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愚かな救済
大泣きしながら、私は中村さんの背中に縋り付いて揺さぶられていた。
幸せなのか、酷い目にあっているのか、怒っているのか、満たされているのか、どれが一番近い感情だったのか、痺れ切った頭では答えは出せなかった。
ただ、今の私にはどうしてもこの人が必要なのだと思った。
白旗なんてはじめから立派にはためいていたけれど、更に新たな降参の証を掲げなければならなくなった。
ちきしょう、この薬中の狂人野郎め、なんてことしてくれたんだ。
ここまで生きて来た、その間に必死で選んで来た、数少ない真人間に近いとばっかり思っていた足跡が全部全部消えてしまったじゃないか。
まさに、ぜーんぶ、水の泡。
私のことを、本当に、どこまでダメにしてしまうつもりなの。
こんなのは。きっと。ちゃんとした大人のすることじゃない。まともじゃない。でもどうだっていい。関係ない。好き。大好き。どうしようもない私は。どうしよもない、この人のことが。好き。大好き。
「…うた、泣くな、せっかく、可愛い、のに、…」
「バカ、レイプ犯、っ、ん、だい、すき、っ、あ、やっ、…っ」
マジでどうしようもない、もしかしたら私よりずっとどうしようもない、その人が引き返せないようなバカな真似をした。
私は途中まで気づかなかった。
味わったことのない感触だったから、ただ中村さんが行為に疲れたか、イかなかっただけだなのだろうと思った。
私の体に覆い被さって、肩を上下させて息を荒くして、枕に額を押し付けた彼が、挿入している自身を引き抜かなかった。
「…っ」
「え、っ、…あ、…?」
「だいじょぶ、だから、」
「は?…うそ、っ、…」
腹の奥底に感じた違和感は、自分の想像よりもちっとも熱いものではなくて、ドロリとしていた。
それが、粘膜の内側へと溶け込んで行くと、一定の確率で何が起こるのか。
学校でも習うし、この年にもなればさすがに知っていた。
何が起こったのか、その全てを理解した私は、声を上げて笑い出す。
変な人、中村さんって、ほんと意味わかんない。
言ってたじゃん、そう言うとこはちゃんとしてるんじゃなかったの?
いけないんだ、大人なのに、私みたいなんに、こんなことしちゃってさ、バカなんじゃないの。
「何、笑ってんの」
「だって、あはっ…、だって…!おっもしろくって…、あはは!…やだ、おかし、…あはははっ!」
「おい、うたが爆笑してると、抜けないんだけど」
「ははっ…、あははっ、なかむら、さん、…へんなひとお、…ふふっ」
笑うと腹筋に力が入るし、多分そのせいで中もキツく締まってしまうのかもしれない。
こんな経験は今までしたことがなかったから、どうなのかは知らないけれど。
ひとしきり笑って、今日は泣いてばかりだったから、これで丁度釣り合いが取れた、なんて気がして、私は満足してしまう。
彼は私の上からやっと退くと、隣に仰向けになってゴロンと転がった。
二人とも上半身は服を纏ったまま、下だけを露わにしているマヌケな姿だ。
「はー、気持ちよかった」
「本当ですかあー?」
「俺は嘘つかない、って、うたが言ったんだろ」
「でも、時々は、言ってたことが嘘になったりするんですね」
「言う時は、嘘じゃないつもりなんだけどなあ」
「ありますよね、そう言うことって」
現に私には良くあることで、友人や親や他人にまでそのことを指摘され、謝罪することが度々あった。
言うことがすぐに変わる、と言って嫌われることも、離れて行ってしまう人もいたし、反省も何百回もして来て、自分の発言には責任を持たなければと気をつけてはいた。
けれど仕方ないこともあるのだ。
考え方が途中で変わったり、新しい価値観が生まれたり、その時の心や感情次第で思わず、と言う場合だってある。
「心配ないから。俺、種なしだから」
「どうだかなあ」
「本当だから。病院で言われたし」
「いいです、私、子供好きだし。それに、面白かったから」
今考えてもなんて頭の悪い女なのだろうと思うが、当時はそう言う人間だったのだから仕方がない。
