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色欲の紳士
キヨシくんの卓で入ったモエシャンのロゼは、多分ナナさんがキヨシくんと共に全て飲んでくれるに違いない。
本指名であるキャストの為に、その本指のキャストが他の客の卓へ行っている間に、勝手に本指名ではない自分がそのシャンパンに手をつけるのはいかがなものだろうか、とは、まあ考えないであろう。
どうやらナナさんは、からっぽになったシャンパンのボトルと共に写メを撮れる時が来ることを、ずっと待ち望んでいたようだし。
つまり、最後に私が片付けなければならないのは、このクリュッグのロゼだけだ。
私は山口さんのお腹に埋めていた顔を、首を曲げて上に向ける。
彼は、私の肩をヨシヨシ、といった風に撫でさすっていた。
ニコっとはにかんで、それからゆっくりと身を起こし、ちゃんとソファに腰掛けた体勢へと戻る。
その間もずっと、私は彼と視線を外さずに行動し、腰から上半身を捻ると彼の方へと向ける。
両腕を伸ばし、山口さんの太ももに手のひらを乗せて揺すりながら、最高にご機嫌で、嬉しそうな声音を用意する。
「たーだーいーまー!山口さーん!」
「…おかえり、うたこさん。そんなに、寂しかったのかな?」
「そんなことありません、私ね、山口さんの、待ってる、って言葉、ちゃーんと信じてましたから…!」
「そうだ、うたこさん、僕の名刺をあげよう」
「…?どうしたんですか?…前は、くれなかったのに。今までだって、ずっと、くれませんでしたよね…?」
「僕の名前を教えたくなったんだよ」
「それは、名前で呼んで欲しい、って言うことですか?」
「そうだね。でもそれは、僕の提案を受け入れてくれてからだな」
「…もしかしたら、一生呼ばないかもですよー??」
「そんなことはないよ。僕にはわかるよ。君が、僕を下の名で呼んでくれる、その瞬間のシチュエーションまで、はっきりと映像のようにこの目には映っているよ」
ごめんなさい、山口さん、素直にキモいです。
絶対無理です、お断りします。
と、心の中で即返事をしながら、それでも顔でだけは目を細め、唇をうっすらと開いて口角をほんの微かに上げる。
できれば妖艶で、セクシーさを感じさせるような種類のものが作れていたら良いのだけれど、と思える微笑みを準備してみた。
私のキャラではないので、とても難しかったけれど、山口さんは私の「拙い」ところもお好みだ。
だから、多少は失敗していたり、間違っていたりしても大丈夫なのだ。
勝手に自分に良い方へと受け取ってくれたりする。
私は化粧ポーチの中から、客からもらった名刺を入れておく方の名刺入れを出して、開く。
中身はもちろん、全て前以て抜いてある。
客の中には、こんなに沢山の名刺を持っているのならば、自分の分など必要ない、と言って拗ねるタイプもいるのではないかと見越して、出勤前に全てバックの中へと移しておくようにしていた。
山口さんから手渡された名刺を見てみると、確かに私でも知っている、と言うか仕事で何をやるのかは全く知らないが、名前だけは聞いたことのある証券会社の名が記されていた。
そして、その下にはそれなりの、と言うか、割と驚きの役職名が印刷されている。
いや、その役職がどのくらいの地位なのか、と言うのも正直良く理解は出来ないのだけれど。
なんか凄そう。
後で、どのくらい偉い人なのか、調べてみよう、なんて考えながら、名刺入れの中へと大切そうに仕舞う。
そうか、だからか。
多分、こう言う役職につくような人物にしては、彼は若い方だと感じるのだが、見た目が実年齢より低く見える分、余計にそう感じてしまうのかもしれない。
本当に有能で頭の良い仕事の出来る人だったのだな、と改めて思う。
…女を見る目はともかく。
ふーん、山口さんは「すぐる」って名前なんだ。
