店、辞めます

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店、辞めます

一緒だね、なんて言ってカナちゃんは素直に寂し気に眉を寄せたけれど、口角は上げたまま、酒を飲み続ける。 私たちの恋バナはその短くて少ないやり取りで終わって、後は取り留めのない話をしては笑い合ったり、疑問を投げかけたり、問いに答えたりして、まるで早く仲良くなろうとしているかのように、お互いのことを沢山、思いつくままに話した。 そのうち4時が近づいて来て、私のスマホが鳴り、電話だったので一瞬驚いたが、中村さんはもう店は退勤しており、この居酒屋に入るところだと言う。 「カナちゃんは、何時までこのお店で飲んでるの?アオイくんはさっき帰ったけど、店長さんは何してるの?」 「んー?私は店長が出る時に出る。店長は明日の仕込みとか、ちょっとした準備なんかをしてると思うよ」 「居酒屋さんって、大変なんだね。カナちゃんは、お仕事すごく好きそうだけど、疲れたり哀しいことあったりしないの?」 「あるよー!触って来る酔っぱらいのお客さんもいるし、絡んでくるお客さんだっているし!でもだいたい、アオイさんがそう言う席は、オーダー取りに行くの、かわってくれるの」 「…そうなんだ。なんか、中村さんみたいだね。私は、助けてもらえたこと、あんまりないけどね」 「そうなの?って言うか、うたこちゃんも居酒屋さんで働いてるの?」 「あーうんと、私も飲み屋さん」 「わかった!キャバクラでしょ。そうだよね、中村さんと来たんだもん。そうかなって思ってもいたんだ。この間はさ、化粧してなかったじゃん。だから、わかんなかった」 「あれ。言っても平気な感じだったんだ。中村さんの仕事、みんな知ってたの?」 「うん、店長が言ってたよ。昔、同じ飲み屋さんで働いてたことがあるんだって」 へえ!! この店の店長も、キャバクラだかスナックだかで働いてたことがあったんだ。 でも、今は居酒屋の店長を任されている、と言うことは、キャバクラの仕事はそんなに長くは続けなかったのだろう。 その時からの付き合いだとしたら、中村さんとこの居酒屋の店長は、結構長いこと友人関係が続いているのではないかな、と思った。 そんなことを考えていたら、丁度エレベーターが開いて、中村さんが入って来る。 「うたー、遅くなったなあ。疲れてるとこ、大丈夫か?飲んでないか?カナちゃん、お疲れ様」 「お疲れ様です、中村さん。飲んでませんよ、さすがに。肝臓がヤバイです、多分」 「どうも、中村さん!こんばんは!何か飲みますか?店長も、そろそろ上がりますよ」 「俺はいつものでいいよ。ああ、悪いな、カナちゃん。そんな、気にしなくていいのに」 カナちゃんは結構飲んでいると言うのに、気遣いも忘れず、中村さんに飲み物を訊ねると、私の横の席からその隣の席へと移動をしはじめる。 私の横に、中村さんが座れるようにしてくれる。 きっと私が、彼の隣にいたいだろうと、そう思ってくれたのかもしれない。 優しくて、賢くて、綺麗で、カッコよくて、それでも好きな人の彼女にはなれないだなんて。 世の中って、なんて無情なんだ。 カナちゃんが中村さんのキープしているボトルを取りに行っている間、彼は私の隣の席に座ると、さっそく今日の様子がおかしかった理由を教えてくれた。 それは、私にとってはかなりショックな出来事で、思わず言葉を失った。 そして、何より、どうして自分には何も出来ないのだろう、何も知らないのだろう、何も教えてくれなかったのだろう、と落胆してしまう、そんな内容の話だった。 「ミサ、なんで私に、何も言ってくれなかったのかな…」 「言いにくかったんだろうな。ひき止められると思ったのかもしれないし、おまえなら、解決しようとして、ミサに尽くそうとするだろ。申し訳なかったんじゃないか、そうさせるのが」 「…そんなことを、考えるタイプには思えないんですけど…いや、いい意味で、です」 「俺にだって、一言だけだぞ。ラインで、その一言。電話も出ないしな。