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正しい答え
中村さんが私と一緒にミサに会いに行くと言うのはさすがに考えナシで無謀、且つ軽率な行動でしかないし、彼にも「とりあえず行ってみて、何かあったらすぐ連絡しろ」と言われた。
それに、何よりこのラインは私の方にしか来ず、中村さんのスマホは鳴らなかった。
つまりミサは私にだけ、何かを打ち明けてくれるつもりなのだろう。
だったら、他の人を連れて行くのは間違っているし、彼女の気持ちを踏みにじるような行為になる。
そんなわけで、中村さんは宮崎さんやカナちゃんと一緒に中野駅付近で時間を潰して待機している、とのことだったので、私はミサの呼び出しにすぐに応じた。
このような書き方をしてしまうと、ミサが自分本位にワガママを言って、私のことをまるで思い遣っていないかのように感じさせてしまうかもしれないが、そうではない。
この「呼び出し」は、私に連絡をして来なかった間、彼女がずっと「私を煩わせない為」に耐えていたのであろう声なのだ。
胃に、喉に、胸に押し込めていたけれど、歯の隙間から、固く結んだ唇を裂いて、外へと漏れ出してしまった「救いを求める悲鳴」のようなものだった。
今私たちは、以前ミサがユウくんの浮気騒動の際に二人で入店した、彼女の住むマンションのある土地の最寄り駅近くにあるカラオケ店の一室にいる。
あの時、このカラオケ店が24時間営業だと言うことを確認しておいて本当に良かった。
入店した際に、入り口のカウンターで出迎えてくれた店員は、ミサの姿を見るなり驚愕し、スマホを取り出してすぐに電話をかけそうな勢いだった。
なんとかそれを止め、大丈夫だと言って、責任を取らせたりなど決してしないと約束をして、やっとでこの一室に通してもらった。
待ち合わせた場所にやって来たミサは、バッグすら持っておらず、手にスマホを握っているだけだった。
元は多分、真っ白な生地に青と黄の小花柄の散った可愛らしいキャミワンピースであったのであろう服装に、ヒールのない茶色のつっかけサンダルを履いていた。
…先に待っていた彼女は、合流するその前から既にこのような状態だった。
このような、と言うのは、一言も口を聞かず俯き、纏ったキャミワンピースを赤く染めた状態、のことだ。
― まずいな、この赤い血液の染みの中に、ユウくんのものが混じっていたとしたら、さすがにヤバイ。
ミサは大人しくソファに座っているが、左手首がズタズタだった。
一応、もう流血自体は止まっていそうだが、パックリと開いた幾つかの皮膚の中身は、未だに生々しい肉の色を晒している。
いつもだったら、店では私と同じように傷痕を隠す為に腕にレースのグローブをはめているか、はじめからレースの袖がついているドレスワンピ姿だ。
私服姿の時は、平然と傷を隠さずに好きな服装をしていることもあったが、既に瘡蓋になっていたり、大きな絆創膏などできちんと覆われていた。
これはまさに、ついさっきまで自傷行為を続けていた、と言う証でしかない。
私は、もう何度目だろうか、会ってからずっと、ミサが何か話してくれるようにと思い、言葉を選んでは声をかけ続けていた。
「ミサ、話したくなったらでいいから話してね。それまで待ってるから」
「………」
そうは言ったものの、私は7時になったら山口さんにモーニングコールをしなければならないし、中村さんだってずっと中野駅付近で待たせ続けるわけにもいかない。
でもミサは、時々唇を開けて、上手く音を紡げずに諦めてしまう、と言った素振りを繰り返していた。
つまり話す気はあるのだ、でもなんと言ったら良いのかわからない、合う言葉が見つからない、と、そんな気持ちなのだろう。
「私から聞いた方がいい?首を縦に振るか、横に振るかで教えてくれる?」
「……ん」
「そっか。じゃあ、泣いたって叫んだっていいからね。ひどいことを聞いたらごめんね」
「…」
「ユウくんと別れたの?」
「……!」
ミサは首を勢いよく横に振る。
どうやら別れ話などが理由ではないようだったけれど、もしもユウくんが、こんな有り様であるミサを部屋に一人で放っておいて、出かけていたり、見て見ぬふりをしたりしているような男だったのならば、別れることを勧めようかと考えた。