確かに、優れている人みたいだし、合ってる。
仕事の出来は多分有能で、そして私に対しては狡猾で、けれど淫欲で愚かだ。
「私のも、要りますか?」
「はっはっは、僕は、うたこさんにもらった名刺を、ちゃんとまだ持っているよ」
「そうなんだー!!嬉しいです…!!」
「最初に場内を入れた時に、裏にメッセージを書いてくれたよね。それが気に入って、持ち歩いていたんだ」
「懐かしい!覚えていてくれてたんですかー?!私もはじめてお会いした時にお話したこと、覚えてますよ…、ちゃあんと、全部!」
山口さんは手際よくクリュッグをあけると、私と、そして自分が頼んで持って来させたワイングラスに上手に注ぎ込んで行く。
まるで態度を改めたかのように、先程とは違い、今度はジッとそれを観察してみる。
繊細な泡がまるで小雨が逆さまに降っているように見えて、そんな中一人きりで佇んでいるような気分になる。
それは侘しくて、とても甘美で、アルコールに支配された脳を陶酔させるには十分すぎた。
私は恍惚とした表情で、そのクリュッグで満たされたワイングラスを眺めていたことだろう。
私のそんな姿を見つめる山口さんは、今までの紳士面らしくない、下品さが滲んだ笑みを浮かべていた。
よくわかる、知ってる、見たことあるそれを、この人が私に晒したのははじめてのことだった。
なーんだ、この人もか。
たかだか、酔っぱらった小娘に耳たぶを舐められたくらいで、こんな風に変わってしまうのか。
三か月間見て来た、紳士っぽい、私を自分好みに育てたいと言う、そして刺激的な時間を感じたいだけだと言う、そんな彼の方は仮の姿で表側。
それらは偽りではないのだろうけれど、本来の一番の欲求でもないと言うことだ。
こちらが本物の山口さんだろう。
だから、いつだって私のことをベロベロになるまで酔わせようとしたのだろうし、万が一私がその気になったような素振りを見せたならば、すぐにでも欲しかったのだろう。
さすがに40代半ばの山口さんと19歳の私では、もし仮に、彼に娘がいたとしたら、同い年もあり得たかもしれないと言う程の歳の差なのだが。
それでも山口さんは、私が隙を見せたならば、すぐにつけ込むことが出来るようにと、いつだって狙っていたのだろうと思う。
でも、彼は極太客だ。
しかも結構お金持ちらしいと言うことも知っているし、来店すれば高額なボトルやシャンパンだって沢山入れてくれる。
こう言う客の場合の営業方法は、色恋の中でも、微妙に枕の方へとゲージを振らなければならないものなのだろうか。
それは正直厳しい、私には難しいし、絶対に客とは寝たくないのだ。
けれど彼は、次からはそう言った雰囲気や、そんな事柄の続きがいつかはじまる、と新しい何かを期待をするだろう。
二人の関係が変わることを望み、次はこれ、次はきっとこれ、と、どんどんそれは欲求は膨らんで行くのだ。
そうやって、毎回少しずつ増えて行く期待を持って、私に会いにやって来るようになる。
それを上手く誤魔化し、客にとっては満たされた、と勘違いしてもらえるような接客をして、喜んで帰ってもらう。
それが、私の体を求める客に出来る精一杯であって、相手が一番欲している瞬間に正確に応えることは決してない。
私は、素直に「この人にとっては、ちょっとやり過ぎだったのかなあ」なんて反省をしていた。
だってあのくらいのことで、紳士ぶっている山口さんが、あっさりと仮面を外すような男だとは思っていなかったのだ。
まあ、その理由と言うのも、後に知りたかったわけではなかったが、知ることとなる。
「さあ、飲み切ったら、今までのも全て並べて、君の今の表情を、写真に撮らせてね」
「…はい、やっぱり、美しくて、思わず言葉を失いますね。ふふふー。でも、一緒に飲んでくれなくちゃ嫌ですよー?」
