一日目、終了

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一日目、終了

ナナさんは慌てふためきながらも、私の願いを聞き入れて、踊り場の端まで滑って行ってしまった化粧ポーチを持って来てくれた。 なんとか上半身を起こすと、化粧ポーチを開け、中から折り畳み式の小さな鏡を取り出して、自分の顔と髪型をチェックする。 化粧はそんなに崩れてはいなかったし、どうやらヘアアレンジの方も乱れてはいない。 うん、大丈夫そうだ。 オロオロとしているナナさんを安心させる為に、私はニコッと笑ってみせると、手だけかしてもらって立ち上がる。 脚がふらつくし、カカトの高いハイヒールの内側ではつま先やカカトが悲鳴を上げている。 けれど、私は行くのだ。 勤務時間はまだ終わっていないし、私の指名客が店に残っている。 送りを済ませなければならないし、ミサからの連絡だって待たなければならない。 「お手洗いに行きますか!?吐いた方がいいんじゃないですか!?それか、水を…」 「…だいじょぶです。もう、ラストのじかんだから、ナナさんは、さきにもどって、………だれにも、いわないで…」 「………うたこさん…。…じゃあ、入り口のとこまでは、わたしにつかまってください!!」 「…ありがと、ございます…」 私はありがたくその言葉を受け入れ、ナナさんの腕につかまると、彼女に支えられながら自動ドアをくぐって店内へと戻る。 そして、トイレの前まで連れて行ってもらうと、ここでいいです、ありがとうございます、と声をかけ、その腕を離した。 HP1のところ、なんとかMP3って感じだ。 MP3でも使える魔法は、呪いしかない。 そうか、マネージャーが私にかけていたのは魔法なんかじゃないんだ。 あれは、呪いだ。 私に頑張り続けろと言う甘美な呪いだったのだ。 でも、だから何? それがどうしたって言うの。 魔法って強くなると、呪いに変わるんだ。 だったら私は白魔法使いじゃなくて、呪術師でいい。 アホなことを考えると、さっそく私は呪いを使う。 背筋を伸ばし、ハイヒールの先につま先をギュっと押し込んで脚が動くように力を込める。 私はフロアへ向かって歩き出す。 ナナさんはその場でしばらく私の背中を見ていたようだったが、待機席へと座る為に方向転換した。 それを視界の隅に写しつつ、やって来たマネージャーの顔を見上げる。 マネージャーは困ったような微妙な表情をしていたが、一言だけ私に告げると山口さんの卓へと私を連れて行く。 彼が私に言った言葉。 それは短くて優しいけれど、私に無理をさせる為の言葉。 『頑張れるな、うたこ』 わかってます、頑張ります、私は頑張りますよ、出来ればずっと、こうしてあなたの為に頑張りたいです。 いつか終わるとわかっていても、私はそう思ってしまうんです。 「山口さーん!お待たせしましたあー!」 「お待たせ致しました。うたこさんです。本日はご来店頂き誠にありがとうございました。お気をつけてお帰り下さい」 「はっはっはっ!うたこさん、元気いっぱいだねえ!」 「はい!私はねえ、いつでもげんきなんですよー!いきましょー!」 山口さんは、私が卓につかなくても帰り支度を整え、ソファを立って自分から私の方へやって来た。 マネージャーが一礼して去ると、私はさっそく山口さんの腕をとり、手を繋いで一緒にフロアを歩き出す。 本当は色々とひどい有り様だったけれど、そんなのは私の勝手で、客には関係のないことだ。 彼はちゃんとチャージ料や同伴料、指名料を支払ってここにいるのだ。 「今日はさすがに飲ませ過ぎてしまったと反省しているよ、うたこさん。帰れるかい?」 「はい!ちゃんと店のくるまが、おくってくれるので、だいじょうぶですよ!」 「部屋に帰ったら、きちんと休むんだよ」 「うん、やさしいね、山口さん。いつも、ありがとうございます…!」 また、今日何度目かの自動ドアをくぐり、踊り場に出る、と言う行動を繰り返す。 誰もいなかったので、私は山口さんの背中に腕を回して、その胸に頬を預ける。 山口さんも当然と言った風に私の背中へ腕を回し、少しの間だけ二人きりでの抱擁を楽しんで、すぐに離れた。 私の頭を撫で、頬を撫で、肩を撫で、普段の穏やかな声とは違い、彼も酔ってはいたのだとわかるような、欲の滲んだ瞳に私を映して言う。 「さてと…、うたこさん、僕は帰ってしまうけれど、寂しくなったらいつでもラインをくれていいんだからね」 「うん!でも、真夜中は、ちゃんとひかえますよー。いっぱい、やすんでほしいから。