「私の値段」

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「私の値段」

マネージャーの、中村さんのスーツの裾を掴んで、腕だけがぶら下がっている状態で、私はビップルームを入ったすぐの床に正座をしていた。 何をしているのだろう、彼も私も、何がどうなったのだろう。 でも今は勤務中で、仕事をしなければならないはずで、もっとボトルを入れて、売り上げを上げなければならないのに、それなのに。 中村さんは私の前にしゃがんでくれて、俯いている顔を覗き込んで来る。 「設定?」 「っ…!態度です!キャラブレ!!困るんですけど…!」 「何だ、何か変だったか」 「おかしいです、なんか前までと違います、なんだろう、えっと、ちゃんと大事な人みたいにしたから!」 「おかしくないだろ、おまえのこと可愛いんだし、大事にするのは」 「…はあ!?そうなんですか!?」 え?何これ?ただ喜んでもいいってこと?幸せなことだったってだけ!? ただ、操り糸の効力が増しただけってことでいいの!? そう思っておけば、私はまだ働けるし、頑張れるから、そうなのだと言って欲しい。 「…心境の変化でも、あったんですか?」 「言っただろ、嬉しかったって」 「…あれって、何がそんなに嬉しかったの?」 「今は時間ないから、とりあえず卓に一旦戻るぞ」 「…はい」 「頑張れるか?」 「…全然、頑張りますけど」 わからない、でも、時間がないからって言った。 じゃあ、時間がある時に、何かちゃんと話し合うなり説明してくれるなり、そう言う気はあるってこと。 だったら、私は頑張って働いて、今日を乗り越えて、ミズキさんと一緒にミサに会いに行くことが出来そうだ。 …その後?その後になるの?この意味のわからない不安から逃れることが出来る、説明ってやつは。 えええ、もう嫌、でも店が終わっても、ミズキさんは私を待っていると言った。 わかった。 わかりました。 その言葉だけで私は。 頑張れるか?は、頑張れ、と言うことなのだから、それだけは変わらない。 無理をしろ、と言ってくれるのならば。 私は今日もちゃんと最後までしっかりと無理をしてみせます。 今は、それ以外、私に出来ることは何もないんだから。 それからはラストまで、もうひたすらがむしゃらに働いた。 質が良い働き方だったかどうかと聞かれると、全く良くないものだったと思う。 指名客が離れて行ってしまうかもしれないような、そんな行動も取った。 せっかく築いて来た良い関係を壊しかねないような、そんなギリギリのこともしたかもしれない。 その、二日目の売り上げを上げることだけを考えていた。 そんな状態でも私は、指名客の懐具合を心配すること、気遣うこと、それらだけは忘れないよう、相手のプライドを傷つけないように言葉を選んでオーダーする品を決めていた。 一つの卓を、除いては。 残念ながら頭は悪かったが、媚びるのは得意だったし、行き詰ったら営業のかけ方の方向転換をした。 わけがわからなかったから、酒だって頼んでもらえればありったけ全部飲んだ。 それぞれの指名客に満足してもらえるように、一生懸命ただひたすら、言葉で、態度で、仕草で、持っている全部で、自分の出来る限りのことをやり尽くした。 そうすれば、私がお強請りなんかしなくても、オーダーやシャンパンが勝手に入ることもあった。 本当にラッキーな日だったのだ。 そんな中、毎日必死なのは今までだってずっとそうだったが、自分を粉々に、ボロ雑巾を更に酷使するような働き方をしていた。 それが功を成したのかどうかわからないが、思わぬことに気づけた。 まず一つめのこと。 それは、私にはまだ新しい側面が何個もあって、やりよう次第では、どうやら物事を上手く運ぶことが出来ると言うことを知れた。 何もないと思っていたから、これは有り難いことだった。 自分の持っている手札は、とても少ないと、そう思っていたからだ。 そして、もう一つ。 「ねえ、うたこちゃん。俺、明日も会いたい…もう、俺には、うたこちゃんしかいない」 「…ふふ、言ったじゃん、いつでもまってる、って。キヨシくんのこと、私、いつでもまってるよ?いつだって、キヨシくんのこと、想ってる…」 心ないことも平気で言うし、次から次によくもまあ、と思うほど嘘が口から溢れ出てくる。 キヨシくんは物凄く酔っぱらっていて、多分自暴自棄で、どうにもならない暗闇の中にいて、縋り付くことの出来た唯一のものが私しか残されていない、そんな感じだった。 けれど、私だって物凄く酔っていたし、心に深い深い傷を負った。 その傷を、私の精神を殺すようなことをしたのはコイツだった。 ついさっき、シャンパンのボトルを一度に二つオーダーして、一気飲み競争をやった。 私が賭けたのは、明日から私と付き合える、と言う権限だった。 