「今、ユウくんは部屋にいるの?」
「…」
次の質問には、ミサは首を縦に振った。
では、別れた方が良いな、と私は判断した。
傷の手当てをしてあげたりしなかったのだろうか。
それよりも、こんなミサを、そのままの服装で、そのままの、こんな、今にも死にそうな顔のままで外へと一人で出したと言うのは、一体どういう了見なのだろう、と怒りを感じた。
「ミサ、ユウくんは、リスカしてる最中、ミサの側にいた?知ってたの?」
「……」
今度は首を横に振る。
そうか、ならば、ユウくんはこのことを知らないのかもしれない。
知らないと言うことは、つまりユウくんが別室で他のことをしていたか、もしくは寝ている間に、ミサが一人で自傷行為をし、勝手に外へ出て来たとも考えられる。
でも、私に寄越したラインは『うたちゃん、助けて』だ。
すぐそこに、同じマンションの同じ一室のどこかに彼氏がいたのであれば、それはその人に向かって言うべき言葉ではないだろうか。
「…ミサ、私にラインで伝えたこと以外にも、ユウくんの他の真実に気づいて、絶望したんじゃないの?」
「……」
ミサは俯いたまま、微動だにしなかった。
首は縦に振らなかったけれど、正解だろう。
ごめんね、ミサ。
もしかしたらミサは泣き出すか、叫び出すか、もしかしたらもう何も話したくなくなって、ここを出て行こうとしてしまうかもしれない。
でも、私はやっぱり、そんな質問をするよ。
「ユウくんがミサに伝えていた年齢は嘘で、本当は既婚者で妻子がいた、もしくは奥さんがいた?」
「あ、」
もしかしたらと思っていたのだ。
いるのだ、全然いる、そう言う若い男がいる、そのことを私はたまたま知っていた。
まあ、これだけミサと一緒に過ごしているのだから、別居しているか、離婚寸前とかなのかもしれないが、その可能性もあるかもしれない、と、考えなかったわけではなかった。
まだ、今の時点ならば、なんとかなるのではないだろうか、と私は思っていた。
ユウくんが既婚者で、妻の元へも時々帰宅していたのだとすれば。
ミサが店に出勤してから、妻の元へ、仕事だかバイトだかをして来たかのように装って帰宅して共に就寝すれば良いだけであろう。
そして、ミサのところには朝戻れば良いのだ、仕事へ行くフリなり、バンドの用事なりのフリをして。
日曜だって、スタジオだのライブだのとか適当に言って出て行けばいいだけだし、妻に嘘をついてミサと一緒に過ごすことだって出来る。
「ごめんね、ミサ。泣かないで、私、思うんだけど、それでもミサが本命の可能性だってあるんじゃないかなって」
「……う」
「ん?」
「…違う」
「ううん、聞いて。だって、もしかしたら奥さんとは別居してたり、離婚を考えてたりするのかもしれないし。この時間に、ミサのところにいるんでしょう?今日一日一緒にいた?彼は出かけたりした?」
一言だけ引き出すことが出来たが、再び押し黙ってしまった。
いや、一言だけ、ではない。
嗚咽も引き出してしまった。
泣いている。
それはそうだろう。
ミサは、ユウくんと結婚したかったのだから。
その、自分が立ちたかった夢の舞台には、既に主役の女性がいたのだから。
「どっちかだよ、ミサ。別れるか、別れないで、このまま続けるか。奥さんがどんな人なのかによって、ユウくんが実際のところはどっちを取るのか、今はまだわからないから」
「…多分、昼間の仕事してる…、私より、年上の人…」
「知ってるの?その女の人のこと」
「…私、あいつのスマホのパス知ってるから…、だから、時々見てて…。でも、バンドの客だと思ってた…」
「どうして奥さんだってわかったの?」
「……結婚記念日くらいは、一日開けといてね、って…」
…詰んだ。
他の女と遊んでも許して、家に帰ってこなくても許して、バンド活動も許して、浮気も許して、バイトしてないことも、仕事してないことも許して、自分できちんと昼職で生計を立てることの出来る、年上の懐の広い女、と言う線が濃厚な気がして来た。
この場合、ミサは選ばれないかもしれない。
例えばミサの方が稼いでいようとも、数年を共に過ごして同じ歴史を持っている、なんでも許してくれる、自立していて、いざバンドがダメになった後でも食わせて行ってくれそうな、しっかりしている女。
極稀にいるのだ、既にでっかい蜜を手に入れてしまっていると言う、そんな男が。
