クズ

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クズ

「ねえ、うたこちゃん。俺、明日も会いたい…もう、俺には、うたこちゃんしかいない」 「…ふふ、言ったじゃん、いつでもまってる、って。キヨシくんのこと、私、いつでもまってるよ?いつだって、キヨシくんのこと、想ってる…」 だから、そんな言葉を言ったのだ、私は。 私を金で買おうとした、私を殺した、私を人間だと思ってもいないような人間に。 今や宿敵でしかない、命を狙うべき相手に。 でも、もう、彼の転落は一度見ることが出来た。 だったらもういい。 そしてコイツが、今日と言う日をいつか後悔するとしたらそれはきっと、キャバ嬢に入れあげたことだけなのだろうな、と思った。 人を人間扱いしなかったことだとか、人を金で買おうとしたことだとか、そう言ったことにはまるで気が付かないのだろうな。 そんなことを思った。 コイツはそう言う性格をしている、そう思った。 もう知らない、好きにすればいい、どうぞご自由に、と言った感じだ。 使い捨てなのだから、彼も私も。 同じだから。 違うところと言ったら、それに気づいているのかいないのか、ってところだけだ。 キヨシくんも誰かにずっと褒められたかったんだね、良かったね、いい夢が見られて。 沢山の人たちに歓声を上げてもらえて、拍手してもらえて、凄い人になれて、いい気分が味わえて、良かったね、素敵な夢が見られて。 ありがとう、私を殺したけれど、バースデーイベントでもなんでもない、ただの平日の最高売上げを達成したキャストにしてくれて。 ありがとう、私を殺したけれど、まるで凄いキャストになれたみたいな夢を見せてくれて。 そして、さようなら。 その分に相応しいお返しは、私自身を捧げることにはなりはしないけれど。 それでも精一杯尽くさせてもらうよ。 それがせめてもの私からの最後の恩返しなのだから。 彼がこれからもずっと地獄を見るのだとしても、まともに戻ってコツコツ生きて行くのだとしても、私の心にはずっと残る日になったと思うよ。 ちゃんと本当に嬉しいよ、幸せだよ、人間だと思われてなくても、なんだっていいよ。 私が彼を許さないと言うことは、それだけ幸せな気分を味合わせてあげると言うことなのだから。 今日だけだとしても、明日から二度と会うことなどなくなったとしても。 そのシャンパンのボトルは、黒に近い色に見えた。 けれど、箱から出され、シャンデリアの明かりが透けると、深い緑色をしているのだとわかった。 ラベルは落ち着いた金色で、今まで私が好んで来たピンクの要素はどこにも存在しない。 だって、はじめて私が値段だけを見て選んだものなのだから。 狂ってしまったキヨシくんと、ベロベロに酔っぱらっている私が笑える会話を続ける、そんな卓で、マネージャーが恭しくそれをシャンパングラスへと注ぐ。 二人の前に、それぞれ置かれたシャンパングラスに、小雨が逆さまに降るような、色を反転させた海が流れ込み、静かに水面を揺らした。 クープ型やフルート型のシャンパングラスではなくて、ワイン用のチューリップ型のシャンパングラスが新たに用意されていた。 私がずっと笑顔を作って、甘言をつらつら紡ぎ続けていられたのは、バカ高いシャンパンを手に入れることが出来たからだ。 ほんと、ただそれだけ。 機嫌が良かったから、そうしてやったって言う、ただそれだけのことだった。 味は、もちろん格別に美味しく感じた。 いや、本心から美味しいと感じたと言うのももちろんある。 夜の店でなくとも、購入しようと思ったらかなり値の張る酒であることは間違いないのだから。 さすがだな、私が店でこの酒を飲める機会になど、もう二度と恵まれることはないかもしれない。 それにこのシャンパンは、馬車馬のように必死にボトルをあける為に働き、飲み続けなければならない予定だった、今日の私のことを救ってくれた。 ラストの時間が訪れて、店にいてくれた数少ない指名客に、最高の礼と感謝を全身全霊で伝え、踊り場で手を振り続けた。 明るくなった店内で、精神科医の客に声をかけ揺り起こすと、彼の送りも済ませ、今日はいつもよりもオーダーし過ぎてしまいました、申し訳ありません、と頭を下げて謝罪をした。 けれど彼は何も気にしておらず、そんなのは別に構わない、と言って、わかりにくい微笑みを浮かべるのだった。 いつもと同じだ。 いつもと、同じはずだ。 彼らの姿が見えなくなるまで手を振る、そうするのが私の中での沢山の決めごとの中の一つなのだから、そうする。 最後の送りに選ばれるのは、当然ながらキヨシくんだった。 私は彼にとっては人間ではないようだけれど、それでも「私の値段」であると指定した金額を支払った人だ。 共にいる時間が幸福であり、まるで心を寄せているかのような態度でもって接して、満たされた気持ちになってもらう必要があった。 私はマネージャーの操り人形だけれど、彼も私の操り人形のようだと思った。 だったら、同じようにしてやれば良いのだ、と、マネージャーをお手本にした。 