山口さんは、いそがしいひとだから…」 「…ありがとう。気遣いの出来る、君のそう言うところも好きだよ」 山口さんが私のことを好きだと言った。 はじめてのことだったので、私はこれがどう転ぶかを、思考が正常に働き出した後で、改めて考えなければならないな、と心に留めておく。 笑顔で手を振って、彼も笑顔で手を振り返してくれて、そして階段を下りて行く。 ちょっぴり太っちょでスーツがピーンと張っている背中に、ずっと手を振る。 いつもと変わらず、その姿が見えなくなるまでそうして、私は再び踊り場に座り込む。 ぐるぐるする。 もう、歩けない。 でも、頑張る。 こんなのはいつものこと。 大したことじゃない。 全然平気だ。 私は、半ば這うようにして店内へと引き返して、入ったすぐのところにある、今日は百合の花が飾られている、行き止まりの壁の凹みへと手をやると、あいている片手で床を押して立ち上がる。 何度だってそうする。 何度だって、立ち上がるしかない。 先ほど山口さんと共にフロアを通った時に、もう客は一人も残っていなさそうだと言うのは確認済みだった。 だから、本来の無様な私になっても大丈夫だろうと思った。 「…うたこさん!大丈夫ですか!水、飲みに行きますか!?」 「…ナナ、さん…?かえらないと、ダメですよ…」 「いいんです!もう着替えたし、ロッカーの鍵も返しました!」 「…ありがと、…たすかり、ました…」 「一緒に写真撮ってくれるって、約束したじゃないですか!それまで、わたし、いますから」 既に私服に着替え終わっていたナナさんが、私が戻ってくるのを待っていてくれたらしい。 そんなに、こんなにダメダメな私なんかと一緒に写メを撮りたいのだろうか、謎過ぎる。 少しだけ私より背が高く、ガタイも良いナナさんが、10センチのハイヒールによってそれよりも高い位置にある私の腕を肩にかける。 そうして、ゆっくりと、私の歩むスピードに合わせてくれて、店内の通路を進みだす。 「…厨房は、あとでいいので…、ナナさん、しゃしん、撮りましょうか」 「いいんですか?じゃあ、待機席に行きますか?」 「…たぶん、じぶんのついた卓ではいった、じぶんのボトルは、もってかえっても、いいと思うので…。クリスタルと、エンジェルと、モエのボトルの前で、とりましょうか…?」 「うっそー!!そうなんですかー!?嬉しーい!!うたこさん、ありがとう!!」 私は弱々しく微笑むと、先ほどまでキヨシくんとナナさんと共に三人で過ごしていた卓へと向かって二人で一緒に歩き出す。 今日、こんなに私を助けてくれたのだから、ナナさんのことを早く喜ばせてあげたかった。 部長の前を通ったけれど、部長は私たちには何も声をかけなかった。 まだ、多分キヨシくんと私たちのいた卓の上は片付けられていないと思う。 フロアの半ばまでやって来た時、丁度、ボーイに指示を出していたマネージャーが私とナナさんに気づき、こちらへとやって来た。 「お、やっぱりな。どうする、俺が撮るか?卓もそのままだよ。ナナが写真撮りたがると思ってな」 「ははは…さすが、まねーじゃ…。ナナさんは、送り、まにあいあすか?」 「…あ!あの、わたしは、今日は友達のところへ行くので…少し飲み屋さんに行く予定なので、えっと、全然大丈夫です!」 そうか、ヒロトくんと一緒に帰る約束でもしているのか。 と、そんな気がした。 ボーイであるヒロトくんならば、部長や店長、マネージャーよりは店を早く上がることだろう。 それまで、居酒屋だかバーだかで、ヒロトくんが上がるのを待っていると言うことなのだろう。 多分だが、そうなのだろうな、なんだか私みたいだな、ナナさんも。 「それじゃナナ、うたこをおぶるから、ちょっと避けてろ」 「え?」 「…あ、まねーじゃー、あの、ナナさんの前では、ふつーに、はずかしいんですけど、さすがに…」 「はは、もう慣れたろ。さすがに。ほら、来い」 「…すみません。ナナさん、先に、いっててくださいね」 「あ、…うん、はい!待ってますね!」 私の前にしゃがむマネージャーの背中にくっついて、腕を背中から首にまわすと、いつもと同じように細い腕が膝の内側へと通される。 ハイヒールの裏がフロアの床から離れ、私の体は宙へと浮かぶ。 ナナさんはきょとんとして、それから慌てて先ほどまで私たちが接客をしていた卓へと向かって足早に向かった。 「うたこ、良く最後まで頑張ったな。少し休んで、店でミサからの連絡待つか?」 「いえ…みずを、もらったら、…先に、行ってます」 「そうか、まあ寝ててもいいから。