変わってしまわないで

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変わってしまわないで

今日もビップルームの一室のテーブルには、木村さんが私の為に用意してくれた花束が飾ってある。 沢山の真っ白な、小さくて可憐なカスミソウに囲まれて、まだ花びらを開ききっていないハッキリとした色のピンクの小ぶりな薔薇が幾つか姿をのぞかせている。 なんて可愛いんだろう。 けれど、私の部屋にもマネージャーの部屋にも花瓶なんかないので、これも店に飾ってもらうことになるのだが。 これまで、一度は吐きに行くチャンスがあったからマシだったかもしれないが、それでも追いつかないほどに酒を飲んでいるのだから、酔うものは酔う。 どのみち今日だってベロベロだったし、フラフラだったし、いい気分だったし、わけがわからなくはなっていた。 それでも指名客は来店してくれたし、まだ残ってくれている客もいるのだから、私は頑張らなければならない。 操り糸はなんだか絡まってしまって、上手く働いてくれてはいないようだったけれど。 「よし、最後に何か頼め。最後までいられたらいいんだがな、明日は出掛けなきゃならん」 「そうですよね、お忙しいのに…本当にありがとうございました!ふふふ、でもね、私、今日、木村さんが来てくれただけで、元気になりました」 「そんな風に言われたら、俺だって余計飲ませてやりたくなる。もっと、喜ばせたいからな。俺はな、うたこのことは、いつも喜ばせてやりたいんだ」 「そうやって、私のことを夢中にさせようとしてるんでしょう、木村さんは」 「なんだ、ちょっとはその気になってくれたのか」 「待っていて、くれますか?…私が、木村さんに見合う、大人の女になれるまで…」 瞼を閉じて、木村さんの逞しい二の腕に寄りかかると、彼は私の肩を抱いてしばらくの間微笑んだまま満足そうに私の頭に頬ずりをしていた。 静かにそんな数分を過ごしてから、彼は自分からボーイを呼ぶ。 そして、私が頼んだわけではないのに、とても高価なシャンパンを入れてくれた。 カラオケを一旦切って個室に音楽が流れないようにすると、私は木村さんの頬に手のひらをあてる。 「俺はこれでもな、待つのは得意なんだ。たまには暴走するけどな。そんな時はうたこが俺を叱ってくれ」 「そんなこと出来ませんよ。私はまだ、ただのコドモです。でも、追いつきますからね、いつかちゃんと。きっと…ね?」 「ありがとうな、その言葉が聞きたかったんだ」 木村さんはロマンチックなものが好きで、ロマンチックなセリフが好きで、ロマンチックなストーリーが好きなのだから。 永遠に追いつけるわけなどないではないか、ただのメンヘラで頭のおかしい小娘が、彼のような人に。 そもそも私たちは元々、全く違う道を走っているのだから。 幾ら私が走ってみたところで、二人の人生はこの関係性以外では交わったりはしない。 そして、アルマンドのロゼが、マネージャーの手によって届けられる。 黒くて上品な箱に入れられたそのシャンパンのボトルを見て、私は歓喜の声を上げる。 やだ、何これ、大好き!カッコイイ!全部、ピンクで、すっごく好き!! 私は勢いよく木村さんの首に腕を回して抱きついて、それから頬を両手のひらで包み込むと、うっとりとした目で、淡々とテーブルの上にセットされて行く新しいシャンパングラスや、そのボトルを眺めていた。 ずっとキープボトルの酒を飲んでいた木村さんも、最後なので一緒にこのシャンパンを飲むと言って、二人で乾杯をした。 私は、金額の高いシャンパンが好きなわけではない。 見た目の好みや、その客の懐具合や、その時の場の雰囲気によって、入れてもらっても大丈夫であろうと思われるものをオーダーするようにしていたつもりだ。 でもこれは、木村さんが選んで、木村さんが自分から、木村さんが私を喜ばせたいと思って自分から入れてくれたシャンパンだ。 私にはそんな価値などない、と言う考えはどうやったって変えることは出来なかったけれど、それでも「キャバ嬢のうたこ」には、少しくらいは価値があったのかもしれない。 