「もちろんだよ、僕も飲むよ。今日はいい日だからね。そうだ、明日の朝、僕のことを起してくれないかな?」
「…いいですよ!5時くらいでしょうか?それとも、6時とか?」
「7時でいいかな?大丈夫かい、うたこさんは起きられるかな」
「はい!大丈夫です。私、専門学校は週3で、時短クラスを選択してるんです」
「そうだったのか。だったら無理なく通えていいね。ちゃんと、休憩が出来ているようで安心したよ」
「今まで黙っていてすみませんでした…。でも明日は学校がある日なので、ちゃんと朝起きるから、だから、問題ないですよー!」
と、言うことにしている。
たった数名しかいないが、極太客やそこそこの太客には機会があればそう告げてある。
でないとどう考えたって、専門学校に毎日通いながら週6でレギュラー出勤を選ぶキャバクラ嬢など、身がもつわけなどないだろう、とすぐにバレる。
こいつは、専門学校になど通っていない、とバレてしまう。
そうすると、昼間の時間まで「会えないだろうか」と言ったお誘いが来たり、日曜まで「遊ぼう」と言う連絡が増えたりする。
学校にも通っていて、店にもレギュラーで出勤していると言うことにした方が、「さすがに日曜くらい休みたいだろう」と思ってもらえる確率が高いし、無理そうなアフターを断る時や、昼間の時間を守る為には都合が良かった。
さっそく乾杯をして、再びクリュッグのロゼを二人で微笑み合って味わう。
改めて、私には、酒の味は良くわからないので、「美味しいか不味いか」「飲めるか飲めないか」でしか普段は選んだりしないけれど、これの感想は「不思議」だった。
甘いとか、苦いとか、酸っぱいとか、そう言うのはなくて、飲めない味ではなかったので、飲み続けることは出来そうだ。
これって、コクがある、って言う、そう言うやつだろうか。
もう口内に液体は残っていないのに、味は続くと言う、そんな余韻みたいなものがあった。
「今回の飲み方は、さっきまでと違うね」
「ふふふー、だってー、嬉しくって!本当に、華やかな風味って感じですよね、このシャンパン」
「そうなんだよ、君のブログを華やかにすると僕は言ったからね。華やかな味わいのものをオーダーしたんだ」
「山口さんはワイン、お好きなんですよね。ワインみたいな感じがしますよねー、これ…」
「うたこさん、シャンパンはね、スパークリングワインの一種だよ。これから覚えて行けばいいからね」
「えー!そうなんだ、私何も知らないからー…。…本当、教えてもらってばっかりです、いっつも…」
そう言って顔を両手のひらで隠し、山口さんの肩へと額をくっつけて無知で恥ずかしい、と言う、そんなフリをする。
私の髪を、ヘアアレンジが崩れないように気を付けながら撫でてくれる彼の手は、指も丸くて短くて、手のひらの部分は分厚い。
私の好きな人とは全然違うけれど、それでも人間なので、同じように血が流れていて温度を持っている。
ああ、早くまた、本物に撫でてもらいたい、こうやって額を寄せたい。
そろそろラストの時間だろう、出来る限り急いでこのクリュッグのロゼをからっぽにして写真を撮らなければならない。
どうして私はこうしてここに座っていられるのか、客に向かってなんとか接客らしき対応が出来ているのか、もう何わからない状態だった。
操り糸の力はすごい。
さっきの、好きな人と少しだけ二人きりで過ごした、あのひと時だけで、なんとかこなすことが出来るようになっている。
ずっとぶっ壊れていた私が、危うくゴミ箱行きを意識し出した私が、まるで新たな別の人形として息を吹き返したとしか思えない。
あの時の私は、そんな風に感じてしまったけれど。
それってただ、また一つ、何か道を踏み外しただけ、って言う、それだけのことだったのかもしれない。
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