ゴミ箱行きになる日まで

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ゴミ箱行きになる日まで

マネージャーに連れられてやって来たナナさんは、相当張り切っているんだな、胸を弾ませているんだな、と一目見てわかった。 その瞳を、爛々と輝かせていたからだ。 呼び出しをかけただけで、まだ何もオーダーを取っていないと言うのに、ナナさんもメニュー表もどちらも届けられてしまった。 まあ、さっきの話をマネージャーは全て聞いていたのだから、私が次に何を頼むかだなんてわかっていただろうし、時短の為にそうしたのかもしれない。 多分、偶然それと重なるようにして、キヨシくんの卓を抜かれて、山口さんの卓へと戻る時間になったと言うだけのことだろう。 その知らせと言うか、そろそろだぞ、って言うのを、マネージャーがわざわざ一手間抜いたことで私へと伝えただけだ。 「お待たせ致しました、ナナさんです。メニュー表もお持ち致しましたが、いかがなさいますか」 「あの!ありがとうございます…!キヨシさん、うたこさん!」 ナナさんが、私たち二人が座っているソファの、テーブルを挟んだ向かい側にある丸椅子へと腰掛ける。 先ほどと同じように頬を紅潮させ、けれどどこかぎこちなく、緊張しているかのような笑顔で私たちのことを見る。 どうしたのだろう、シャンパンが嬉しくないのだろうか、それとも待機中に何かあったのだろうか。 「ね、ごめん、うたこちゃん。あのシャンパンって、なんて言う名前だっけ?」 「モエのロゼだよ!美味しいよ。ナナさん、写メ撮ってあげますね!良かったらライン教えて下さい、後で送りますよー!」 「…本当ですか!?う、嬉しいです!!ありがとうございます…!!」 「えっと、じゃあ、そのモエのロゼって言うのをお願いします!」 「かしこまりました。少々お待ちください」 マネージャーが一礼して、私のことではなく、ナナさんのことをチラリと一瞬見たような気がした。 気のせいでなければ、何か言われたのだろうと思う。 いやいや、今はそんなことを考えている場合ではない、多分モエのロゼがやって来て、三人で乾杯をして一杯くらい飲んだ頃には、私は山口さんの卓に戻らなければならないのだから。 覚悟しておかなくては。 私は物理的にも心情的にも痛む頭をどうすることも出来ないので、痛覚ごと無視することに決め、ナナさんに懐っこい笑顔を向けてラインを聞く。 ナナさんはソワソワとしながら、白い生地にドングリとリスの模様が描かれている可愛らしいポシェット型の、大き目な化粧ポーチからスマホを取り出す。 そんな風に、落ち着かない様子で私とラインを交換すると、いきなりガバッと頭を下げて謝罪しはじめた。 「あの!うたこさん!ごめんなさい!キヨシさんも、ごめんなさい…!」 「え?!どうしたんですか?何?キヨシくんも??何か、ナナさん、悪いことしましたっけ…??」 「俺、ナナさんに、…何も、謝られるようなことは…、どうしたの?何か、あったっけ…?」 「だってわたし!キヨシさんに気に入ってもらおうとして、うたこさんの指名のお客さんなのに、何度もライン聞いたし!名刺もまた渡そうとしたし!…シャンパンと、一緒に写真撮りたくて…!キヨシさんが、うたこさんの為に入れたやつなのに…、無理を言いました…!!」 「なんだー!!そんなことかあ…別に、私はそんなの平気ですよー!でも、他の卓のヘルプではやっちゃダメですよ?…ふふっ、結局全部バラしちゃうなんて、ナナさんは正直者で素直な人なんですね。キヨシくんだって、相談に乗ってもらったって言ってましたよ?」 「ごめんね、俺の方こそ、鈍くって。ナナさん、俺、そんなこと気にもしてなかったよ。うたこちゃんのことばかり考えてて、ナナさんに飲み物もあげなかったし、俺だって、そんな失礼なことしちゃってたんだよ」 「あと…うたこさんのこと、悪くも言いました。沢山お客さんを持ってるから、キヨシさんのとこになんて来ないよ、って…ひどいこと言いました。キヨシさんが、わたしのことを指名してくれたらいいなって、思って…」 そんなことマジで気にもとめないので、本当にどうでもいいのだが、ナナさんは黙っていられなかった、と言って、堰を切ったように、怒涛のように、ひたすら謝り続けた。 むしろ別にキヨシくんがナナさんに指名がえしても私は構わなかったくらいなので、そんなに申し訳なさそうにしないで欲しい。 私とキヨシくんに宥められ、気にしていない、もう許している、と繰り返し言われ、なんとかナナさんは顔を上げてくれる。 