冗談半分、本気半分で、キャッキャと場を盛り上げながら、ノリで言ってるだけ、なんて、そんな雰囲気になるように場を整えてからはじめたお遊びだ。 笑いながら茶目っ気たっぷりに、万が一引かれても大丈夫なように予防線を張って告げたそんなギャンブルに、彼は目を輝かせて即答し、すぐさま乗って来た。 私は、本当は断って欲しかった。 それはコイツが、ちゃんと私の、人としての心を欲しがってくれているのではないかと、まだ少しは期待していたからだ。 もちろん、問答無用で私の勝利だった。 キヨシくんが賭けたものは、再びシャンパンを入れると言う約束と、そのボトルを何にするのか、私が選んでも良いと言う権限だった。 人の人生をなんだと思っているのだコイツは、と思った。 賭けたものが、それ。 つまりコイツが考え口にした「賭けで自分が負けたら私に与えるもの」と言うのは、金と言うことだ。 それは、私と言う人間一人の運命を、人生を、シャンパンのボトルの金額で買うことが出来ると、そう考えているのと同義だった。 コイツは、金で私を買おうと、手に入れようと、そうすることが出来るものだと考えていたのだ。 そんな風に考える客は他にもいるだろう。 けれど、こんなにもハッキリとキッパリと堂々と恥ずかし気もなく、まるで自分は何一つ悪行など行ったことがない、と言いたげな顔で言うやつには、はじめて会った。 全く人間扱いされていないことを改めて思い知ると、どこまでも無情になれてラッキーだった。 一気飲み競争をやる前に、私が選んだシャンパンは、もちろん店で一番高価なものだ。 さすがに値段を見て怯んだ様子だったので、彼の肩を両手のひらを乗せ、胸を二の腕にあてて「わたしの、これからのすべてを捧げる、そのねだんなんだから、ね?」と、ちゃんと伝えた。 それでコイツが自分の過ちに気がついて、前言撤回をしたのならば、私の接し方は多少変わっただろう。 でも、コイツは意を決したように顔を上げ、「絶対に負けないよ!」なんて軽い言葉を吐いて、躊躇う様子すら見せず笑顔だった。 私は自分には価値などないと思っていた癖に、他人からは人間扱いされたかったらしい。 そんなことに、最低な状況に置かれてからやっとで気がついて、よりによってこんな時にかよ、と思うと、少しだけ泣けたし、あまりのバカさ加減に大声で笑い出したくもなった。 虚しい、死にたい、と思った。 …そうだ、小さな頃からずっと、私なんか死ねばいいと思ってた。 でも、生き残ってやる。生き抜いてやる。生きていても、いいんだよね。 どこかではそう、信じていたのに。 ― 死ぬな、と言ってくれたのは、マネージャー、中村さんだけだった。 私は私を、いつでもゴミ屑のように考え、そう扱っていたつもりだったけれど、全然そんなことはなかったらしい。 本当のところは、ちゃんと一人の人間として認めて欲しいと願っていて、それが叶えられると言うことは、私にも与えられている当然の権利なのだと、理解もしていたらしい。 だからこそコイツを許せなかったのだとわかったし、更に軽蔑し、嫌悪した。 死ねばいいのに、こんなヤツ、私なんかよりもずっとゴミじゃん。 賭けに勝った瞬間、私は「やったあああああー!!」と両腕を振り上げて、勢いよくソファから立ち上がった。 コイツは、一気飲み競争の為にオーダーしたモエシャンを半分も飲み干すことが出来ず、ゲホゲホと咳き込んで口から泡と液体をボタボタと垂れ流し、みっともなく洋服をビショビショに濡らしていた。 だからなんだと言うのだ、おまえはそのまま死んでしまえ。 「おねがいしまああああーすっ!!」 テンションの高いそんな甲高い女の声に、フロアにいる全員が注目するくらいに私は騒いだ。 その場でピョンピョンと小さく跳ねて、これに懲りて二度と店に来んな、と言い放ってしまいそうだった。 まあ、どのみちしばらくは来店することなど出来ないだろうと、予想して、いや、どうだろうか、とどちらの可能性も考える。 けれどまあ、この後の流れによっては、コイツは今日でめでたく出禁を食らうのだ。 がっかりして、考え込んで、頭を抱え込んでいるコイツを、励ましてやる理由も、慰めてやる理由も、優しくしてやる理由も、なーんにも、微塵もありはしない。 心らしい心の欠片すら、もうありはしない。 だって私、人間じゃないんでしょう?? にんげんじゃないから、そんなきもち、しらないの。 そんなんでも私は、被害者ヅラして生きて行くのなんて、絶対に絶対に、絶対にゴメンだ!! 相当困っているのだろう、コイツは、このシャンパンの支払いが出来るような、そんな金額を今、持ち合わせてはいない。 「お待たせ致しました」 「おしぼり、いっぱいもってきてくださーい!あとね、これ!これを、ちょーだい!!」 マネージャーがオーダーを取る為に卓へやって来ると、私は迷いなくメニュー表をひっつかんで彼の前に提示し、そこに印刷されているシャンパンの一つを指さす。 