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シャンパン撮影会
正直もうヘロヘロだし、この人が山口さんで、客だとわかっていても甘えたかったし、飲まなくても良いと言ってくれるのであれば飲みたくなかった。
けれど、彼は私に酒を飲むななどとは絶対に言わないだろう。
この先も、もちろん今も、その事実が覆ることなどありはしないのだ。
しかし、もう吐きに行く為にトイレに立っている時間すら、私には残されてはいない。
いい、大丈夫だ、私はいつだって言っているではないか。
そう、頑張ります、と。
もっと他のことを同じ熱量で頑張ることが出来ていたら、人生は180度違う物へと変わっていたかもしれない。
けれど、19歳の私が全てを賭けるような気持ちで選んでしまったものは、これだったのだ。
「僕はね、君といると本当に楽しいよ、うたこさん」
「えへへ、嬉しー、山口さん、私にじしんをつけてくれて、ありがと、です…」
自分が今どんな顔をしているのかすらも既に把握出来なくなっていたけれど、注がれたクリュッグのロゼを私は飲み続けた。
会話も、山口さんが喜ぶ方へ好む方へと解答出来ているのか、それだって理解出来ていなかった。
それでも乾杯と言われれば何度だって乾杯をしたし、その都度シャンパンで食道を洗い、胃の中で嵐を起こしているアルコールの海へと足して行くのだ。
笑え、笑え、笑え、とそれだけを必死に自分へと言い聞かせ、呂律が回らなくなっても、それでも私は今日最後のシャンパンをからにする。
そして、この最後のクリュッグを時間以内に飲み終えたと言うことは、もちろん次が用意されると言うことだ。
山口さんのキープボトルはもう彼が飲み、中身がなかったので、新しいものを頼んでから帰ると言った。
ただ機械的に、体が覚えているだけの仕事を感覚だけでやっている。
働かない脳を持つ私が、どうしてそのように動くことが出来るのか。
全ては私の成果ではなくて、マネージャーのお陰なのだと言う気がした。
こうやって、もう意識の薄れた私を、現実と中身が解離しはじめた私を、彼は操るのだ。
片腕をあげて、「おねがいしまあーす!」と声を上げると、ボーイにメニュー表を頼み、山口さんが選んだ新しいウィスキーのキープボトルがやって来る。
ラストの時間がやって来るまでは、それを共に飲むことになる。
山口さんは、時折、思い出したかのように自分のカメラで私の写真を撮る。
今度は私ではなく、彼が大きな声でフロアの誰かに向かって声をかけた。
周囲を見渡す気力もない私は、山口さんの方を向き、膝同士をくっつけて、ただ顔に笑顔だけを貼りつけている。
その様子を自分の中からではない、どこか別の、ちょっと高い場所から眺めているように、映画を観ているように捉えている。
どうやら山口さんは、「写真をお願いしたいんだけれど」と、たまたま近くを通り過ぎたマネージャーのことを呼び止めたようだった。
それだって、この卓にマネージャーが現れたので、そうだったんだ、と認識出来ただけで、私にはもう何もわからなかったし、多分耳に届く言葉の意味もわかっていなかった。
「全部、てーぶるに、きれーにうつるように、ならべたいです!」
「そうだなあ、君、悪いんだけど、テーブルの上のものを、シャンパンのボトル以外を全て、一旦他のテーブルに移してもらってもいいかな」
「かしこまりました。お二人で写られますか、良ければ私が撮影致しますよ」
「ああ!それはありがたいなあ!二人のものも、うたこさん一人で写っているものも、両方頼むよ。うたこさんのスマホでも撮ってもらえるかい?」
「もちろんです。では、少々お時間頂きますね」
マネージャーが、手早くテーブルの上のものたち、ワインクーラーだとか、予備のグラスだとか、ハウスボトルだとか、アイスペール、山口さんがオーダーしたウィスキーのキープボトル、それを飲んでいた二つのグラスなんかを、隣の誰もいない卓のテーブルへと移動させて行く。
そしてこれまた手慣れた様子で、最初に飲んでいたモエのロゼのからになったボトル八本を、真ん中の部分だけ空間をあけて、私を取り囲むように丁度良く一本一本置いて行く。
そして最後に、私の手前、つまりテーブルの中央に、クリュッグのロゼの二本を並べる。
そうやって、マネージャーの手によって、全てのシャンパンのボトルたちが、真ん中にいる私の姿が上手く映えるようにと配置された。
私はもちろん最上級の笑顔を作る為に、表情筋に鞭を打って口角を持ち上げ、頬を丸くして目を細める。
両腕を広げると、テーブルの上に並んだシャンパンのボトルたちを、これを見て!と言っているような、そんな風にポーズをとる。
大昔のプリクラで流行ったやつみたいな、そんな感じのやつだ。
マネージャーが、山口さんのカメラで何枚か写真を撮ると、次に私のスマホで同じ表情、同じポーズの私を連写してくれる。
