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正しい人
「…そうね、気になるわよね。…ミサさんが入店した頃、彼女にはなかなか指名客が出来なかったのよ」
「え!そうなんですか!?意外です…いやでも私も新人の頃なんか全然指名とれなかったしな…」
「私は、自分が新人の頃にお世話になった、尊敬している先輩キャストの方がいたのよ。その方のようにミサさんに接してあげたかったのね。そう、だから、…結局はただの私の自己満足よ」
ミズキさんは確か、今26歳だとミサから聞いていた。
つまり、彼女が新人だった頃と言うと、6年前とか、もしも18歳で入店したのだとしたら8年前とか、そのくらいの時期に在籍していたキャストのお姉さんなのだろう。
その、尊敬しているキャストのお姉さんが、新人で指名をなかなか得ることが出来なかった、右も左もわからないミサを導いてくれたミズキさんのように、彼女に接してくれていた。
そんな過去が、ミズキさんにもあったと言うことなのだろうか。
語ってくれるミズキさんの口ぶりからは、今はもう既に「ミズキさんが尊敬していたキャストのお姉さん」とやらは、店にはいないと言う事実が窺えた。
もしくは、他店のキャストのお姉さんなのかもしれない。
「どうして、ミサと疎遠になってしまったんですか?ミサは、ミズキさんを尊敬しているけれど、嫌われていると思っていたようです…」
「ミサさんに指名客が出来たからよ。もう、彼女は立派に一人でもやっていけるようになったと考えたから、私は退いただけ。私はあまり、キャストのコたちと仲良しこよしで仕事をするのが得意ではないのよ」
「…そうだったんですね」
どうやら、ミズキさんは一匹狼でやって行くタイプ、と言うだけの話のようだ。
けれど、冷酷な人でもなければ、無慈悲な人でもなくて、ちゃんと人を思い遣る心を持っている。
過去に繋がりのあったミサからの相談を、無下に切り捨てたりするような人ではなかったのだ。
ミサへ指名がえした客のことは、どうでも良いと考えただけなのだろうか。
本当に何の遺恨もないのだろうか。
少しくらいはイラついたりしなかったのだろうか。
「その目、まだ疑問が残っているようね。…客がミサさんを気に入って、そちらへ行くのはどうでも良いわ。選ぶのは客の勝手よ。私にとっては、ミサさんの持つ魅力と同じものを、私に求められる方が困るわ」
「…なるほどです。あの、ミズキさんは、とても合理的な考え方をしていると、そう私は勝手に考えていたんですけど…。ミサに、本当はどう言ってあげたいですか?」
「意味がないから別れなさい、部屋から追い出しなさいと言いたいわね」
「…ですよね。私も、そう言いたいです、本当は」
「わかっているわ。今の彼女には、その言葉は刃にしかならないのでしょう。だから、遠回りにはなるけれど、他の方法を考えたわ。…けれど、成功するとも限らないの。ごめんなさいね」
真正面を見つめて歩みを進めるミズキさんの横顔。
その、泣き黒子のない方の目には、諦めの気配も含まれてはいたけれど、ちゃんとミサのことをなんとかしてやろう、そう考えてくれていると思える、慈愛の光も見て取れた。
ミズキさんは正しい人だったけれど、すごく視野が広くて、度量もあって、とても優しい人だった。
深い迷路に迷い込んで絶望している、自分が以前育ててやったことのある、自分を頼って来てくれた女のコのことを、正論のみで叩き斬って裁いたりしない。
それをしたら、ミサと言う女のコは自滅してしまうような性格をしている。
ちゃんとミサのことを理解してくれていて、最悪の結末は避けなければならない、と考えてくれたようだ。
ミズキさんは、自分とは大きく価値観の異なるミサのような人間が相手でも、悩みの相談を無視したりしなかった。
そんな人間もいると言うことを知っていて、受け止めてくれたのだ。
とにかく、ミサを苦しませている問題を解決しようと、一緒に考えてくれる人だった。
良かった、私一人ではどうにも出来なかった、助かった、彼女はきっと、私みたいに考えナシで、無知で、お手上げ状態になったら押し黙ることしか出来ないような、無責任な人間ではない。
本当に本当に、感謝してもしきれない。
すごいな、私はミズキさんのことを素直に尊敬した。
酔った相手を気遣い、手を繋いでくれるような気安さにもすっかり絆されてしまった。
彼女は、こんなに魅力的で、素晴らしい女性だ。
なんとか、してくれる。
「ミサはもう、ミズキさんの指定した場所で待ってるんですよね?どんな店ですか?」
