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真実の匂い
今日は結構な出費になってしまったけれど、常日頃からろくに何も買わない、欲しい物も特にない、行きたい場所もない、そんな私には貯金自体はそこそこあった。
美容院には髪色がアンバランスにならないように頻繁に通う、と言うくらいで、後はタバコ代と酒代くらいしか必要ない。
出勤時に着用する服、ハイヒール各種、店のドレスや合うバッグなど、最低限必要なものを、安物の間に合わせではなくて、長く使えて外さない、なるべく好印象を持ってもらえるブランドで揃えておく。
そうすれば、後は仕事しかしないので、勝手に貯まって行く。
食べたいものもないし、整形は痛そうだから嫌だし、好きな男の顔面以外はどれも同じに見えるのでホスクラに行こうと思ったこともないし、その好きな男は自分に貢げとは言わなかったし。
色々な人たちがブログに載せているような、流行りのカフェのメニューや有名な遊園地、素晴らしい夜景。
人が羨むような豪華な部屋に住むこと、ハイブランドの高価な品物や映える旅行先ではしゃぐこと。
ナイトプールにもネイルにも高級で美味しい食べ物にも。
私は何一つ、ちっとも、なーんにも興味がわかなかった。
そんな私の今日の願いごとは、ちゃんと自分の力で叶えることが出来た。
ミサは店のママやスタッフたちから「姫」と呼ばれ、容姿を褒められたり、スタイルを褒められたり、酔っぱらってノリがいいところも、ちょっとやり過ぎなところも面白いと言われて、こんなコは世界でたった一人だけだと、今日は一緒に飲めて嬉しいと、本当に楽しいと、いっぱいの笑顔を独り占め出来た。
嘘だか営業だか本当だかわからないけれど、沢山の賛辞を受けて、ミサは幸せそうにしていた。
何人かでそれぞれマイクを回して、得意な歌や、好きな歌を歌って、途中から点数が出るように設定して、本格的なカラオケ大会になった。
スタッフの一人、華奢な青い髪の青年は本当に歌が上手かった。
彼はバンドはやっているがボーカルを担当していて、楽器も弾けないし、曲作りなども全く出来ないとのことで、歌う歌も全然ユウくんの演っているような音楽とは方向が違っていた。
ユウくんはギターを担当していたし、曲作りを主に担っていて、重たくて耽美な歌詞を乗せるような音を好むようだと聞いていたからだ。
と、言うわけで、彼はなんとなく私の中でセーフだった。
その後、そう言った話題は、もう一切出て来ることはなかったので、ミサもそのうち彼に対しても態度は普通になって行った。
もう一人の、ガタイの良いスタッフもわりと昭和の歌なんかを入れるので、知っているものも中には多くあった。
それを聴くたびに私は、18歳の頃にスナックで働いていた自分のことを、少し懐かしく想った。
そう言えばマネージャ―も、スナックで働いてたことあるって言ってたっけ。
私は、急に、物凄く、今すぐにでも、好きな人に会いたくなった。
でも、気持ちは迷子のままだった。
マネージャ―、中村さん、颯、あなた、会えなくて、寂しい。
私が歌う番がやって来たので、私はその歌を歌っていた歌手が、その曲を歌う時にやっていた手話も覚えた、昔流行った曲を入れた。
席を立って、フロアの真ん中で、マイクを持っていない左手だけで手話を披露しながら歌ったら、皆が拍手をして喜んでくれた。
点数も高評価が出て気分が良くなって、それからやっぱり、どうしても好きな人の声が聞きたくなった。
「すみません、ライン返して来てもいいですか?って言うか、電話、するかも…」
「いいわよ。電話だったら、一旦外へ出た方がいいわ。ミサさんのことは私が見ているわ、大丈夫よ」
ミズキさんがそう言ってくれる。
横で、自分が歌う番が来るたびに靴のまま椅子の上に立つミサに、いい加減にしなさい、と、呆れ顔で叱りながらサンダルを脱がしてやる、そんな彼女はいつの間にかまるで彼女のお姉ちゃんのようだ。
私は微笑ましく想うと、自分のバックを持って店の出口へ行き、鉄のドアを開けて外に出る。