それから、横に避けていた山口さんが私の隣に戻ってくると、私はその二の腕の部分に寄りかかってくっつくと、腕を絡める。
カシャ、カシャ、と何度か山口さんのカメラの撮影音が鳴り、そして、丁度店内に音楽が流れはじめる。
いずれ、夜の雰囲気を色濃く演出する為の橙色に輝くシャンデリアの明かりが、徐々に眩しい朝日を連想させる白へと変わって行くだろう。
マネージャーは山口さんにカメラを渡し、私にもスマホを返すと、一礼し、「失礼致します」と一言だけ残して、足早に去って行く。
フロアに残っている、ミズキさんの指名客の送りの付け回しをする為だろう。
その背中をぼんやりと見つめていたくなってしまったけれど、それではいけない、と思い、改めて山口さんへと向き直る。
まだダメだ、まだだ、私はまだ自由ではない。
山口さんに、舌っ足らずな口調のまま、それでも可愛く見えるように首を傾げて、今日一日の感謝を述べる。
「きょうは、ほんとに、たのしかったです!ありがと、いっつも、山口さん、…ねえ、無理させて、ごめんなさい」
「僕は無理なんてしていないよ、どうしたんだい」
「だって明日もおしごとなのに、私を待っていて、くれたでしょう…?」
「いいんだよ、僕がそうしたかったからね。一日くらい睡眠が不足したところで、なんてことないよ」
君が手に入ったんだからね、と、そう言いたげな目だった。
ねっとりとしたその視線はもう、「先生」「人生の指導者」「私を自分好みに育てようとしている年上の男」を気取っていたものから、「次の段階を狙う者」へと変化していた。
いいのだ、これでいい、なんでもいい、早く終わってくれ、私が何かもっとしでかしてしまう前に。
山口さんと手を繋いだ私は、僅かな残りの時間を、穏やかな会話を交わす方へと仕向ける。
正気に戻った後で、彼との次回が気まずくならないようにする効果を期待して。
今日はもうお終いだから。
ほら、シャンデリアが照らし出す店内は、まるで真夜中ではないように、酒と色恋に酔っていた心を揺り起こす。
どうやら先に送るのはキヨシくんの方に決まったらしく、私は先に山口さんの卓を抜かれる。
「いってきまあす、山口さん。後で、しゃしんを、ラインでおくりますねー」
「うん、僕はちゃんと君のことを待っているからね。それにしても、たまには最後までいてみるのも、いいものだねえ」
そんなことを言って、山口さんは私のことを見送る。
マネージャーの後ろを、なんとか、どうにか、気力を振り絞ってついて行く。
ナナさんに、シャンパンを抱いている写メを撮ってあげると言う約束をしていたし、二人でも一緒に写メを撮りたいと言われていた。
なんとか最後までもって、お願い、私の精神、と胸中で自分に頼み込む。
「お待たせ致しました、うたこさんです」
私は笑えてる?大丈夫?ゾンビみたいに背筋が曲がったりしていない?ちゃんと生きてる?
そうだ、死ぬなって言われた。
死ぬなってマネージャーが言ってくれた。
大丈夫、私は生きているし、まだ笑うことが出来る、そうだ、時間は後ほんのちょっぴりだけだ。
「ただいまー!!キヨシくん、ナナさんー!」
「お帰り、待ってたよ、うたこちゃん。ナナさんに、俺もブログを登録してもらったんだ」
「うたこさん!お帰りなさい!待っていました。あの、写メ、いいですか?」
「はい!とりましょーねー!もっちろん三人でもとろうね、キヨシくん!」
私はソファに座ると、珍しくシートに寄りかかった。
普段は浅く腰掛けるけれど、今はもう、体を自分の力だけでまともに支えることなど出来なくなっていた。
まずは、モエのロゼのからっぽのボトルを持って嬉しそうにはしゃぐナナさんのことを、自分のスマホでも撮り、それから彼女のスマホをかりて更に何枚か撮影する。
そしてキヨシくんの為に、ナナさんをこちら側、つまり私とキヨシくんの二人が座っているソファの方へと呼ぶと、彼を真ん中にして三人で体を寄せ合って、自撮りで写メを数枚撮った。
「照れるね、女のコ二人に囲まれるのって、はじめてだから…」
「あはは、キヨシくん、きょうはまるで王子様みたいだったよ!私のおねがい、ぜんぶ聞いてくれて、すまーとに、シャンパンいれてくれて!」
「わたしも、キヨシさんカッコよかったと思います!すごいなあ!うたこさんは、幸せ者ですね」
「うん!そうなの、私、しあわせなのー!」
ナナさんは、この卓のテーブルで見た、クリスタルやエンジェルのボトルに憧れを持ったのだろう。
私と言うキャバ嬢を褒めたわけではないと思う。
いいなあ、って、素直に、心の底からそう思って、高価なシャンパンを入れてもらえるキャストが羨ましいと思って、幸せ者だと言ったのだろう。
でも、私は私の幸せが何かなんてわからないので、多分きっと今は幸せ者ではない。
私が幸せなのは、マネージャーといる時に感じる、あれで本当に合っているのだろうか?