その分、本物の自分の方が擦り切れて、ボロボロになって、破れかぶれでダメになって、滅んで行くのだとしても。 「美味しいです、ありがとう!嬉しい!私、しあわせだなあ…」 「そう言ってくれて良かったよ、うたこ」 もう、次の延長の時間がやって来たら木村さんはチェックするのだ。 その前に飲み切らなければ彼に失礼だと思ったし、気持ちに応えたいと思った。 そして、私の言葉に哀し気に微笑んだ木村さんを見て、少しだけこんなことを思った。 今まで、ヤクザである木村さんに、「幸せ」と言わせることが出来た女が、もしかしたらたまたまキャバクラ嬢だけだったのではないだろうか。 でもきっと大丈夫だと思う。 彼はちゃんと女性を幸せにすることが出来る男性なのだとも感じていた。 こんな方法を取らなくたって、相手が水商売の女のコなんかじゃなくたって。 いつかきっと、木村さんの前に現れる、彼のことを愛するであろう女性は、この人のちょっとズレた愛し方や、本来の性格を可愛らしいと思って、受け入れてくれるのではないだろうか。 私はなるべく、自分が他の指名客の卓に引き抜かれてしまう前に、木村さんがチェックをしてしまう前に、と考えて、ペース早めでこのシャンパンを飲みきった。 ちゃんとその間だって、二人で会話をして、木村さんのグラスがからっぽになったら新しいものを注いで、少しでも私の「しあわせ」と言う言葉が彼を満たすことが出来るようにと努めた。 そして、木村さんは次の延長でチェックをして、私たちはこの二人きりのロマンチックな空間から出て、それぞれ現実へと戻って行くのだ。 フロアを、手を繋いで寄り添って進んで、通路を通り自動ドアをくぐる。 踊り場で、私たちは手を離す。 木村さんは、私の両肩に手を置くと、体を少しかがめる。 えっと、やばい、これは、もしかしたら。 と思って、後ずさりをしようかどうか躊躇していたら、そんなことは起こらなかった。 びっくりした、キスされるのかと思った。 彼は、私の額に、自分の額をくっつけただけだった。 「…今日も、ありがとうございました。私、すごく嬉しかったです」 「そうやって笑っていてくれ、うたこ。また連絡しろよ、俺もするからよ」 「はい!気をつけて帰って下さいね。ゆっくり休んで下さい」 「じゃあな、次また時間が出来たら、いつもの店に一緒に行こう」 そう言って、木村さんは私の体から手をどけると、片手だけあげてくるりと背中を向ける。 階段を下りて行く彼の足取りは、重たそうには感じなかった。 なんだかホッとして、「しあわせ」をちゃんと返せていたのかどうか、と、考えることはもうやめる。 何度か振り返る、そんな木村さんの姿が見えなくなるまで手を振り続る。 そこそこ酔っているので、もう一度吐こう、と思いながら店内へと戻る。 真っ直ぐトイレへと向かい、先ほどと同じようにして、手を洗う。 それからすぐに、ハンカチがないことに気づいた。 しまった、洗った手を拭くことが出来ない。 何よりも、客の卓で酒のグラスに浮かぶ水滴を綺麗にしたり、ミニワンピのドレスからのぞく太ももと太ももの間の隙間を隠すのに、広げておくことが出来ない。 パンツ丸見えになるじゃん。 ビップルームに忘れて来たのだ、と思ったところで、フラついて閉じた水洗トイレの蓋の上にトン、と、横向きに座り込んでしまう。 ミサに会うのだから、と意識していた為、いつもよりはしっかりと頭を働かせることが出来ている、そんな気になっていた。 けれど、自分が感じているよりはずっと、体の方に酔いが回っていたらしい。 …そうだ、ミサ、ミサが待っているのだから、酔っぱらって昨日のような状態になるわけにはいかない。 化粧ポーチをあけると、スマホを取り出す。 ミサから連絡がないかどうかを確認しようとしたのだが、ライン画面を開くと、一番上にあったのはマネージャーからのアイコンだった。 とりあえずミサからは何も送られて来ていなかったので、マネージャーからのラインの内容を見てみる。 事と次第によっては、酔っている私はさっきよりももっと困惑して仕事にならない、なんてことになるかもしれないのに。 『了解。なあ、俺、うたに何かしたっけ』 それだけだった。 ちきしょう、なめやがって。 