めちゃくちゃ有名で、漫画やドラマ、映画なんかでも良く聞くそのシャンパン。 でも、種類によっては手軽にオーダー出来る価格のものもあって、たまにはそれらはどこかの卓でおろされたりもする。 それに、最近は他のシャンパンの方が人気だったりするし、あまりオーダーする客やキャストのお姉さんは見かけない。 ただ、メニュー表に一応は載ってはいるけれど、私が入店してから実際にソレを頼んでいるキャストのお姉さんや、指名客はいなかった。 シャンパンの名が並ぶ一覧の、一番下に、高額な値段と共に表記されている、ソレ。 立ち上がったまま、ハイヒールでの小さなジャンプをやめない私は、横で俯いているキヨシくんのことを完全に無視して、メニュー表をマネージャーの前に翳し、満面の笑みで微笑む。 「…かしこまりました。お客様、ご確認頂きたいのですが、お間違いありませんか」 「うそなわけないじゃん!キヨシくん、やくそくしたんだよ!ね!やくそくって、だいじなんだから。キヨシくんは、やぶったり、しないでしょ?」 「…は、い。約束しました。確かに、俺は…うたこちゃんと、約束したんです。…合ってます、それで…」 「お支払いの方法は、いかがなさいますか」 「………」 「…ふ、ふふ、…あははっ、…やだあ!キヨシくんったら、よっちゃったあ?」 「…う、ん、大丈夫、…大丈夫…、大丈夫だよ!」 「どうする?かえりにする?いまから、いってくる?」 「……あ…、えっと?」 「コンビニだよー!ATMあるじゃーん。マネージャー!だれか、ボーイつけてあげて?」 今の私が、ひと昔前のぼったくりのキャバクラで働いていたとしたら、なかなか似合いの姿だったかもしれない。 しかし、この店はぼったくりのキャバクラではなくて、それなりの、普通の、ちゃんとしたキャバクラだったので、マネージャーは私のことを目で諫めた。 少し大人しくしろ、ちゃんと座ってろ、あんまり騒ぐな、と、そう言う表情で私のことを叱った。 でも、でも、でも!だって!すごくない?嬉しくない?やり方は、ダメかもだけど、でも!! 「お客様、失礼ですが、お支払いの際はカードになさいますか?念の為、一旦お預かりすることは出来ますでしょうか」 「…、うん、…はい。俺、…うたこちゃんの言う通り…、コンビニ、行って、…」 「私がついてってあげよっか?さみしいでしょ、キヨシくん」 「…では、こちら一度お預かり致します。うたこさん、一旦奥へ」 「はあい!ちゃーんと、イイコにしてまあす!」 でもね。ちゃんと見張ってますよ、走って店から逃げないように。どっか行かないように。だけど。マネージャー。私、コイツの部屋の場所も知ってるの。 私を殺したやつなんか。地獄に。落ちればいい。 だって私は。コイツのこと。 絶対に、許さない。 ギュウウッ、っと、キヨシくんの腕に自分の腕を絡めると、手の甲に爪を立てた。 体をピッタリとくっつけて、全身で寄りかかると、力が全然入っていないキヨシくんの体ごと傾いてソファに二人して倒れた。 虚脱している、バカじゃないの、じゃあなんであんな賭けに乗ったの、やめとけば良かったじゃん。 もう遅いけど、全部遅いけど、何もかも遅いけど、でもまだ平気かもよ、ここでやめとけば。 「…うたこちゃん、…カッコ悪いとこ、…見せちゃうね…」 「なーに言ってんのお!キヨシくん、きいてね?私はね、キヨシくんがカッコよくても、カッコ悪くても、そんなのきにしないんだよ。どんなキヨシくんでもいいんだよ。キヨシくんが、こうやって私にあいにきてくれるなら。それにキヨシくんはね、すごいんだよ。見てなよ、もうちょっとしたらね、すごいってことが、わかるからね」 「…俺が、すごい…?」 「キヨシくんはね。キヨシくんのままでいいし、そのまんまでいいの。じゅうぶんなんだよ、それでいいんだよ」 まるで私がキヨシくんのことを組み敷いているような状態で、微笑みを浮かべると、両手のひらでその青白くなっている頬を包み込んで、息継ぎをしないでそれだけ言う。 そうやって、私の声を、言葉だけが真実なのだと思い込ませる。 先に起き上がり、両方の二の腕をつかんで起こしてやって、ボーイが持って来て置いて行ってくれたおしぼりで、せっせと洋服の染みを拭いてやる。 それから、マネージャーに言われた通り一旦彼の卓を離れ、厨房へ行くと水をガブ飲みした。 足りますように、足りますように、足りますように、足りますように!! そしたら、面白いことが起こるってわかるんだもん。 私、それが見たいんだもん。 先に行っててよ、奈落の底に。 そしたらまたいつか、傷心でちょろい私が降って来て、あっさりと結ばれるかもしれないよ。
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