482人が本棚に入れています
本棚に追加
/609ページ
もう、歩けない
お互い、とっくに姿は見えないだろうと言う、そんなところまで来ても、しばらくは窓の外に目をやっていた。
ふと意識が戻り、私はまず中村さんの方に、今から中野の駅に行きます、と言うラインを送る。
まだ、7時になるまでは少しばかり時間があったので、山口さんにもラインの内容を考えると、震える指で打ち込む。
『山口さん、起きていますか?私も起きたばかりです。なんだか一緒の時間に起きるだなんて、起こしてあげるだなんて、恋人っぽくて…照れますね。ブログ、ちゃんと書きましたよ!下手かもしれないけど…良かったら見てみて下さい。もう少ししたら、お電話かけさせて頂きます』
このくらいで大丈夫かな、と、チラリと色恋要素を混入した内容のものを送信する。
昨日撮影した写メたちは、彼が起きてから送った方が良いだろうと思った。
もしもまだ寝ていたら、連続でラインの着信音が鳴っては迷惑だろう。
次に、そのままキヨシくんのライン画面へと移ると、こちらには容赦なく写メを全て送りつける。
起きてようが寝てようが迷惑だろうが、どうだって良いと考えていたからだ。
けれど、もちろん感謝も伝えなければならないので、文章の方はきちんとそれなりに楽しませるような、喜ばせるようなものを考えて送る。
…ダメだ、頭がぼんやりとする。
疲れた。
そろそろ他の指名客にだって、営業をかけなければならない。
それなのに、私は哀しい。
つらい。
しんどい。
だけど、今日も頑張るのだ。
スマホが手の中で何度かラインの着信を知らせ、その後も短く震えた。
ぼんやりとしたまま、それぞれ受信したラインを確認して、返信が必要そうなものにだけ文字を打って、幾つか返す。
それから、ブログのアプリにマークがついていたので、なんだろうと思って指で触れてみた。
ああ、そうか、7時を過ぎていたのか。
どうやら、予約投稿を設定していたブログが、自動的に更新されたようだ。
さっそく見てくれたのか、ナナさんが何かコメントを書いてくれたのだと知る。
そうだった、私は昨夜、ナナさんにも写メを送ると言ったのだった、後でちゃんと送らなくては。
でも今は、彼女とラインのやりとりをする元気も、せっかく書いてくれたコメントを読む元気も、その返事を考える元気もなかった。
しかし、それでも「三日」だ、つまり後「二日」ある。
仕事だけは、しなければならない。
私は山口さんに電話をかける。
数分過ぎてしまったが、ラインも既読がつかなかったし、多分まだ寝ているのだろうと思った。
「………あ、おはようございます、山口さん。寝てましたか?大丈夫そうですか?昨日、遅くまで一緒にいてくれたから…心配です。具合悪かったりしませんか?寝不足ですよね、ごめんなさい…」
『いやあ、うたこさん、おはよう。ありがとうね、謝らなくていいんだよ。朝から君の声が聞けたしね。それじゃあ僕は、準備をして行って来るよ。うたこさんも、学校頑張ってね』
「はい!ありがとうございます!…行ってらっしゃい、無理しないで下さいね」
どうにか、弾んだ声を作ることは出来ただろうか?
まるで、好きな人と喋れるのが嬉しい、と言うような、そんな声を出せていただろうか?
