宿敵に微笑む

1/1

482人が本棚に入れています
本棚に追加
/609ページ

宿敵に微笑む

細かな内容までしっかりと記された料金表が、きちんと店の入り口にも、フロア内にも、大きく提示してあった。 テーブルの上にだって、メニュースタンドが見えるように置いてあった。 キャッチだって行ってはいないし、自動延長でもない。 メニュー表にだって全てのメニューと料金が、それぞれ誤魔化しようがない、誰でも読めるフォントで記載されていた。 つまりキヨシくんは、客は、何かオーダーをする際には、金額を自分でしっかりと確認することが出来る状況にあった。 私が働いていた店は、そう言う、客にとっては良心的な類のキャバクラだったと言える。 なので、キヨシくんが入れることになったシャンパンだって、そんな、あり得ないほどべらぼうに高額な料金設定をされていたわけではない。 と、思う、多分。 あの時代の、この歓楽街にあるキャバクラの、この店の雰囲気やスタイル、内装やキャスト、接客の質に見合っていると思われる、そんな金額設定であったと思う。 けれど彼は、自分の職種、給料、生活からはかけ離れた金額を、数日間も私に、この店に、つぎ込んでいたのだ。 メニュー表には一応載せてある、と言うだけの、私が指さしたそんなシャンパン。 その横に印刷されていた、三桁に及ぶ金額。 それはただのお飾りのような、この店を少しばかり上等に見せる為のオマケのようなものだったのだと思う。 私が卓を離れている間、どうやら店長がキヨシくんの元へとやって来て、どうしたいかと訊ねたらしい。 キヨシくんは、私との約束を守る、と答えたとのことだった。 店側からの提案により、コンビニのATMへとボーイが付き添うので、足りそうならこのまま店にいるのも、今までの分を支払ってチェックするのも自由だと丁寧に話をしたようだった。 彼の持っていたカード数枚だけでは、このシャンパンを入れて、尚且つ延長をして店に滞在するには足りないようだった。 付き添うボーイにはヒロトくんではなくて、年上で真面目で礼儀正しく見える、そんなもう一人の方のボーイが選ばれた。 いくら貯金を引き出して来たのかは知らない。 それどころか、彼が自分の貯金を引き出したのか、どこかで借りて来たのか、それもどうなのかは知らない。 あの頃は、状態がブラックでも即日電話をかけるだけで借り入れが出来るようなところが、数多く存在していた。 今もあるのかどうかはわからないが、そう言う場所が新宿にはあったし、新宿以外にも存在していた。 そんなキヨシくんは、年上のボーイと共に店に戻って来ると、先に卓に戻され、一人で彼の帰りを待っていた私に何か吹っ切れたような笑顔を見せた。 吹っ切ってしまったのは自分の息の根だと思うのだが、彼にとってはそうではなかったのだろう。 そして、そんな彼は、結局ラストまで店にいたのだ。 もう、明日からは来ることはないだろうと思った。 ううん、それは嘘だ。 本当は、またいつかは来ると思ったし、そう言う風になってしまったのだな、とわかっていた。 もし、この店には来なくなったとしても、彼は味をしめてしまっただろう。 そしてしばらくは抜け出せないのだ。 だって、キヨシくんがなんとか金を工面することが出来た後に、そのシャンパンはちゃんとこの卓へとやって来たのだから。 多少バタついたし、ゴタゴタもしたけれど、私が思った通り「面白いこと」はその後、起こることになった。 私が見たかったのは、私を殺した、人間じゃないと言った、金で買うと言ったコイツの転落する様だ。 立派な、レトロな雰囲気の高貴で上品な印象を持つ黒塗りの箱に入れられて、卓へと届けられた、とても有名なシャンパン。 幾つか種類はあるが、その中でもとても希少価値の高いものだ。 周りはどよめき、歓声を上げてくれるキャストのお姉さんもいたし、拍手をしてくれた人もいた。 フロアがわいて、何名かのどこかの客が、メニュー表を見る為にキャストのお姉さんに頼みボーイを呼ぶ。 キヨシくんはまるで「凄い人」のように、私から、周囲から注目を浴び、そのような扱いを受けた。 彼は驚き、そして照れて、複雑そうに、それでも十分嬉しそうに、そのフロアの反応を楽しんだ。 もちろんだいたいの賛美の声は店側の人間からだけだったと思う。 他の客たちにとっては、年若くて身なりも安っぽい青年が大それたことをしでかしている、騙されやすいのだな、と言った風にしか見えないだろう。 心中では、実際には哀れで可哀想な、キャバ嬢に入れあげて借金を背負う、若気の至りで人生を棒に振った青年のように、ただのバカのように思われていたかもしれない。 