それぞれの「嬉しい」

1/1

482人が本棚に入れています
本棚に追加
/609ページ

それぞれの「嬉しい」

この居酒屋でこんな時間まで飲んでいたのは、中村さんと、カナちゃんと、店長の宮崎さんと、そして宮崎さんの奥さんだった。 あの後すぐに、この店に常備してあったらしい救急箱を、カナちゃんが持って来てくれた。 しかしカナちゃんは酔っぱらっていたので、かわりに宮崎さんの奥さんだと言う人が、私の脚の傷を消毒し、傷薬を塗り、広範囲にわたる傷痕に貼る用の大きな絆創膏を貼ってくれた。 宮崎さんの奥さんは、高円寺で店をやっているのだと言う。 バーとスナックを足して2で割ったような、まあ、マスターのかわりにママがいる、カウンター席だけの小さな店らしい。 カラオケがあったり、接客をする為の女のコが他にもいたり、と言うわけではなくて、本当にただ、ママである宮崎さんの奥さんと酒を飲みながら会話を楽しむ為だけの店なのだと言う。 彼女は、なるほど、それでもやって行けるのがわかる、と納得せざるを得ない何かを持っている、そんな女性であった。 夏場の間は、自分の気持ちも上がるし、客の目を喜ばせる意味も込めて、浴衣姿で店に立っているとの話だった。 夜の空に打ち上げられ、大輪の花を広げ瞼に残像を残す花火のような、紺色の生地に咲き誇る水彩絵の具で描かれているような、滲んだ大きな向日葵の柄の浴衣。 一見、子供っぽくも見えてしまうかもしれないそれに、真っ赤な帯を使用することによって、それは大人っぽい艶やかなイメージのものへと変化する。 そんな宮崎さんの奥さんは、カオリさん。 カオリさんが放つ魅力は、年齢を感じさせない、可愛らしくコロコロと変わる表情や、グラマラスな体型から受ける印象だけにとどまらない。 何たって底抜けに明るくて、思い遣りを持っていて、様々な物事を見知っているけれど決して高慢ではない。 だからと言って自分を卑下するようなこともなく、向上心があり、故に素直で、そんな自分と言う人間のことをちゃんと愛することが出来ている女性。 カオリさんに抱いた私の第一印象は、そんなに間違えてはいなかったのではないかな、と今でも思う。 けれど、ちっとも完璧じゃない。 だから良いのだろう。 だって彼女はこんなにも感情的で、無垢で、心を表に出すことに躊躇いのない女性だ。 今、泣き腫らした瞼に、宮崎さんから渡されたアイスノンをあてている私の話を聞いたカオリさんは、中村さんに激怒して叱り倒している。 彼は何度も私に、悪かった、と言って謝っているし、宮崎さんとカナちゃんはそんな彼の姿を見て爆笑している。 そんな場面なので、そりゃあもう私だって、一緒になって笑うしかないだろう。 「中村ちゃん、さっきの一言は何なの!うたこちゃん、今日だってね、自分の好きなドレスを着てやんな!」 「ふふ、はい、そうします。カオリさん、でもね、私は…中村さんのそう言う、仕事のことしか考えてないところが、好きなんですよ」 「だよなあ、うた。ほらな、カオリ。うただって別に、何も怒ってないだろ」 「ダメだよ!本当は哀しいに決まってんだろ!もう店は終わってんだから!うたこちゃんは仕事中じゃないんだからね、中村ちゃんの言うことなんて聞かなくていいんだよ!」 長い前髪を斜めに分けて、おでこを出していて、見えているその肌の部分まで怒りだか酔いだかによって赤く染まっている。 真っ黒な艶のあるそんな髪を、浴衣姿に合うように後ろで夜会巻きにして、一本の簪でシンプルに留めていて、それが少々乱れているのが色っぽい。 細くキリっと描かれた眉と、一重だけれど濃く深く引かれたアイライン。 切れ長の瞳の上、瞼を彩る淡い黄緑のラメが映える、黒目の小さな眼光には炎が宿っており、頬に影を落とすほどに長く濃いまつ毛。 ほど良い分厚さの唇は赤く、まるで異世界の踊り子の名手のような、そんな異国の人であるかのような顔立ちをしている。 そんなカオリさんは、中村さんのことをまるで悪戯がバレてしまった子供を怒鳴る母親のように叱咤しているのだ。 目尻に皺も見えず、ほうれい線だってそんなに深くはないので、宮崎さんと同じくらいか、少し下くらいの年齢なのかな、と推測した。 どのみち今までの彼女とのやりとりで、どうやら中村さんや私たちよりは年上で、そして夜の店のシステムや黒服とキャストの立場などを理解している女性であると言うことはわかった。 