時間を確認すると6時ちょっと過ぎで、いつの間にかもう朝だった。
焦ってラインを見てみると、もちろん中村さんから約束通り連絡があった。
しかも、何度も送ってくれたようだ。
最初の送信は3時くらい、つまり3時間以上もの間、無視をしてしまっていたと言うことになる。
『店閉めたから帰るけど。うた、どこ行ってんの?4時まではこの辺で待ってるから、帰るなら返事しろなー』
『とりあえず帰るわ。いる場所だけ、連絡しろな』
『飲み過ぎて寝るなよ』
『何かあったら電話して来い、待ってるから』
私は、最後の送信ラインを見た瞬間に、即電話をかけた。
コール音が2回、中村さんは、超早く出た。
私はなんだか色々嬉しくて、彼が声を発する前に話し出す。
「今ねえ!!碧いうさぎ、歌ってましたあ!!」
『なんだその選曲。うた、またなんかキレてんの?』
「会いたいから、歌ったんですよ」
『じゃあ、もう帰って来い』
「…バカ。もっと会いたくなんじゃん、そんなん言われたら」
『おまえら、カラオケにいるのか。いつ帰って来るんだ、うたは。まあ、ずっと待ってるけど』
「うわあああああ!!何言ってんですか!?頭大丈夫ですか!?黙ってください!!私の!運が!減る!!」
『なんだそりゃ。一緒に寝ないのか?』
「一緒に、寝ますけど!そうしたいですけど!…眠かったら、先に寝てて下さい。ミサのことが、心配なんです」
『じゃ、起きてるよ。昼までには帰って来いな。なんか話すんだろ?』
「…そうでした。全部忘れてた。今、二丁目のバー?にいて。ちょっと、状況次第なんですよ。…連絡します、帰る時」
『わかったよ。起きて待っててやるから、ちゃんと帰って来いよ』
やっべえ。
危ねえ。
思わず切っちゃったよ。
「他にはなんにもいらない」ってなるとこだった。
でも、私と中村さんの間には真実なんか存在しないんだから、私は救われなくて、そのうち淋しすぎて死んでしまうわ、ってなるの?
うさぎじゃないけど。
そんな、頭がからっぽなことを考えていた。
鉄で出来た重たいドアの向こうから、ミサがカラオケを歌っている。
その旋律と掠れ切った歌声が流れて来る。
所々、聴き取れるか聴き取れないかの、途切れ途切れの、そんな歌詞を耳が勝手に拾う。
酒を飲みながら、時々マイクに唇を近づけ、またグラスに戻すなんてことをやっているのだろう。
ああ、これ聴いたことある、宇多田ヒカルだっけ。
花束を君に贈ろう、愛しい人、愛しい人。
どんな言葉並べても。
君を讃えるには足りないから。
今日は贈ろう。
涙色の花束を君に。
私は、そんなミサの歌声を聴きながら、その場で中村さんにラインを打つ。
どうしよう、今、話したいことの内容を送ってしまった方が、帰ってからすぐに答えを知ることが出来るのだろうけど。
でも、もしも暗い方に話がいってしまったら、それは良くない。
私のテンションが下がってしまったら、ミサの楽しい時間を壊しかねないし、不安定なメンヘラが二人に増えてしまう。
そうなったら、いくらミズキさんだってさすがに手に余るだろう。
『帰ってから、ちゃんと話します。あと、最後の言葉、嬉しかったです』
酔っぱらっていたので、素直にそんな文章を作って送信してしまう。
だって、「ちゃんと帰って来いよ」、だって。
私の、お家みたい。
帰って来てもいい、私の居場所みたい。
今まで私にはそんな場所、ずっとずっとなかったから。
安心して帰っても良い場所なんて、見つからなかったから。
すごく幸せな気持ちになったんだよ、中村さん。
店の中に戻ろうと思って、スマホをバックに入れた時に、とある事実に気づいた。
ミサのスマホも、鳴っていた。
ブー、ブー、と振動して、これは、一体いつからだったのだろう。
ミサに悪いかな、とも思ったけれど、一応店長や部長からだったら知らせた方が良いだろうと思ったし、ユウくんからだったらそれはそれでどうするか考えなければならない。
電話をかけて来ている相手の名前だけを見てみる。
…ユウくんの方だった。
だよね、そうだよね、でもこのタイミングで?