幼くて浅慮で愚かだった私は、その時の私なりに、心から彼のことを愛していたのだと思う。
不幸だとしても、彼と結婚することになったのならばしたかったのかもしれない。
それでも一つだけ、僅かな安心材料があったとするのならば。
この時の私は150センチで32キロ、生理は高校生の頃からずっと止まっていた。
「怖いこと言うな」
「怖いでしょう、ざまあみろですよ」
「一緒にシャワー入るか、うた」
「いいんですか?いやでも、私マジでスッピン見せるのはちょっと」
「気にしないって言ってるだろ」
「…笑ったら怒りますよ。まあ、後で眉毛とアイラインはやりますけど」
「なんなの、その決まりって」
「死に化粧、ちゃんとしてないと安心出来ないんです」
ふうん、なんて興味のなさそうな返事をして、それからの彼はもう、至って普通の、普段通りの、ちょっとはまともそうな中村さんへと戻っていた。
二人でシャワーを浴びて、髪や体を丁寧に洗ってくれて、恐る恐る化粧を落とした私の顔を見ても笑ったりしなかった。
そんなことにはこれっぽっちも触れたりしなかった。
並んでキッチンのシンクの前に立って歯を磨いて、うがいをして、バラバラになっていたハイヒールと中村さんの革靴を玄関に揃えに行く私のことを見て、彼は可笑しそうに笑った。
昼には寝ようと話し、深緑色のクッションに尻を沈めて、借りたTシャツとパンツ姿の私がスマホで営業ラインを打ち、ナナさんに写メを送り、ブログのコメントに返事を返し、煙草を吸う。
その隣で、中村さんも煙草を吸いながらスマホを弄っていた。
何事もなかったようにそう出来るけれど、どうして一切ミサの話をして来ないのだろうと、それだけが不思議だった。
だって、勤務中に態度がおかしくなってしまうくらいの悩みだったはずだ。
「なんでそんな見てんの、俺の顔」
「…どうして、何も聞いて来ないんですか?」
「居酒屋で、おまえからのラインを見れなかったのは、ミサと電話してたからだよ」
「…そっか。ミサは、きちんと中村さんに連絡したんですね、あの後…」
「数日休むって。一応、理由は聞いたけどな、話さなかった。泣いてたから、俺の方からは、切るに切れなかった」
「…はい。じゃあ、私も話しません」
「いいよ。それで合ってると思うよ。正しい答えってのは」
そう静かに、全く正しくなどない人は言う。
どこで彼はぶっ壊れたのだろう、どんなことが原因で、どんな目にあって、こんなに狂った人になってしまったのだろう。
気にはなったけれど、私はそれを訊ねたりするようなことはしない。
そのかわり、ただひたすら懸命に営業ラインを打ち、今日も少しくらいは店を指名客で埋められるようにと頑張る。
「私、もう寝ますね。なんだかすごく頭が痛いし、やっぱり、めちゃくちゃ疲れてるみたい…」
「そうだな、じゃあもう寝るか。洗濯機は明日まとめて回すから」
「うん。クラクラします。薬飲もっと。…同伴、出来なくてもいいですか?」
「うたの自由でいい。おまえは、自分で考えてるより、ちゃんとやってるし、頑張れてるから。何か、どうしても俺に言えないことで困ったら、カオリに相談してみろ」
「カオリさん…名刺に、連絡先書いてありました。うん、そうする」
私は、黒猫柄のマグカップに水を注いで、心療内科で処方してもらっている就寝前用の錠剤たちを飲む。
中村さんも吸っていた煙草を消すと、スマホを充電器に刺して立ち上がる。
今日は、出勤前のブログの更新は起きてから書いて、彼が出勤してしまう前に内容を確認してもらって更新をしよう。
そう考え、同じように吸っていた煙草を揉み消すと、スマホを充電してから布団へと倒れ込む。
すぐに眠気がやって来て、隣に横になった中村さんの腕を辿って手のひらに行きつくと、指を絡めて繋いでもらった。
彼は何も言わずに手を握り返してくれて、すぐに瞼を閉じた。
痛々しいな、イタイやつだな、私たちは。
それでもまだ、私の方は19歳でこれからなんとかそこから脱出出来るようなチャンスがやって来るかもしれない。
けれど、彼には?