「本日はご来店頂き、誠にありがとうございました。お気をつけてお帰り下さい」
「あ、まねーじゃーだあ…!ごめんなさい。お話、しすぎちゃったみたい。送るねー、キヨシくん」
「…あの!うたこさん、写真!一緒に撮っても、いいですか?」
「うん、いいですよー!後で、店、しまってから、いっしょにとりましょーねー」
私たちはやって来たマネージャーに、暗に、そろそろ帰るように、と言う挨拶をされたので、席を立つ。
キヨシくんは自分のスマホを見て、登録したブログのトップページを弄っていた。
顔を上げ、私とナナさんのブログをフォローしたよ、と言うと、彼も立ち上がって、三人で一緒にフロアを歩き出す。
「俺、自分の写真どうしようかなって思って。顔はなんとなくネットに出すの怖いし、自信ないから。だからさっきうたこちゃんがすっごく喜んでくれたシャンパンを撮って、それをアイコンにしたよ!」
「そうなんだ!いいね、今日ブログにのせるからね。あした起きたら、あっぷしよっかな。たのしみにしててねー!」
「わたしも帰ったらブログを書くので、良かったら二人とも見て下さいね!」
ワイワイと騒がしく通路を通り、自動ドアを出て、キヨシくんは少しだけ私の顔を切なげに見つめると、手を振る。
私とナナさんも笑顔で手を振って、階段をゆっくりと下りて行くキヨシくんの背中が消えるまで踊り場でそうしていた。
今日はナナさんがいるから、余計な一手間を加えなくて済んで楽チンなお別れとなった。
そして私は、まさにナナさんの彼氏であるヒロトくんに手助けされた日と同じように、ガクンと脚の力が抜けて、ペタンとそのまま座り込んでしまう。
尻の骨を打った。膝も脛も打った。
一瞬で脱力してしまって、上半身を、冷たく硬い床へと横たえてしまう。
「ナナさん…。すみません…あの、…ふっとんじゃったんで、化粧ポーチを、とってもらえませんか…?」
「どうしたんですか!?うたこさん!!気分悪いんですか!?吐きそうですか!?わたしに、つかまって下さい!!」
「あの、おんなのこじゃ、むりだとおもうので…」
「どうしよう!!ヒロト呼んできます!!待ってて下さい!!」
「……いえ、それ、より…けしょうぽーち、とってください…」
ナナさん、動揺し過ぎでしょう。
よくあることなんですよ、こんなことは。
私なんか、いっつもこんなもんですよ。
ほんと、みっともなくて嫌になっちゃう。
ボーイのことを、下の名前で呼び捨てになんてしたらバレますよ。
私の前以外ではやらない方がいいですよ。
もっと気を付けないとダメですよ。
でも、いてくれてありがとう、本当に助かりました。
山口さんを、送らなくては。
今日はもうそれで最後だ。
…一つだけ、なんとなく勝手に私が予想したことがあった。
マネージャーの、あの撮影前の、シャンパンボトルを並べる際の手際の良さ。
そして、彼が言っていた、もう今は店にはいない、雑誌に載るくらい人気のあったキャストのお姉さんの話。
そのキャストのお姉さんの写真をさ、ああやって何度も沢山のシャンパンのボトルたちを並べて撮ったんじゃないかなって。
今までに、そう言った夜が何度もあったんじゃないのかなって。
そんなキャストをさ、マネージャーは、また作ってみたくなったんじゃないのかな、なんて。
そんなのは、私の妄想で、ただの思いつきかもしれないけれど。
マネージャーは、そのキャストのお姉さんにまた、ううん、まだ、会ってみたくなったり、するのだろうか、なんて。
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