酷くない?
今ミサは、頑張って元気になろうとしてるとこなんだよ。
邪魔しないでよ。
アンタのせいで、ミサは苦しんでるんだから。
どうしてくれるの、あんなに、ミサのこと泣かせて、しんどい想いをさせて、許せない。
まともにメンケアしろよ、ヒモならそのくらいやって当然だろ。
色々、私が電話に出て怒鳴りつけてやりたいような気持ちになってしまう。
どうしようか、ミサに、知らせるべきだろうか?
それとも、とりあえずミズキさんに相談する?
ミサが歌っている間にそっと耳打ちするくらいだったら、事情を知らせることが出来る。
その後で、相談する機会を作ってくれるかもしれない。
…ミサは、今日、幸せになるって、決めたんだよね?
私は顔を上げると、しっかりしろ、と自分に言い聞かせる。
せめて私は、私はしっかりしていよう、ミズキさんにだけ任せて自分は色ボケしている場合じゃないんだ。
ちゃんと私も、自分の頭で考えないと。
どうしたら良いのか、どうするのが良いのか、ミサがどうしたいのか、今ならどんな選択をするのか。
冷たい金属のドアノブをギュ、っと強く掴んで、ドアを開けて店の中に入る。
ミサはキャッキャと笑って、ガタイの良い方のスタッフの男性と何か話をしている。
その横でミズキさんは、マイクを持っているママに向かって、何か歌って欲しい曲をリクエストしているようだった。
和気あいあいとした雰囲気だし、この調子ならば、ミサも電話に出て「今、忙しいから!」くらいのことが、言えたりしないだろうか。
そんなことは、彼女には出来ないだろうか。
私は、…出来ないと思う。
いっそ、事情をママにも相談してみるのはどうだろう。
様々な経験をして来ているに違いない、そんな人たちばかりだろうと想像出来る。
そんな人の導き出す答えを聞いて、後押しをする手のひらが四つから六つに増えたならば、あるいは、ミサだって勇気が出るかもしれない。
他にも生きて行く道はあるし、彼だけが全てではないかもしれないって。
そんなことを私に言われても全く説得力がないだろうから、手のひらはまあ、やっぱり四つのままかもしれないが。
でも、私の小さな手よりは、大きくて力強い手のひらだろう。
一旦、自分が元いた席へと座り、ミズキさんの肩を叩いて、振り向いた彼女の耳に顔を近づける。
「すみません、ミサのスマホが、ずっと鳴っています。相手は、彼氏です」
「…そう。今の彼女にならば…」
「…いえ、ミサは、…言いなりになると思います」
「…そう、なのね。…………彼女は、嫌がるかもしれないけれど、ここで、皆に意見を聞いてみるのはどうかしら」
「私も、そう思ってました。多分、私とミズキさんに出来ることは、もう、ない」
そうね、と頷いて、ミズキさんはミサへとそのまま、その言葉を伝えたようだ。
ミサは、怯えた表情をする。
― 私は、違和感を覚える。
好きな人から連絡が来ている、なのにあんな顔をするだろうか。
そりゃあ約束を破ってしまったし、一人で遊びに出かけて電話も出ないし、怒られるかも、とは思うだろう。
でも、心配しているのかもしれない、とか、そう言った方の考え方だって出来るはずだ。
「ママ!ちょっと、相談したいことあるんですけど、いいですか?」
私は、ミサの了承を得る前に、歌を歌っていたママに大声で話しかける。
ミズキさんもミサも、そんな私のことを止めなかった。
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