ただ、もう飲むなよ」 温かな体温に揺られながら、小声で、お互いにだけしか届かない会話をする。 カナちゃんとアオイくんの店でなら、別に寝ていても大丈夫、ただ、居酒屋だからと言ってもう酒を飲むな、とそう言っているのだろう。 どうして今日、マネージャーは部屋で待っていろと言わなかったのだろう。 私は彼の部屋の鍵を持っていると言うのに、わざわざカナちゃんとアオイくんがいる、あの居酒屋へ行けと言ったのだろう。 後で合流したら、聞いてみよう。 ナナさんの待つ卓へ辿り着くと、マネージャーは私のことを背から降ろして、シャンパンのボトル以外のものを一旦他のテーブルへと移動させてくれる。 店が終わった後、ハウスボトルと割り物用の水の入ったボトルは減った分中身を足すので、一旦全て厨房へと持って行くはずだ。 だから別に、卓からどけても、その後また改めて戻しておかなくても良い。 既に私服姿であり、ドレスを纏ってはいないナナさんは、一見キャバ嬢らしく見えない。 そんな彼女の横に、それなりのヘアアレンジと化粧を施した、ドレス姿のままの私が座っていたら、まるで店に遊びに来た女のコのように見えてしまうのではないだろうか。 二人で並んでソファに座ると、マネージャーが私の前にクリスタルとエンジェルのボトル、それから山口さんの卓であけたモエや、クリュッグのロゼを持って来て、全てをバランス良く並べてくれる。 ナナさんは、自分の為にはじめて店でオーダーされた、モエシャンのロゼのボトルを胸に抱いて、私の方へ体を寄せる。 本当に無邪気に嬉しそうにしながら、マネージャーに自分のスマホを託す姿を見て、なんだか無性に羨ましくて懐かしいような気持ちになる。 ああ、そうだ、だったら私も、ミサ以外のキャストのお姉さんと二人で写メを撮ったことなど一度もなかったし、と思って、マネージャーに自分のスマホを渡して、撮影を頼んだ。 「ねえ、まねーじゃー、このなかで、いちばん高価なシャンパンって、どれなんですか…?」 「値段は気にせず、自分が気に入ったものを持ったらいいと思うけどな」 「じゃあやっぱり…エンジェルかな…でも、山口さんを喜ばせないといけないから…クリュッグかな…うん、二本持とう、そうしよ…」 「…うたこさんって、凄いんですね」 「へ??なあんにも、すごくないです…ヘロヘロです…見たでしょう?ぶったおれたり、しますよ。もう、ゾンビです…」 「この写メ、ブログに載せてもいいですか?」 「いいですけど、私なんかもいっしょのやつで、いいんですか?」 「はい!一緒のがいいんです!今日、わたし、はじめてシャンパンが飲めました。うたこさんのお陰です」 「おい、二人とも、もう撮るぞー」 私たちは今日はじめてまともに喋ったキャスト同士で、今まで仲が良かったわけではなかった。 それでもナナさんは、まるでずっと仲良くしていたキャスト同士であるかのように私に寄っかかって、肩に頬をくっつけて、片腕でモエのロゼを頬にあてると、満面の笑みを浮かべてピースをした。 私は、片手にはエンジェルを持って、もう片手にはクリュッグを持って、照れているような控えめな笑顔を作ることにした。 ただたんに、もう表情筋が死んでいたから、と言う理由からなのだが。 お互いのスマホで、二人で写った何枚かの写メをマネージャーに撮影してもらう。 ちょっとした撮影会が終わると、ナナさんは私とマネージャーにお礼を言い、水を持って来るとだけ告げ、急いで行ってしまう。 献身的に泥酔した私の世話を焼くナナさんの様子が、その接し方が、私にとっては不可思議で理解出来ず、何か裏があるのか、それとも何もないのか、とにかく混乱してしまう。 でも、仲良くなれたってことなのかな。 店のキャストのお姉さんに嫌われるのは嫌だし、出来れば好かれていたい私は、ふと嬉しくなって、心があったまる。 でも、そう言えばミズキさんとはあまり接点がなく、彼女の指名客のヘルプに選ばれたことも少ない、なんてことにふと気づく。 ある程度、ほとんどのキャストのお姉さんのヘルプにはついたことがあったし、そうでなくとも、ミズキさん以外の全員とはそれなりに機会があり会話をしたことがあった。 今日も最後まで指名客と店に残っていたけれど、既に着替えて帰ってしまったのか、アフターへと行ってしまったらしい。 店に、彼女の姿はない。 まあ、ミズキさんのようなキャストのお姉さんは、私のことなど好きではないだろうな、となんとなく思う。 だって、とても頭の良い人だから。
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