説明する気がないのか、私が何も気づかなかったと思っているのか、それとも私の邪推なだけで本来ならば喜ぶべき気遣いであったと言うだけだったのか。 全然わからないので、返事もしないでスマホを仕舞うと気合いを入れ直して立ち上がる。 まだキヨシくんがいるし、精神科医の客もいるし、どちらもシャンパンをある程度オーダーしても良いと思える卓だ。 他にも指名客はいるが、これ以上お強請りをしたら嫌われてしまうかもしれないし、慎重に行かないと。 じゃあ、やっぱり頑張らなければならない。 操り糸がぐっちゃぐっちゃに絡まって、ちゃんとまともに機能してくれていなくたって、それでもちゃんと繋がっているのだから。 繋がってる。 何より私は、頑張る、と言ったのだから。 怒りと、戸惑いと、恐怖と、一つの思い違いでいっぱいになった心を振り切って、私はフロアへと戻る。 マネージャーは微妙な、何か私に問いかけたいことがあるような、そんな顔をして待っていた。 そんな顔だって、したことなかったじゃん!前までは!やめてよ! 叫んで掴みかかりたくなるけれど、そんなこと出来るわけなどない。 私はその背中について行くことしか出来ない、それが普通だ。 次の卓、その次の卓、と、ただ指名客や合うと判断されたフリー客の元へと案内され、仕事をこなして酒を飲む。 それを繰り返すのが、私がここで、店でやるべきことだ。 余計なことを考えている暇などないのだ。 そう、思い違いなのだ。 そうに決まっている。 そしてそれは今考えるべきことじゃない。 私が、自分の操り手である彼のことを、変えてしまったかもしれないなんて、そんなことは。 絶対にない、あり得ない、あってはいけない。 そんなことが本当だったのだとしたら、私は幸せなのだろうか。 幸せってなんだろう、私の求める幸せって何。 想いが、結ばれること? 嫌だ、そうじゃない、だってそれが叶ってしまったら。 私は、私は、こんな意味わかんない薬中に。 人生すら、明け渡してしまうことになる。 こっわ。 あはは。 何言ってんの。 大丈夫、私の人生はそんなに重くはないから。 捨てられた時に、やっぱりね、って言えるようにしておけばいいだけだ。 彼が考えているのは多分、こんなことじゃない。 大丈夫だ、っていつも言ってくれたじゃないか。 私が心配することなど、何もないのかもしれない。 安心して、色ボケを続けても良いのかもしれない。 いつも、ちゃんといつかは終わってしまう、それさえ忘れなければ。 そうでしょう? なのに、なんでこう言うことすんの。 「…あの、私、今日は大丈夫なんですけど。仕事に戻ります」 「寝てるだろ、客」 「キヨシくんは起きてますよ、それに他の指名だって、頑張ればまだボトルが入るかも」 「あいつにはナナがついてるし、他の客もヘルプいるし」 「じゃあ!部長か店長にバレたらどうするんですか!」 「何怒ってんの、おまえ」 木村さんと一緒に過ごしたビップルームにハンカチを忘れてしまった、とマネージャーに伝えた。 そう言うことがあった場合は、先にそのキャストを、待たせている指名客の卓につけてから、黒服とかボーイが取りに行って持って来てくれる手筈になっているはずだ。 それなのに、マネージャーが私を連れて行った場所は、もう木村さんが帰ったビップルームだった。 ラストまで残った時間いっぱい、沢山、出来るだけ売り上げを上げたいと言う私の気持ち。 それはマネージャーだって同じはずだと思う、以前までの彼だったら確実にそう。 わざわざその為のコマが怒っている理由など、ラインを使うか店が終わってから問うてフォローすれば良いのだ。 今、わざわざこんなリスクを冒してまで、二人きりの時間を作るのはおかしい。 無駄どころかマイナスになることでしかない、こんなの。 「…急に!設定!変えないで下さい!!」 そう言うのが精一杯だった。 私は、バカだから、何が何だかわからないけれど、どう言うわけだか幸福で、マネージャーの細い体に正面から倒れ込み、両腕でしがみついたままズルズルと床に沈んだ。
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