お願い致します」
「…キヨシさん、わたしもコレ、飲みたいんですけどー。やっぱり、ダメですか?」
「ごめんね、ナナさん。僕は、何度も言ったように、うたこちゃんと二人で飲む約束をしたから」
ナナさんはどうやら、エンジェルを飲んでみたい、と、私が卓にいない間にキヨシくんにお願いをしていたらしい。
別に三人でシャンパンを飲むのは構わないし、もう正直これ以上、ボトルを短時間でからにするには、私は今日飲み過ぎていると言う自覚はありまくりだ。
もしも、ナナさんが手伝ってくれるようであれば、三人で一本を飲むわけだから、中身をあけるには良いだろうと思うし、ありがたくもある。
「キヨシくん、ナナさんはシャンパンを飲んだことがない、って言ってたし、一杯くらいご馳走しようよ」
「…え…?いいんですか…?うたこさん」
「うたこちゃん…でも、俺は…」
「うーんっと…あ!じゃあ、こうしよう!エンジェルは私とキヨシくんの二人で飲むことにしてさ、飲み終わったら、ナナさんも呼んでさ!この間ナナさんに飲ませてあげられなかったモエのロゼを、三人で一緒に飲もうよー!」
この提案ならば、どうだろうか。
クリスタルやエンジェルと違って、モエシャンのロゼならばそんなに高価ではないものだ。
今のキヨシくんの手持ちは知らないが、私の為に彼からしたらバカ高いシャンパンを二本も入れた直後なわけだから、モエシャンの値段は軽いものに感じるのではないだろうか。
何より私はキヨシくんの心情など、もう思い遣ったりしない。
もしナナさんが私と仲良くしてくれて、万が一キヨシくんが再び来店することがあった際に、私のヘルプを担うキャストのお姉さんとなってくれるようであれば、その分、気が楽になる。
「いかがなさいますか、一旦、ナナさんは下がらせますか?」
「…そうだね。ナナさんは、僕の相談に長い時間付き合ってくれたんだし。うたこちゃんがそう言うなら、それが一番いいような気がする!」
「ありがとう!キヨシくん!ナナさん、後で呼びますね。それまでちょっとだけ待っていて下さい!」
「…うたこさん、ありがとうございます。わたし、うたこさんのこと、勝手に誤解してました…」
「いいんです、そんなの私は気にしません!良かったら、仲良くして下さいね!」
「では、ナナさん、一度、お願い致します」
私たちの話がまとまった、と判断したのであろうマネージャーが、ナナさんを改めて卓から引き抜くと、二人は一礼して卓を去って行く。
それを見届けてから、私はキヨシくんの隣に座ると、さっそく彼の気分が盛り下がらないように腕を絡ませ、酔っぱらいらしくもたれかかり、エンジェルをあいている方の手でワインクーラーから掴んで取り出す。
「うたこちゃんは女のコにも優しいね。そうだよね、僕、ずっと長い時間ナナさんに話を聞いてもらってたのに、何もお礼してなかったよ」
「そうだよ、キヨシくん。ナナさんだって、一生懸命キヨシくんの話を聞いてくれたんでしょう?じゃあ、私だって、キヨシくんの為にいっぱい考えてくれたナナさんには、お礼がしたいな」
「うん、じゃあ最後には、前に俺と先輩が入れたのと同じやつ、を頼んでみるよ。本当だったら、うたこちゃんがもっと喜ぶものを、って考えてたんだけど…」
「クリスタルも素敵だったし、エンジェルだってこんなに可愛いし、私は十分だよ!何より、キヨシくんのその気持ちだけで、本当に嬉しい…!」
そんなことは全く思っていなかったし、そりゃあ今日の気が大きくなっているキヨシくんにだったら、もっともっと高額なシャンパンを強請ることだって出来たかもしれない。
なんだかマネージャーが、良く私に言い聞かせてくるように、何か意味のあるのであろう、この三日間の内の一日目なのだから、それが本来ならば正解だったのだろう。
けれど、私はもう、これ以上酒を飲むことは出来るだけ控えたいし、ナナさんにも興味があった。