山口さんの方は、急がなくては、と言う気持ちが漏れている、そんな声だったので、寝ていても良いギリギリの時間までを、睡眠へとあてたのだろう。
案外、すぐに電話を切ってくれて助かった。
だって私は今、人と何か言葉を交わす気力も、表情を変える気力もない。
無表情で、口を開くのも億劫で、それなのに叫び出したい。
中村さんに送信したラインには既読がつかず、返事も来なかったので、私はカナちゃんにラインをした。
もしかしたら、皆はもうとっくにお開きにして、それぞれ自宅へと帰ってしまったのかもしれない、と考えていた。
それでもカナちゃんからはすぐに返事が来て、まだ中野にいるから駅で降りても大丈夫だと言う。
でも、もう7時を過ぎているのだし、飲み屋やバーだって、さすがに閉まっているのではないだろうか。
24時間やっているカラオケ店か何かがあるのかな、などと考えつつ、駅前で運転手に支払いを済ませると、とりあえずタクシーを降りた。
そこは、これから昼の仕事へ向かう人々で混雑しはじめていて、どこにいたら良いのかわからなかった。
心許ないし、体も頭もちゃんと働かないので、何の躊躇いもなく中村さんに直接電話をかけた。
早く迎えに来て欲しかったし、早く会いたかったし、早く私のことを元に戻して欲しかった。
彼に依存し過ぎてしまっている、と言うことは認識出来ていた。
だからと言って、今の私と来たら、店で仕事をしているわけでもないのに、勤務中なんかではないと言うのに、一人で考え、行動することすら出来なくなってしまっている。
でも、だって、何かあったら、すぐに連絡しろって。
そう、言ってくれたじゃん。
上手く操ってくれるのは、店の中での私のことだけなの。
そう、そのはずだ、それで良いはずで、本来の私は、私の自由で良いはずなのだ。
店ではない場所にいる時まで、中村さんに頼ってしまうわけにはいけない。
こう言う時は、どうするのだろう、普通の人ならば。
まともな人ならば。
ちゃんと言われた通り連絡をしたのに、それなのに返事をくれない。
だったら、そのことに腹を立てて、自室へ帰ることを選んだりするのだろうか。
わからない、もうわからない、でも、会いたいから、だからもう、私は、私は、私は。
震えの止まらない手でスマホを強く握り、彼が電話に出るまでずっと、頬へあて続けるのだ。
『………お、うた、悪かったな。ライン寄越したのか?どうする、疲れてたら、帰るか?』
「中村さん!!ひどい!!どうしてすぐに電話、出てくれなかったの!?なんで返事くれないの!?私…、私…どこに行ったらいいの!?」
『…どうした、ミサには会えたんだよな?大丈夫だから、まだあの店にいるから戻って来い。俺も、今から駅の方に行くから』
私はブツ、っと勢いよく通話を切ると、スマホをバックの中にバンッ、と叩きつけるようにして放り込み、走り出す。
あの居酒屋にまだいるんだ、でも店長である宮崎さんは、確かもう閉めると言っていたはずだ。
それなのに、カナちゃんはみんないる、と返事を寄越した。
カナちゃんと中村さんだけで、二人でまだあの居酒屋にいると言うことだろうか。
そうなのだとすると、一体誰があの店を閉めて帰ると言うのだろう。
結局は、もう少し長居することにしたのかもしれない。
ただ、それだけなのかもしれない、でも、だけど、なんで、どうして、だったら、教えておいて、欲しかった。
雑踏の合間を縫って、私はよろけながら、それでも走って、真っ直ぐ行ったらもうすぐそこ、居酒屋につく、と言うところで。
息を切らして、脚がもつれて、ヒールが横に倒れ。
そして、転んだ。
めちゃくちゃに酒を飲んだ日に、めちゃくちゃな出来事が起こった日に、10センチのハイヒールを履いて。
駅へと向かって、反対方向から歩いてくる人ばかりの道を。
考えナシに猛ダッシュなんかしたら、そりゃあこうなるだろう。
私はすぐに両手のひらをゴツゴツとしたコンクリートの歩道につくと、立ち上がってまた走ろうとした。
すごく邪魔だろうと言うことはわかっていた。
だけど私は立てなかった。
こんな、人が沢山いるところで。
私は脚を崩した正座の体勢で。
一人ぼっちで呻き声を殺した。
膝とふくらはぎ、足首の表の部分の皮膚に裂傷を負い、そのうちの何箇所かは抉れたような形状をしていた。
沢山の擦り傷の中心で、露出している肉の中身からのぞいた、細かな千切れた血管たち。
じわじわと血が滲み出て来て、そのうちだらだらと溢れ出し、重力に逆らうことなく地面の方へと流れ落ちて行く。
「…うた、うた!おい、何してんだ!バカだな、おまえは、疲れてんのに!」
「………う、…うっ、…うっ」
「ああ、違うな、悪かった。俺が迎えに行かなかったからだな。ほら、行くぞ、立てるか」