と、その瞬間に、まるで合わせたかのようなタイミングでワインクーラーに入ったモエのロゼがやって来て、シャンパングラスが三つ、それぞれ私たちの前に並べられた。 持って来てくれたのは、年上の方のボーイだった。 この人はとても礼儀正しいけれど無口で、キャストのお姉さんたちともあまり会話をしたりはしない謎の人だ。 マネージャーよりも結構年が上だと思われる風貌をしており、なんとなく蛇を連想させるような目を隠すように黒縁の小ぶりな横長の眼鏡をかけている。 そんな彼は、いつだって何事も素早くそつなくこなすイメージだった。 ボーイは、完璧な一礼をすると、「ごゆっくりお過ごしください」と淡々とした調子で告げ、すぐに下がる。 「ほら!シャンパンも来たし!もういいですよー!そんなの水に流して、皆で乾杯しましょう!あ、どうしますか?あけてから写メ撮りますか?あける前がいいですか?」 「うたこさん…、ありがとうございます…。キヨシさんも、本当にごめんなさい。写メ、本当にいいんですか?わたしのじゃ、ないのに…」 「ナナさんも、場内指名?だっけ?…らしいからさ!うん、これはナナさんのものでもあるよ。俺は、二人の為に入れたんだから、喜んでくれた方が嬉しいよ。うたこちゃんだって、ナナさんのこと、もう許してるんだし」 おお、キヨシくんがなんだか男らしいことを言っている。 大金が手に入ると、人と言うのは何か自信がついたり余裕が出来たりするものなのだろうか。 あのキヨシくんが、ヘルプ扱いをしていたキャストのお姉さんに「二人の為に入れたシャンパンなんだから、喜んでくれた方が嬉しい」だなんて、そんなことが言えるようになったとは、すごいことではないだろうか。 その大金の出所を想像すると、いいのか悪いのかわからないけれど。 ナナさんは、やっとで微笑むと、出来れば飲み終わった後の、からになったものを胸に抱いている写メがいい、と言った。 こんなにシャンパンに憧れていたのであれば、もう少し高いものをキヨシくんに強請っておいた方が良かっただろうか。 「了解しました!ナナさん、ブログやってるんですよね。私、フォローしたんですよ。遡って読んだりもしました。私、ナナさんのブログのファンなんですよー!」 「…うたこさん。ありがとう。わたしも、うたこさんのブログ、フォローしますね。あの…良かったら…一緒に、二人で写メ撮ってもらっても、いいですか?」 「ねえねえ、なんだか俺、ちょっと寂しいよ、うたこちゃん。うたこちゃんにも、ナナさんにも、フラれちゃった気分だよ!」 「あはは!キヨシくんったらー。両手に花なんだから、本当は主役なんだよ?三人でも一緒に撮ろっか!もちろん、キヨシくんはお客様だから、ブログには載せられないけどねー。でも私、その写メ、大切にするよ」 三人でお喋りをしている間に、キヨシくんが自分からシャンパンを手に取ると、今度は誰からも手ほどきを受けず、自分の力でなんとかあけることに成功し、私はそれも動画に撮影していた。 キヨシくんに、後で送るからね!と言ってから、耳元に顔を近づけて「カッコよかったよ」と、わざと甘い声を作って言ってみる。 もう、彼への営業は終了しているので、頭は回っていない。 何も考えず、良い結果が出そうな方へと体が勝手に動き、口は適当な言葉を紡ぐ。 ほら、ちゃんとしっかり、上手く操ってもらえてるのがわかる。 キヨシくんはだらしのない顔をして、私はそれをクスクスと可笑しそうに笑う。 ナナさんは、なんだかそんな私たちの姿を、物珍しそうに、不思議そうな顔をして見ていた。 一杯目のモエのロゼを、キヨシくんが三人のシャンパングラスに注ぎ、丁度真ん中で乾杯をすると、私はこちらに向かってくるマネージャーの姿に気づいたので、一気に飲み干した。 さあ、山口さんのところでも飲まなければならない。 けれど、残された時間は少ないはずだ、きっとなんとかなるだろう、だっていつも、私は死にそうになりながらも、なんとかそうして来たのだから。 「うたこさん、お願いします」 「はあーい!」 「あの、うたこさん、頑張って下さい!後で、写メ、一緒に撮って下さいね…!わたし、待ってます」 「俺も待ってるからね。三人のも撮るって言ったんだから、仲間外れにしないでよ」 「あははは!キヨシくん、ナナさんは女のコだよー。ヤキモチ妬くのはおかしいよー!大丈夫、さっきのキヨシくん、本当にカッコよかった、見惚れちゃった!」 私はテーブルに手のひらをついて、なんとか平気なフリをして、震えそうになる脚を心の中で叱咤して立ち上がる。 