それになんだか、キヨシくんはまた借金を重ねて店にやって来るような気もしていたのだ。
そのように積極的に仕向けるようなことはしないつもりだったが、彼が勝手にそうするのであれば私はもう止めることはない。
「よし!今度こそ、俺があけて見せるからね、うたこちゃん、見ててね」
「さっきだって、ちゃんと出来てたよ!そうだ、動画で撮ってあげるねー!後で送るよー!」
「ありがとう!」
先ほど私がテーブルの上に置いたエンジェルのボトルをキヨシくんが持ったので、腕を解くと、化粧ポーチからハンカチとスマホを取り出す。
ハンカチは、キヨシくんの前に置いてあるハウスボトルの酒の入ったグラス周りがまた水浸しだった為、拭いて綺麗にする為だ。
ナナさんは必死なんだ、本来ならば基礎的な仕事はきちんとこなせるはず。
そう言うキャストのお姉さんだと思う。
ただ、シャンパンを飲んでみたい、シャンパンと写メを撮ってブログに載せたい、そんなスタートを今日絶対に切りたい、そんな気持ちだったのだろう。
スマホは、キヨシくんがエンジェルをあけるところを撮影する為だと言ったけれど、私は素早くラインを開き、まずはミサから連絡がないかどうかを確認した。
しかし、やはり通知はなかったので、ほんの一瞬だけ顔を歪める。
それから撮影用のアプリを開き、動画を撮影する方のボタンをタップすると、あれこれ栓の部分を見て疑問符を頭の上に浮かべていそうなキヨシくんのことも、クスクスと笑いながら撮影しはじめる。
それを、カッコイイ部分だけを撮ってよ!、なんて言って照れくさそうに苦笑いするキヨシくん。
もう私たちは、付き合いたてのカップルのようなノリで接し合っている。
これでいい、これが彼の望んだことなのだから。
私は返せる分だけを、ちゃんと返したらいいのだ。
「まずは周りの部分を剥がすんだよ、そしたら、親指で栓を押さえて…」
「うん、うん、…あ、そうだ、さっき教えてくれた、ボーイの人が使ってた…」
「そうそう、マネージャーが言ってたみたいに、そのナプキンで覆ってね。ゆっくり、ボトルの方を回した方がいいよ」
「ごめんね、結局教えてもらってるね、俺」
「そのうち慣れて、カッコよくあけられるようになるよ!大丈夫!んっとね、後は勝手に栓が持ち上がってくるから、中から出て来る空気が抜けたら、きゅって栓を傾けるといいよー!」
これは以前、私がマネージャーから教わったことだ。
酒にそこそこ強いキャストが入店した、と言うことで、どんな卓で、どんな客が相手でも、シャンパンを手早く上手くあけられるように、と。
店が混雑していて忙しい日は、ボーイやマネージャー、店長がすぐに卓に来ることが出来ない場合だってある。
そんな時は、ヘルプでついているうたこがやるんだ、と言われ、本指のキャストのお姉さんと客の仲を褒めながら、上手く客の気分を上げるような話題を提供しながら、何度か私はシャンパンをあけたことがあった。
実は、ホスト界隈で使われていた言葉なのだが、「犬」と呼ばれる類のホストがいた。
器量が良くないだとか接客が下手だとか、何かしらの理由があって、あまり使い道がないような、そう言うヘルプだ。
彼ら「犬」は、姫を担当しているホストである店の主役が、稼ぎ頭が、酔い過ぎないよう、潰れないように、ヘルプで卓へとつけられて、ボトルを沢山あける為だけに酒の一気飲みなどをさせられ続けるのだ。
そのような役割しか与えられない、そのような目的で卓につけられるヘルプのホストのことを「犬」と言った。
今はどうなのかは知らないが、そう言う言葉があったのだ。
つまり私は、No上位をキープ出来るようになる、その前。
つまり、以前はずっと、ホストクラブで言うところの「犬」であった。
今はどうだろうか、少しは違うのだろうか。
No上位をキープし続けられることが出来るようになってきたのに、やっていることは結局ボトルを沢山あける為に酒を飲み続けることだ。
私は、ここまで来ても、まだ「犬」なのだろうか?