「…う、うああああっ!!ああああああ…!!ひどい、ひどい、ひどいっ!!」
「わかったわかった、いいからつかまれ。すぐにつくから。行くぞ、もう大丈夫だからな」
そんな、そんな、そんなことを言われたら、私は。
だって動けないし、恥ずかしいし、立てないのだし、動けないのだ。
こんなのはよくあること、惨めなのも酷い有り様なのも慣れてる。
なのに、どうしてこんなにも。
こんなにも。
…こんなにも、私はどうしようもなくて。
低能で、可哀想な、笑われ者の、バカなメンヘラのままなの。
中村さんが、泣き続ける私を見て、呆れてしまわないか、嫌いになってしまわないか、そんなことすら、もう考えられなかった。
けれど、彼は怒ったりしなかったし、慌てたりもしなかったし、困ったような顔もしなかった。
こんな私のことを見捨てなかった。
私には、自分で自分の体を動かす意志などないのだと悟ると、上半身を抱きかかえて、一応は立っている、と言う状態にしてくれる。
手を繋いでくれて、親が転んで泣いてしまった幼い我が子を連れて歩くように、ゆっくりと足を進めてくれる。
「う、っ、う、っ、…うえええっ!!…いやだよお…!!」
「そうだな、嫌だったな。もう大丈夫だ」
「いや、…嫌だ…、なかむらさん、私のこと、きらいにならないで…」
「ならないよ。おぶったら、おまえパンツ見えるだろ。そっちでいいのか」
「……うっ、…う、…いや、です…」
「じゃあ、うたも、自分で歩くしかないな、わかるな」
「…う、ん…、…ひっく、うっ…あああああ!!…」
中村さん、私が嫌なのは、あなたといつか離れることです。
本当は嫌です。
でも結婚するのも嫌です。
付き合うのも嫌です。
なんで時間は止まらないんだろう。
ずっとこのままがいいのに、いつか私は保たなくなる。
頑張れなくなる日が来る。
そうしたらあっさりと、操り糸は切られてしまう。
終わってしまう。
それを、知っている。
私はずっと俯いていたけれど、中村さんはなんでもないように、いつもと変わらず飄々としているように見えた。
なんだかその様子が、やっぱりひどい人だと思えて、それでもどうしても好きで仕方がなくて、憎らしかった。
彼がエレベーターのボタンを押すと、すぐに開いた。
二人で乗り込み、扉が閉まると、中村さんはすぐに私の体を抱きしめて、自分の顔に唇が届くように少し持ち上げた。
四階にあるその居酒屋につくまでの短い間、キスをして、涙でべちょべちょになった汚い頬に、頬ずりをしてくれた。
「可愛いなあ、うたは。可愛いよ。大丈夫だ、もう泣くな。自分で、歩けるな」
「…ご機嫌とり、ですか」
「別にそれでもいいけど」
「…中村さんって、ちょっと、意味わかんないです」
エレベーターが開いたので、体を離したけれど、繋いでいた手はそのままにしておいてくれた。
「俺は、嘘言わないんだろ」
「…はい、言わないですね…」
「うたのことは、好きだよ」
「……本当ですか」
「本当に」
「……嘘じゃ、…」
なければ、いいのにな。
そう呟いて私が黙ると、頭を撫でて微笑んでくれて、だから余計に悔しいし苦しい。
そこへ、顔を真っ赤に染めて、口を何か食べ物でもぐもぐさせているカナちゃんが駆け寄って来る。
魅力的なその目を見開いて、私の泣き顔と脚の流血に驚くと、すぐにどこかへ行ってしまった。
そうか、だからか、酔っていたのか、カナちゃんは。
それで、ラインの返事に、自分たちの居場所や、誰が残っていて、誰がまだいるのかなどの情報を、詳しく書くことが出来なかったのかもしれない。
見た限りでは窓のないこの居酒屋で、灯りが届いているのはカウンター席の方だけだった。
そこには店長である宮崎さんの姿と、見たことのない、向日葵柄の紺の浴衣に赤い帯を文庫結びにした、背の高い女性の姿があった。
その、浴衣姿の女性がカウンタ―席を立つと、下駄を鳴らしてこちらに向かって大股で歩いて来る。
中村さんは、エレベーターを降りてすぐのところ、その脇に幾つか重ねてあった椅子の内の一つを持ち上げて取ると、床に置く。
多分、店内が満席だった際に、案内の順番を待つ人々が使用する為に用意してある椅子なのだろう。
彼は、私のことをその椅子に座らせる。
中村さんは膝をつき、私の前にしゃがむ。
そして、それから。
膝やふくらはぎ、足首周りに出来た傷や痣の程度をみて、こう言うのだ。
「仕方ないから、今日はロングドレスにしとけな」
それは残酷で、そして当然で。
大好きでたまらない、私を幸福にもしてくれる声。
いつもとおんなじ声。
会いたかった、聞きたかった、また、泣き出してしまうほどの。
ただの、優しい声でしかありはしないのだ。
最初のコメントを投稿しよう!