もちろん、その中に含まれる、他の微妙な関係性と言うものの類も熟知しているようだった。 「おいおい!カオリ!中村くんだって、たまには失敗するだろ!その辺にしとけ。反省してるって、中村くんも!」 「だって、うたこちゃんは19歳なんだろ。まだなーんにも知らないコドモに、怪我だってしてんのに、あんまりだろ!中村ちゃんから、アタシが守ってやんなきゃね!」 「ちょっと、カオリさんってば、だったら私のことだって守ってくださいよー!」 「カナちゃんはアタシの言うことなんか聞きゃあしないだろ。自分で自分のことを決めることが出来るコは平気だよ!しっかりしてんだからさ、アンタは」 元気いっぱいな酔っぱらいの三人組は、カウンター席の端っこに並んで座っている私と中村さんを一旦退けて、今度はカナちゃんの話題に移ることへと決めたらしい。 ありがとう、カナちゃん。 多分彼女は、私と中村さんが二人で喋ることが出来るようにと、わざわざ自分の方へと話題をそらしてくれたのだろう。 「本当に悪かったよ、うた。電話してたんだよ。それで、ライン見れなかっただけだからな」 「…いえ、さっきはすみませんでした。別に傷ついて、また泣いたわけじゃないです」 「ドレスも、うたが好きなやつでいいし」 「怪我をした時から、中村さんから言われる前から、今日はロングしか無理じゃん、って。自分で思ったので、気にしてないです」 「店が、とか、客が、とか関係なくてな。おまえが嫌かと思って、言ったんだけどな」 「…わかってます」 私が微笑むと、中村さんも笑顔をくれて、カウンターの上に置いてあったスマホや煙草、ライターなんかをスーツのポケットに仕舞う。 それを見て、私は膝の上のバックを腕にかけて、エンジェルのからっぽのボトルが入っている紙袋の紐を掴む。 今日は同伴するのはやめておいて、出来るだけ指名客でフロアを埋められるような営業をかけようか。 中村さんのいない場所で、操ってもらえない場所で、一人きりで頭を回して、表情をその場面場面に合うものへと、上手く選んでパッパと変えられるようになるまでは、普段よりも時間を要する気がした。 「宮崎さん、ありがとうな。カナちゃんも、カオリも、またな」 「ありがとうございました、宮崎さん。カナちゃん、またラインするね。カオリさん、今度お店に遊びに行きますね」 「おう!帰るか、中村くん。あ、いいよ、うたこちゃん。片付けは俺らでやるから、そのままにしとけ!傷、大事にしろよ!!」 「気にしないで、うたこちゃん。私もよく泣くよー!泣いた方がスッキリするし、いいじゃん!」 「…カナちゃん、ありがとう。じゃあ、すみませんでした、色々…あーもう、恥ずかしい…」 「若い頃は恥かいてなんぼだよ!これ、アタシの名刺。やるからさ。いつでもおいで!」 「カオリさん、ありがとうございます。えっと…ちょっと待って下さい。…あ、あった。これ、私の名刺です」 店の名刺だけれど、カオリさんがくれたものもそうだった。 じゃあ、これで良いのだと思う。 もう8時半を過ぎているし、中村さんの部屋に戻ったら営業をかけたり、ブログを確認したり、ナナさんにだって写メを送ったりコメントの返事をしたりしなくっちゃ。 それから、どうしよう。 ミサの話を、中村さんにするのは、それはちょっと迷ってしまう。 だってミサは、私に話してくれたんだし、勝手に他の人にその内容を全てバラすなんて酷いと思う。 しかも相手が、店で自分を担当しているマネージャーで、ミサが出勤しないことや、辞めると伝えたせいで、頭を悩ませている人物だなんて。 「じゃ、またな。うた、歩けるか」 「皆さん、楽しんで下さいね!うん…歩けます、一人でも」 そうだ、一人でも大丈夫にならいと。 今いるここは、私の勤めている店じゃないし、中村さんはマネージャーじゃないし、私もキャストじゃないんだから。 しっかりしろ、この人がいないと何も出来ない、生きてもいけない、なんて、そんな人間になっちゃダメだ。 いつだって覚悟しとかないと、来るべき日がやって来た時に私は奈落の底、破滅してしまう。 酔いはまだ多分さめきっていない。 ちゃんとアルコールが抜けていたならば、私はその時、当然のように繋がれた彼の手を振りほどいただろう。 けれどそうしなかったし、疲弊しきっていた心が嬉しいと感じた。 脚はもうふらつかないけれど、再び頭痛が襲って来る。 