もはやユウくんにとって、そんな女は菩薩様以外の何者でもない存在だろう。
手強いどころの話ではない。
ミサには、勝ち目などないのかもしれない。
「その文章って、怒ってそうだった?それとも、優しそうだった?」
「…わかんない。その女はいつも、ラインも、絵文字も、少ない女だったし…」
「…そっか。ミサはどうしたいの?」
「……別れたくない、…よお……う、うっ、うああああああ!!やだあ!!こんなの、いやああああ!!」
「ミサ、ミサ、泣いていいし、叫んでもいいから。それに、別れなくってもいいんだよ」
ただ、ユウくんとは、結婚することが出来ないと言うだけだ。
それでも、このままの関係を続けていけば、結婚をすることも可能になる日がやって来るかもしれないが、それは運とミサの努力次第、ユウくんの気持ち次第で、沢山の偶然が重ならなければ難しい。
それまでミサの精神が崩壊しないかどうかと言うと、否だ。
そうなると、いつかミサが彼を捨てるまでは、一緒にいることが出来るかもしれないと言うだけの話になる。
ユウくんが既婚者で、ミサは彼と結婚することは出来ないが、付き合い続けることは出来る。
それをミサが望むのであれば、だが。
どうしよう、他の線はないのだろうか、ミサの夢が叶うかもしれないと言う希望は、もう一つも残されていないのだろうか。
どうしよう、私はまだ幼くてバカで経験値も足りなくて、何も知らない、だからわからない。
「ミサ、店を辞めようと思ったのは、どうして?」
「うええええん、あああああ、やだ、やだ、やだよお」
「…泣いてからでいいよ、ごめんね、私がミサのこと心配で、マネージャーを問い詰めたの」
「ううう、う、うっ、もう、私、はたらくげんき、でないから、だからあ…」
私は何も言えなくなってしまう。
だって、私も今日、働く元気がなくなって自棄になってしまったばかりだったからだ。
誰だったら良い答えをくれるのだろう、誰だったら正解を教えてくれるのだろう、誰だったら本当に正しいことを言ってくれるのだろう。
いや、わかっているのだ、正しい答えは。
倫理的な、人道的な答えは「別れる」だろう。
でもそれをミサに強いたりすれば、今のミサは死んでしまうのではないだろうか。
「ミサ、嫌かもしれないけど、別れることは考えたくもない?もっと、ミサに似合う、ミサを幸せにしてくれる、素敵な人が現れるかもしれないよ?」
結局皺の足りない脳をどれだけ悩ませようとも、私の口からはこんな、当たり障りのないセリフしか出て来ない。
「いや、いや、いや、いやだ、いやあーっ!!」
「待って、大丈夫、別れなよ、って言ってるわけじゃないよ!!」
「別れないで、結婚したいよおー!!私、ユウくんと別れるの、いやだあああああああー!!」
「…辛抱強く待てる?ユウくんの気持ちが全部、ミサの方に移るまで」
それは、ミサがユウくに飽きるまで、愛想を尽かすまで、と言うことだ。
私はずばりそう言うことは出来なかったので、言い方を変えただけだ。
人としてどうか、だとか、道徳的観念に基づいたらそれは良くないだとか、そんなことより、私にはミサの方が大切だった。
けれど、本当に、心から大切な友人だと思っているのであれば、別れる方を選ぶように説得した方が良いのだろうか。
わからない、私とミサの価値観は違うし、私と世間一般的な価値観だってズレているに違いないのだから。
「…ミサ、じゃあさ、私なんかより、もっと人生経験が豊かな人に、相談してみるのはどう?」
私には、ミサの人生を決めるような選択肢を、上手く選んであげることなんて無理なのだ。
きっと誰にも出来ないことなのかもしれない。
本来ならば、ミサが自分自身で選択しなければならない事柄なのだ。
でも、彼女は混乱していて、私のように理性よりも感情優先で生きることしか出来ない人間だ。
少なくとも、今は、そうなのだと思う。
そしてこれは、私には一人きりじゃ抱えきれない問題だし、良い答えも出せそうにはない。
そう判断して、励ますことも諫めることも諦める。
もしかしたら責任から逃れる為に、全部をもう誰か他の人に押し付けたくなってしまったのかもしれない。
気づいたら、そんな提案を、ミサにしていた。
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