フロアからずっと繋いで来た手を、踊り場で離す。 彼の腰に腕を回して抱きついて顔を見上げ、目を細めて愛しいものを見ているような表情を作る。 「…また、来られるように、するね。うたこちゃん、いつまでも、俺といてくれる…?」 「ふあんなんだね。…そんなことは、かんがえなくて、だいじょうぶなんだよ」 「信じてるよ」 「コドモみたい、キヨシくん。かわいいね、私の方がコドモなのに」 「頼り甲斐がなくて、ごめん…」 「ううん、いっちばん、たよりにしてるよ!だいじょぶ。だいじょぶだよ、もう、だいじょうぶなんだよ」 「…うたこちゃん、…好きだ」 ボロボロになった人の声。 これから先のことを憂いているのだろう。 だから、怖いのだろう。 お先真っ暗かもしれないって感じてるんだろう。 そんな中、何かに縋りつきたいのだろう。 だよね、何か一つ、欲しいよね。 そう言う、救いの光みたいな、形がなくて見えなくても、掴んでおける拠り所ってやつ、あったらいいよね。 そして、きっと私にかけた分のお金の分、自分は報われるべきだと考えているんだよね。 取り戻したいよね、その分の本物の幸福や満足感。 だって、買えると思っていたんでしょう? 金でなんとかなるって考えてたんでしょう? 私の体も心も売ってるって思ってたんでしょう? だったら、望むものが与えられないと、与えられないほどに、躍起になるよね。 残念ながら、普通のキャバクラで売っているものは「接客」なんだよ。 知らなかったの? 多分、しばらくの間、キヨシくんは目をさまさない。 それでももう、これ以上は、私には出来ない。 殺され続けることになるし、私はもう、彼と同類にはなりたくない。 「さよなら、キヨシくん」 他の客との別れと同じように、ずっとその背に向かって手を振り続ける。 彼の姿が見えなくなるまで。 ずっとずっと、まるでここで手を振り続けていると思わせるような、そんな顔をして。 もう来なくてもいいし、来てもいいし、なんでもいいし、どうでもいいけど、今日は本当にありがとう。 この日私は完全に、キヨシくんに対する人間らしい心を滅することが出来た。 彼が店に通ったことに、その為に借金を背負ったことに、真っ暗闇に突き落とされたことに、一切罪悪感を抱かなくても良くなった。 「……野垂れ死ね、クズが」 聞こえるわけなどない、そんな蝶の羽音のような音量で、口内だけで呟いた。 夏と秋の狭間の、ぬるいのに清々しい、寂し気な風が一瞬頬を撫ぜた。 前髪が揺れて形が崩れてしまって、イラッとしてしまう。 鬱陶しいな、もう。 私は、これから叱られまくるのだろう、と考えていた。 さすがに今日は、部長や店長、マネージャーからお小言を食らうだろうと、そう考えていたのだ。 だから、店内に戻る自動ドアの前で少しばかり躊躇っていた。 私は褒められる為だけに生きている。 そうでないと、自己の存在意義を全く感じることが出来ないからだ。 仕方ない、そう言う風に出来ているのだから。 今日はどうにも途中から感情的になり過ぎた。 マネージャ―がなんか意味わからなかったし。 もちろんキヨシくんの卓のことだってそうだし。 やり過ぎたのも、めちゃくちゃしたのも、はしゃぎ散らかしたのも、色々とやらかしてしまったのも、良くなかったと言う自覚があった。 私は物凄く酔っぱらっていて、わけのわからない状態になっていた。 それでも、褒められたかった。 一番はやっぱり、どんなにわけわかんない人になったと言っても、マネージャーから褒められたかった。 疎まれるのは嫌だった。 ― 死ぬな、と、私に言ってくれた人。 だから私は、今日なんとか頑張れたんだ。 キヨシくんにあんな風に言われたって。 あんな風に人間扱いされなくたって。 あんな風にバカにされたって。 あんな風に、金額を決められてしまったって。 殴ったり、リスカしたり、暴れたり、泣き喚いたりしなくて済んだんだ。 私は正気じゃないから、いつだって正気なんかじゃないから、だからキヨシくんに、「ひどいことをいうんだね」って、正論をぶつけられなかった。 それよりも、金を選んだのは、私じゃないか。 じゃあ結局は、私が私の金額を決めたってこと。 つまりは、私が悪いの。 いつだって、私が悪いの。 クズは結局私の方なのだ。 被害者ヅラして生きるのはゴメンだから、だから私が悪い。 そう言うことにして、自分に危害を加えているのは自分なのだと、いつもそう言うことにする。 野垂れ死ぬべきなのは、私だと。 …ダメだ、酔ってるな。 ああでも、ミズキさんが私を待っていると言ったし、急がなくてはならないのだ。 そう思うと、何とか気持ちを立て直すことが出来た。 ふらつく足取りで店内へと恐る恐る進んで、通路を抜ける。 怒鳴られるのか、それとも部長か、店長か、マネージャーに、静かに呼び出されるのか。 怯えながら、泣きそうな気持ちで足を踏み入れたフロア。 そこで私を待ち受けていたのは、思いがけない光景だった。
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