眠らなくても、二日酔いと言うものにはなるのだろうか。 手を繋いで、好きな人と太陽の下を歩き、タクシーを拾うと彼の住むマンションへと向かう。 今日はコンビニには寄らずに、そのまま中村さんの部屋に真っ直ぐ帰った。 その間、ポツリポツリと幾つかは会話を交わしたけれど、ミサのことや、今日の仕事の話題が彼の口から出ることはなかった。 私がドアの鍵を開け、中村さんが先に玄関へ入って、その後を追って中へと進む。 「シャワー浴びて、もう寝ろ、うた」 「いえ、ダメです。仕事しないと。やらなきゃならないこと、いっぱいあるので、私は最後まで、頑張ります」 「……そうか。偉いな、イイコだ、うたは」 彼は私の返した言葉に、まるで心から愛しいと想っている相手に向けるような、そんな微笑みを浮かべてくれた。 それが、本物だったらいいのに。 まだお互い靴を脱いでいないし、狭いスペースにギュウギュウ詰めだと言うのに、中村さんは強い力で私のことを抱きしめて、そのまま抱え上げる。 ぷらん、と揺れた足首からつま先までの力が失われると、ハイヒールがコン、コン、と乾いた音を立てて脱げ落ちた。 「…私、本当はね、すっごく疲れてるんです、中村さん…」 「そりゃそうだろ。おまえはいつも、頑張ってるんだから」 「…だけど、頑張るから」 「ああ、嬉しいよ、俺は」 嬉しいの? 良かった。 でもね、本当は限界です。 嘘、まだ大丈夫です。 だからやめないで。 まだ、恋人ごっこしてて。 こうやって、私で遊んでて。 中村さんの黒いスーツは、すっかり私のファンデやアイシャドウ、怪我の血で汚れていた。 彼は靴のカカトを、玄関と室内を区切っている、上がり框と言うのだが、その部分にあてて、雑に脱ぎ捨てる。 私を抱っこしたままキッチンを通り、奥の部屋まで連れて行くと、布団の上に優しく降ろしてくれた。 「…え?…ちょっと、だ、ダメですってば。言ったじゃん、やらなきゃならないこと、いっぱいあるって!」 「いいよ、後で」 「でも、仕事ですよ!誰も、店に来なかったら困る!」 「大丈夫だ、おまえは呼べるだろ、ちゃんと」 「そんなのわかんないです!無理です!一生懸命手を尽くさないと、だって私は、人の百倍やって、それでやっとで普通なんだから…!!」 私の話を聞いてくれない。 仕事だと言うのに、店に指名客を呼ぶ為に営業をかけなければいけないと言うのに、そうさせるのが彼の本来の目的だと言うのに。 それなのに、中村さんはスーツの上着をもう着ていないし、白い長袖のシャツのボタンだってほとんど取ってしまっている。 下もベルトを外して、わけがわからなくて狼狽える私の前に膝をつくと、バックとエンジェルのボトルの入った紙袋を奪われる。 それらはフローリングの床へと追いやられ、両手のあいた私は成す術もなく彼の言いなりとなった。 この人、何考えてるの。 やっぱり私なんかよりずっとぶっ壊れてしまっているんだろうか。 だってただの薬中だもの。 でも、だとしても、それでも、私に仕事をさせないだなんて。 そんなことが、今まで一度だってあっただろうか。 重要な三日間なんじゃないの? 感情に任せて、こんなことをするような人だっただろうか? 私が思い描いていた中村さん像とかけ離れ過ぎていて、まるで別人に押し倒されているみたい。 左足の膝を包む大きな絆創膏の上から、丸い関節を手のひらでグッと握り締められて、鈍い痛みを感じる。 そのまま引き上げられて太ももが腹にくっつくと、ワンピースのスカートの部分が自動的に捲れて行って脚の付け根でくしゃくしゃになった。 私は、自分の下半身を開こうとしている、目の前の男の胸に両手の爪を立てて、押し戻そうと必死で腕に力を込めていた。 「普通じゃなくていい、普通になんてなるな」 そんな…、そんな…、そんな、そんな!! そんなことを言われたら、私は!! だって私は、ずっと昔から、小さな頃から、産まれた時からずっと、普通になりたかったのに!! 何度もお祓いに連れて行かれて!!病院にも連れて行かれて!!鬼子って言われて!!ぶん殴られて!!ひっ叩かれて!!普通になれって!!怒鳴られて、生きて来たのに!! 普通じゃなくていいの? 普通に、ならなくていいの? 「……私も、嬉しい、です、…」 なんでそんなことを、平気で私に言ってしまったんですか。
/609ページ

最初のコメントを投稿しよう!

482人が本棚に入れています
本棚に追加