「そうね、バーと言えば良いのか、スナックと言えば良いのかわからないわ。私はたまに一人でそこに行くのよ。…ふふ、きっと貴女は驚くわね」
「どうしてですか?…あの、高いところですか、高級なお店、なんですか?」
「ちっとも。きっと貴女は、私のことを過大評価し過ぎているわ。それは、ミサさんもよ」
「…どう言うことですか?」
さっきまでの私の賛美は、あっさりと過大評価、と言われてしまう。
ミズキさんと繋いでいる方の手からは、彼女の肌の温度が伝わってくる。
それは温かくて、私たちと、私やミサやマネージャ―と同じ、生きていれば、どんな人間でも持っているぬくもりだ。
そこには、その皮膚の下には。
もしかしたら、人間を生かす為に詰まっている脂肪や臓器や血管や骨なんか以外にも、何か共通点があるのかもしれない。
ミズキさんが道を曲がれば私も曲がり、真っ直ぐに行けば真っ直ぐに行く、そして現れた小道へと足を進める。
何も答えてくれないのかと思っていたら、ここでミズキさんはやっと、可笑しそうに口元を緩めて話はじめる。
「仕方のないこともあるのよ。何でも上手くは行かないし、私にだって決断出来ないことくらい沢山あるわ。それに私は、案外貴女たちと同じで変よ」
「…でも、ミサが…、ミズキさんの言うことだったら、正しい、って…」
「私は正しいことも言えるけれど、だからと言って、私が正しい人間であると言うことの証明にはならないわ」
「そうなんでしょうか?私には、正しいことすらわかりません。正しいことがわかっていると言うだけで、それだけで凄いと思います…」
「ありがとう。もう着くわよ。私が、ミサさんに今してあげられることは、他の依存先になり得る場所を紹介することと、相談に乗ることが出来るような相手を探してあげること。それから、気晴らしに付き合うことくらいよ」
え?
待って?
この看板知ってるよ。
ゴールデン街じゃん。
ミズキさん、こんなとこに来るの?
たまに、一人で?
私は物珍しさに、狭い路地の中心でキョロキョロと周囲を見渡しながらミズキさんに引っ張られながら目的の店へと向かう。
狭い道にはあまり人はいなくて、小さめな低い建物が立ち並び、シャッターが下りている店も結構あった。
そりゃあそうだ、火曜日だし、今はもう真夜中の3時前なのだから。
こんなところで、ヤバイ状態のミサを一人で二時間も待たせてしまったと言うことになる。
こんなところ、などと言ったらミズキさんに失礼にあたってしまうかもしれないけれど、私やミサにとっては未知の世界だったのだ。
チラリとミズキさんの顔を不安そうに見る。
彼女は、そう言ったことを、特に気にしている風でもない。
長屋が立ち並んでいるような、そんな中にある、一つの店。
表面が毛羽だった木で出来ている、飾り気もない簡素な、ミズキさんには見合わないような、小さなドア。
それを、彼女は迷いなく開けた。
私は狼狽えてしまう。
だって、ミズキさんは高価なブランドものの洋服を着てはいるかもしれないが、それでも私服だ。
けれど、私の方は、上に白いボレロを羽織っているとは言え、派手なミニドレス姿なのだから。
店の主人や、先に飲んでいる客などから嫌がられたり、好奇の目で見られたり、何か因縁をつけられたら困るし恐ろしい。
「み、ミズキさん、私なんかが、来てもいいんですか?ここって…」
「平気よ。終電で来るとミサさんが言うから、ここで良く会う客に迎えに行ってやるよう頼んでおいたわ」
「ええ!客ですか!?…ミズキさんの、店の指名のお客さんじゃなくてですか!?」
「違うわ。この店の客よ。名前、…なんだったかしら。ラインしか知らないのよね」
素知らぬ表情でそんなことを言うと、ほとんど灯りのついていない、暗い室内へと先に入って行ってしまう。
そんなあ、…だって怖いとこじゃないの?
歴史なら多少知ってるよ。小説家が通ってたって言うから。調べたことがあったんだよ。
ここ、昔って闇市だったんじゃなかったっけ?
売春街だったんじゃなかったっけ?
スナックっぽいバーの、少し狭い店、って感じの捉え方でいいの?
どんな雰囲気の人たちが飲みに来るの?
どう過ごせば私、迷惑にならないの?
知らなかった世界を知ることは、とても好きだし面白いし楽しいことだ。
興味はあるけれど、でも、だって、ミズキさん、よく来るって本当なの?
今は闇市や売春街なんかじゃないのはわかっていたけれど、なんだか混乱してしまう。
それでもミサが待っている、行かなくては。
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