一部のキャストのお姉さんや、部長や店長やマネージャーやボーイたちだって、そう思っていたかもしれない。 でも、私はそんな風には思わなかったし、彼は今とても幸せなのだろうなと思った。 キヨシくんはまるで私のようで、そうかなるほど、マネージャーはだから私にあんな風にするのか、と思わせるやつだった。 自分の為に頑張らせることが出来るし、無理をさせることも出来るし、それを好きでやっていて、勝手に破滅して行く。 そして多分彼も、自己肯定感がそんなに高くはなくて、自分に自信を持つことが出来ないでいたのだと思う。 だから、こう言った店での、店側からの人間たちの接し方に心を満たされ、どんどんと沼に沈んでいったのだろう。 ただ、私とマネージャーは、やっていることは似ていたかもしれないが、中身が全然違うのだ。 だから本心などわからないし、真意を、本心を、意図を手繰ることは出来やしない。 それでも、対象が使い勝手の良い、愛しいコマであると言うことに変わりはない。 だからマネージャーは、私のことをイイコだと言うのだろう。 私は、キヨシくんのことを愛しい、イイコだとは思っていなかったが、可愛いやつだなとは思っていた。 バカにした意味での「可愛いやつ」だ。 もう人間ではないので、何も考えなくて良いし、ちょろくって楽だった。 だって、キヨシくんが、私を人間じゃなくても良いと、そう言ったのだから。 「嬉しいなあ、…うたこちゃんが、俺のものになったみたいで…!」 「あはは、なにそれ。どうしたの、この、よっぱらいったら。きょうだってね、ううん、きょうはいつもよりね、キヨシくんはみんなの、このみせの、主役だね」 「…俺が、俺のままでいいって、うたこちゃんが言ってくれて、…こんなに、認められて…ここにいるとね、俺は、変われるんだ…」 「よかったね。すっごいね。サイコーじゃん!」 「…ずっと、ここに居られたら、なあ…」 「いなよ、ねえ、キヨシくんはね、きょうは私のスーパーヒーローみたいなひとだよ!」 そう言う幻想が見られる場所なのだ、ここは。 そう言う風に作られている場所なのだ、ここは。 遊び方を知らない、丁度良いやめ時を知らない、ブレーキとアクセルを踏み間違えてしまう初心者や、情弱でどこか心が飢えている人なんかにとっては。 ハマってしまったら、依存してしまうように出来ている。 高額なシャンパンを入れ、金を使えば、優越感を抱くことが出来るし、愉快で楽しい気持ちにしてもらえる。 自分は凄い人間なのだと錯覚させてくれる。 それに何より、確かに彼は、今日は間違いなく一番だ。 私の頭はくるくるパーになっていたけれど、元々そうだけれど、このシャンパンを入れることが出来ただけでもういい。 決してカッコイイ、質の良い素敵で素晴らしい働きをしたわけではない。 だから、本当だったら誇るべきことじゃないし、キャストとしては恥じるべきことだったかもしれない。 けれど、19歳のこの時の私は、私を殺した相手に復讐が出来たことと、今までで一番高価なシャンパンを手に入れたことで、気分が高揚していた。 キヨシくんのお陰で、彼と同じような幻想を見ることが出来たし、優越感を少しくらいは抱くことが出来た。 なんて酷いキャストなんだろう、と思ったキャストのお姉さんや客もいたかもしれないが、私にはこの日そんなことはどうでも良かった。 自分のことを凄い人間だ、凄いキャストだなどとは到底思えやしない。 あんまりなことをしただろうし、行き過ぎたことをしただろう。 けれど、それでもちょっとした噂になるくらいの、そんな高価なシャンパンをこの店で、自分の指名客の卓でおろすことが出来た。 その日、私はそんなキャストになれた。 あのシャンパンのボトルを入れたキャストがいるらしい、とちょっとした噂になるような、そんなことを達成出来た日だった。 そして人生で一度だけ、客の懐具合を気遣わず無視をして、無茶をさせた悪魔のようなキャストになった日でもあった。 私がもし、キヨシくんの卓で、人間のままでいられたのならば、そんなことはしなかったかもしれない。 けれど、でも。 彼は、自分で言った。 自分で決めた。 私の「値段」を。 私が、人間ではないのだと、そう声高に告げ、購入しようとした。 私を人間じゃなくしたのは、そんな客である、彼の方だった。 ― 死ぬな。 私は、歯を食いしばって微笑む。 マネージャ―が、中村さんが。 私に言ってくれた、その一言を、何度も何度も頭の中で繰り返しながら。
/609ページ

最初のコメントを投稿しよう!

482人が本棚に入れています
本棚に追加