「さあ、うたこちゃん、飲もう!ちゃんとグラスに注ぐのは、上手く出来たかなあ」
「うん、いい感じー!ちゃんと注いでるところも動画に撮ったからね!」
「乾杯しよう、何回でも乾杯したい。もう会えないかと、もう会ってくれないかと思ってた、辛かった。哀しかった。俺には、うたこちゃんと会えないなんて、やっぱり無理だよ…」
「…そっか、ありがとう。そこまで想ってくれて。乾杯、キヨシくん」
勝手なものだ。
人のことをズタズタにしておいて。
でも私も人のことは言えない。
きっといつも、気づいていても、もしくは自分では気づかないうちに、知らないうちに、誰かをズタズタにしているのだろうから。
被害者面なんて出来ない、私だって、いつだって加害者側でもあるのだから。
二人で乾杯をして、エンジェルを飲んで、私はなるべく早めにシャンパングラスをからにすると、次を注いでもらう。
どちらかと言うと甘くて、ストロベリーのような風味がある、飲みやすいシャンパンだと思った。
ああ、これをもう一本入れてもらった方が良かったかな、なんてちょっと後悔もしつつ、それでも上機嫌で飲んで、飲んで、酔って、キヨシくんの肩に頭を乗せて、懐っこい犬のように顔だけを上げて視線を合わせ、満足そうに微笑む。
「…うたこちゃん、さっきのボトルと、これを持って!スマホをかしてよ。写真撮ってあげるね!俺も同じとこにブログを登録して、うたこちゃんのブログをフォローする!」
「ええー!ちょっと、恥ずかしいけど…!ふふ、じゃあ私、キヨシくん、見てるかな?って思いながら、毎日書くよー!」
「思いっきり笑ってね、うまく撮れるといいんだけど…。何枚が連写するから、そこからいいやつ選んでね!」
私は、クリスタルを右手に持ち、エンジェルを左に持って、両方をそれぞれの頬にあてて、ニッコリと笑顔を作る。
キヨシくんが私のスマホの自撮り専用のアプリで、何度かカシャ、カシャ、と撮影音を鳴らして、最後にエンジェルのボトルにキスをする私の横顔の写メを嬉しそうに撮影した。
だってコレ、気に行っちゃった、私!と言ってニコニコしながら、胸にボトルをギュっと抱いて見せる。
安心したように、幸福そうに口元を緩めたキヨシくんは、また絶対に飲ませてあげるからね、と言って、笑顔で私の頬へと触れるのだった。
今日は、これでキヨシくんへの営業は終了だ。
私は後一本、山口さんの卓で飲まなければならないシャンパンがある。
頬を温める彼の手の甲に一度だけ手のひらをあててやると、終了です、と心の中でシャッターを閉める。
それから、約束通りナナさんの為にモエシャンのロゼのオーダーと、場内の入っている彼女を呼び戻す為に腕を上げ、声を張り上げる。
「お願いしまあーす!」
頭が痛くなって来ていた。
赤ワインだろうか、それともシャンパンだろうか、他の指名客の卓で飲んだキープボトルのブランデーやウィスキーだろうか、それとも甘いカクテルだろうか。
何が作用しているのかはわからないが、間もなく私には再び限界がやってくるだろう。
それでも、もう大丈夫なのだ。
私にはちゃんとマネージャーの操り糸がまだ繋がっていて、例え意識を手放したいと考えても、体は定めた目的通りに勝手に動いてくれる。
そうなってる。
そう出来てる。
良かった、元に戻って。
本当に良かった。
頑張る、最後まで駆け抜けて見せる。
私の操り糸は、切れていないのだから。
でも、じゃあ、マネージャーの様子がおかしかった本当の理由の方って、なんだったのかな?
最初のコメントを投稿しよう!