中村さんは29歳だと言っていた。
それまでずっとこんな風だったのだろうか。
何も救いの糸口は現れなかったのだろうか、もしくは、目の前にそれがあっても選ばなかったのだろうか。
私は彼のことを、いつか置いて行ってしまうのだろうか。
そんな、傲慢で、中村さんはなんとも思わないかもしれない、歯牙にも掛けないであろうことを考えると、センチメンタルな気持ちを抱いた。
今日の営業ラインの内容は必死な内容になってしまった。
同伴をしない、と言うことは待機時間があると言うことで、その間どの卓にも呼び出しがかからなかったらどうしようと言う不安に襲われていた。
私なんて必要ない、何の役にも立たない、どの卓でも上手くやって行けないと、そう判断されて、放置を食らったらどうしよう。
だって私には、何の価値もないんだから。
そんな考えが、入店した時から、ううん、もっともっと昔から、私の頭を支配し続けている。
どれだけ指名客を呼べるようになったって、No上位をキープすることが出来るようになっったって、中村さんから「大丈夫だ」「ちゃんとやってる」「頑張れてる」と言われたって、私はいつまでも「無価値な自分」から解放されない。
一瞬救われたような気になっても、長い間こびり付いた錆のように、真っ白な服に沁み込んだ赤い鮮血のように、肌に刻んだ深い剃刀の傷痕のように、薄れることはあっても消えやしない。
私は、何の魅力も持たない、何の力も持たない、永遠に孤独な、誰にも求められない、褒められないのが当然な人間なのだと言う気持ち。
普通じゃなくていい、と中村さんは言ってくれたけれど、それでも頑張らない私のことは、彼は好きじゃないし、可愛がったりしないのだと思っていた。
好きな人が言ってくれた言葉すらも、私のことを癒したりはしない。
でもね、繋いでいてくれるの、操り糸で、私をこの世に。
起きたら、営業ラインだけじゃなくて、ブログも工夫してみよう。
どんな風に書いたら、見てくれた人が店に赴き、会ってみようと考えてくれるのだろう。
有名な高級店のキャストや、銀座とかのクラブ、ラウンジなんかのお姉さんのブログも探して読んでみよう。
写メももっと、集客に繋がるようなものを撮影出来るようにしてみよう。
それから、私に出来た新しい楽しみである、ナナさんのブログを見て、コメントを残してみたりしたい。
ミサのことも心配だし、出来ればこまめに連絡が来ているかどうか確認しなければいけないし。
もし、店で少しでもミズキさんと会話が出来そうな機会があれば、ミサを助けて、とお願いしてみよう。
余計なお世話になってしまうだろうか、迷惑だろうか、彼女は群れるような女は嫌いだろうか、けれど私はミサのことが大事なのだ。
「…うた、寝ろ。おまえ、クタクタだろ」
「…お陰様で」
「言っただろ、嬉しかったんだよ」
「何がですか?」
「いや、いい。とにかく寝ろ。今日だって、無理するんだから、おまえは」
「誰のせいだと思ってるんですか」
「俺のせいだろ」
「わかっててやってんですか」
「そりゃあわかるだろ。でも、やめろって言って、やめるの、うたは」
「…ううう、わかんないです。自分のこと、わかんないんです、私」
「いいよ、そんなやついっぱいいるから。大丈夫だから、もう寝るぞ」
そんなやつ、いっぱいいるの?
私、大丈夫なの?
じゃあ、いいや、多分そのうち眠剤が効いて私の意識は途切れる。
その前にお休みのキスをして、頭を撫でて、イイコだって言ってくれる。
だから今だけ私は大丈夫。
すぐにまた、自分の価値のなさや不甲斐なさに、ろくでもない感情に、飲み込まれてしまうのだとしても。
そうしてようやっと眠りについて、充分に睡眠を取れた頃、私のことを目覚めさせてくれたのは、彼の、中村さんの部屋の、玄関の呼び鈴の音だった。
★注意★
生理が止まっていても妊娠する可能性はありますので、安易に考えてはいけません。
(おまえが言うな)
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