でも給料取りに来いって返信はしたよ」 「…私、待ちます。連絡来るの、信じて。ただの、長期休暇扱いにしたらどうですか?」 「ああ、一応は風邪で、2、3日休みそうだ、ってことにしてる。感情に任せてそう送って来ただけの可能性が一番高いからな」 そう、ミサが中村さんに送って来たラインの一言、と言うのは、『私、店、辞めます』と、それだけなのだと言う。 締め日近くで、しかも普段からNo上位に入り続けている、中村さんの、マネージャーの担当の、多分一番売り上げの高い、店への貢献度の高いキャストが一人、理由も告げずに辞めると言って来たのだ。 それで多少困っていて、部長や店長には上手く休みだと言うことにして、一人でミサをどう扱おうかと、考えていたのだと言う。 「あ!そうだ、そう言えば、ナナさんに何か言いましたか?」 「…おまえって、本当に良く気づくよな。ナナには、余計なこと考えないで自分らしくやれ、って言っただけだよ。あいつは、下手なのに、わざわざキャラを作ろうとしてたからな。元は別に悪くないのに、理想のキャバ嬢像でもあったんだろ」 「ああー…じゃあ、今日のナナさんが、本当のナナさんなんですね」 「そう言うことだな。いいだろ、あっちのが、断然」 「…あの、それで、どうして今日は居酒屋さんに行ってろ、って言ったんですか?」 「ここの方が、ミサの住んでる部屋に近いだろ。連絡あったら、おまえがすぐ行ってやれると思ったんだよ」 「そっか…、確かに、中村さんの部屋からだと西武線の駅までは遠いですね」 「うたになら、連絡来るだろうと思ってたんだけどな、俺も」 「…哀しいな。ミサ、どうしちゃったんだろう。本当は、何があったんだろう」 私が俯くと、中村さんが頭を撫でてくれる。 それでもやっぱり、哀しいものは哀しくて、私は酔いがさめていないのか、なんだか泣き出しそうな気分になってしまう。 けれど、明日、つまり今日だって仕事だし、営業もかけなくてはならないし、店に出たら沢山笑顔を作らなくてはならない。 「あれー?どうかしましたか?中村さん、うたこちゃんのこと、いじめたんですか?」 「人聞きの悪いこと言うな、カナちゃん。今日はアオイと帰らなかったのか」 「ええ、今日はダメな日みたいなんで。中村さんは意地悪だな。アオイさんが今ここで飲んでないんだから、わかりますよね?」 「俺がうたをいじめた、って言ったからな、その仕返しだよ」 「あはは、中村さんって、そう言うやり方するんですね。なるほどねえ。あ、そうそう、店長ね、中村さんと一、二杯飲んだら店閉めるって言ってたので、その後みんなでどこか行きますか?」 「どうするかな。うただって明日も仕事だしな。今日、本当に飲み過ぎだしな、こいつ」 「気にしなくていいですよ、私はミサから連絡なかったら、先に帰って寝てるので」 「バカだな。こんな凹んでるやつのこと、放って行けるわけないだろ」 カナちゃんは、中村さんの前にロックグラスとキープしているボトルを置くと、自分が使っていたアイスペールを彼の方へと寄せて、席に座る。 「…なーんか私、うたこちゃんのこと、ちょっと羨ましい」 それから、独り言を言っただけ、みたいに、頬杖をついて視線は前に向けたまま、ジョッキを傾けた。 アオイくんはカナちゃんの彼氏じゃない。 けれど好きな人、そしてあの二人の短い会話を聞いた限り、カナちゃんは彼の部屋へとたまに仕事帰りに行くようだ。 まるで私と同じではないか、と、私はそう思ったのだけれど、何か違うのだろうか。 「お疲れー!中村くん!カナも、うたこちゃんも、お疲れー!!ほい、かんぱーい!!」 「あ!!店長、お疲れ様です!かんぱーい!」 「お疲れ様です、水ですけど、乾杯っ!」 「お疲れさん。悪いな、宮崎さん。こんな時間まで店あけといてもらって、乾杯」 カウンターの中から、この店の店長、宮崎さんと言うらしい、- そんな彼が現れ、大きな声でビールの入ったジョッキを差し出して、私たちに乾杯をしようと促す。 