グラグラと揺れる思考も、溺れているようで助けを求め暴れ出したい、もしくは諦めて沈みたい、そんな感覚も。 今にも脱力して崩れ落ちて行ってしまいそうな肉体も。 脚に纏わりついて、上手く前に一歩踏み出すことを邪魔する、そんなものたち全部を、私は全てくっつけたまま進むしかない。 だって全部、私の一部なのだから。 背筋を伸ばせ、シャンとしろ、しっかりしろ、もう少しだ、あと少しだ! 笑え! 私は二人に手を振って、マネージャーの背中を追ってフロアを歩く。 歩けてはいる、倒れてしまいそうだけれど、それでも歩けている。 そうして山口さんの待つ卓へと辿り着くと、ヘルプでついてくれていたキャストのお姉さんの源氏名が呼ばれ、彼女はマネージャーの後ろへとやって来る。 途端、私はマネージャーの紹介の一言を待たずに、山口さんの隣へと大股三歩で辿り着き、ソファに横向きに腰を掛ける。 そのまま、勢いよく、彼のそのふくよかな太ももに顔を埋めてお腹に腕を回した。 先ほど卓を離れた時の状態の私と、あまりギャップがない方が良いだろうと思ったし、山口さんは泥酔している私のことがお好みなのだから。 「お待たせ致しました、うたこさんです。…うたこさん、山口様がお困りですよ」 「はっはっは、いいんだ、君。彼女に飲ませ過ぎてしまったのは僕なんだからね。責任は持つよ。やあ、待っていたよ、うたこさん。どうだい、機嫌は直ったかな?」 「…山口さーん、私、怒ってたわけじゃないですよー、でも、今、とってもいい気分!」 「山口様、よろしければ、私も卓につかせて頂きましょうか」 「大丈夫だよ、うたこさんはなんだかんだでしっかりしているからね。すぐにいつも通りになるよ。今は、充電中かな?」 なんて楽しそうな山口さん。 笑っちゃう。 私のことがやっとで手に入ったと思ったんでしょう。 違うんです、私のことを手に入れてしまっている人は、すぐそこにいるんです。 面白い。ほんといい気分。マネージャーだって、本気では困ってない。私の営業方法の一つだって、もしかしたら見抜いてる。 だから引き抜いて叱ったりしないし、この場で諫めたりしないのだ。 私は絶えず戦っている、こうしてギリギリのところで、戦うのだ。 これからも。 …完全に壊れて、ゴミ箱行きになるまでずっと。 もう店にはミズキさんの指名客と私の指名客しか残ってはいない。 何度かキヨシくんと山口さんの卓を行き来して、見える範囲でしか認識は出来ていなかったが、既にフロアには数名しかいないはずだ。 しかもラストの少し前と言った時間帯で、どの客だって程度はあれど、それなりに酔っている。 こんな状況ならば許される、大目に見てもらえる、そのくらいのことしかまだ私はやっていない、とは思うのだが、どうだろうか。 こんな行動を取る私を見せてしまったら、もしかしたら、マネージャーがこのまま卓につくかもしれない、とも考えた。 「それでは、失礼致します。何かありましたら、お呼びください」 しかし、マネージャーは淡々とそう告げると、それ以上は何も言わずに去っていった。 他の泥酔したキャストのお姉さんが、客にこのような振る舞いをしていた際には、必ずと言って良い程、彼はその卓に居座った。 上手いこと言って客を丸め込み、残ったボトルをキャストのお姉さんのかわりにあける為に飲ませてもらえるよう話を持って行ったりするのだ。 その後は、行き過ぎた行為がその場で起こらないか監視するなり、キャストのお姉さんにやんわりと注意なりする。 そうやって、マネージャーは、キャストのお姉さんと店の風格を守るのだ。 なのに、この、客に膝枕をさせ、腹に腕を回している私のことを、一人でなんとかするだろう、一人でも大丈夫だろうと判断したらしい。 今の私で、この私で、どう考えても醜態を晒しているだけのキャバクラ嬢にしか見えない、そんな私の姿を見てもだ。 それだけ、私を頑張らせなければならない三日間なのだと言うことだ。 このくらいだったらば見逃すほど、そのくらいならしてでもいいから、もっと頑張って来いと、そう言うことだ。 私の体に張り巡らされた操り糸が、そう教えてくれる。 わかったよ、マネージャー。 私は三日間、最後までを、こんな今日みたいな日を、残り二日間も頑張れるかどうかわからなかったけれど。 でも、どうやらやるしかないらしい。 今日が終わっても、後二日 - … 。
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