皆、それぞれお疲れ様と声をかけ、宮崎さんのジョッキへと自分たちの飲んでいるジョッキやグラスをぶつける。 彼は豪快にジョッキのビールを一気に半分以下以下になるまでグイグイと飲むと、髭に泡をつけたまま「うめえなあ!」と言って、人の良さそうな満面の笑顔でニッコリ笑って見せる。 なんだかこの人、いいな、と思った。 見ていると元気が出て来るような、落ち込んでいても仕方がない、それよりもまだ、何か自分が出来そうなことを考えよう、と言う気にさせてくれる、そんな気分にさせてくれる。 こう言った店の店長になれる器の人って感じ。 凹んだり、辛かったり、切なかったり、悩んでいたら、この居酒屋にやって来て、この人に会おうって、そう思わせてくれるような何かがある。 そうか、だから中村さんは、この店に、彼に会う為に訪れるのかもしれない。 例えば今日だって、本当は宮崎さんに、彼に会いたくなったから、彼の笑顔を見たくなったから、私に部屋ではなくてこの店にいるように、と、そう言ったのではないだろうか。 そんな人を紹介してくれるだなんて、とても嬉しいことだと思った。 そんな女が今まで何人もいたにせよ、私にとっては中村さんのような人はたった一人の、唯一の人なのだから。 「どれ、女房に店が終わった連絡だけはしとくかなあ!」 「相変わらずだな。宮崎さんは、本当に愛妻家だよな」 「店長は奥さん大好きですよね!超仲良いし、二人は私の憧れです!」 「宮崎さんには、奥さんがいらっしゃるんですね。早く帰らなくても、大丈夫なんですか?」 「女房も店やってるからな。帰るのはお互い遅いんだよ」 なるほど。 宮崎さんの奥さんも、飲み屋のママか何かをやっているのだろうか。 うん、カナちゃんの言う通り、いいなあって、憧れちゃうなあ、って思ってしまう。 私もこんな人の奥さんだったら、幸せなのではないだろうか、とそんな風に思える。 チラリと横で酒を飲んでいる中村さんの顔を見ると、まあ、彼の奥さんは幸せではないかもしれないな、などと失礼ながらも考え、一人で苦笑いをする。 そもそも私には、中村さんのような人間と共に一生を添い遂げられるような力量などないだろうし、未来を信じて好きな人との結婚生活と、その後の人生を夢見るなんて発想すらわかない。 19歳の頃の私は、好きな人との未来以前に、そんな機会が私に与えられることなどあるわけがないと言う考え方をしていた。 結婚なんかする前に自分は死ぬだろうと思っていたし、結婚や、結婚生活自体に幻想も抱いてはいなかった。 ただの夢のようなおとぎ話で、そして決して幸福なものではないと思っていたし、自分には向いていないと、似合わないとわかっていた。 でも、ミサは違う。 ミサは、ユウくんと結婚したいと言っていた。 もしかして、結婚したいから、店を辞めると言ったのだろうか。 けれど、それではユウくんが金づるとして頼ってもいる、そんなミサを側に置く理由がなくなってしまうのではないだろうか。 結婚…か、そうか、そう言うことか。 ねえ、ミサ、はやく連絡して来て。 私、出来る限り力になりたいって、そう思ってるんだよ、そりゃあ無力だけれど、でも…せめて、八つ当たり先としてでもいいから、何か少しでも、ミサの助けには…なれないのかな。 そして、私の願いは届く。 宮崎さんが二杯目のビールを飲みながら中村さんとカナちゃんと談笑をしている中、その隣でブログを綴っていた。 時々、この写メどうですか、内容大丈夫そうですか、なんて中村さんに声をかけて、無事に完成させると朝の7時に更新されるように予約投稿の設定を完了させた。 そこからしばらくは、私も三人の会話に混ざって笑い声を上げて、一緒になってその空間を楽しんでいた。 そろそろ店を閉めるか、と宮崎さんが言って、カナちゃんがカウンターの上を片付けようと、椅子を引いて立ち上がろうとする。 朝、5時半だった。 私のスマホが、ラインの着信を知らせる。 急いで相手を確認すると、ミサからのものだった。
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