482人が本棚に入れています
本棚に追加
/609ページ
顔面キャッチ
「………うたちゃ、ん…」
「中、はいろ。おいでよ、ミサ。大丈夫だから。みんな、ちゃんといるから」
「…うん」
ダメだ、わからない、なんの感情も乗っていない声だ。
このままドアを開けると、ミサが後ろに転がってしまうので、一旦彼女を立たせる為に私もしゃがんで、少しだけ開いた隙間から腕を伸ばす。
片腕でいけるかどうかわからなかったが、ミサの二の腕を右手のひらで包み込むと、グッと力を入れてなんとか引き上げようとする。
彼女の、腕だけが上がる、上半身が斜めになっただけで、三角座り状態の脚の方はびくともしなかった。
…ダメだ。完全に自分から立つ気がない。いつぞやの自分のようだ。
「立とう、ミサ。みんな待ってるし、歩きたくないなら…おんぶするから」
「…うん、…立つ。…大丈夫。…でも、もう、わかんない…」
「わかんないよね。私も、わかんないことだらけで生きてるよ。一人じゃないよ。わかんないのは、おかしくないよ。私もわかんないの、ね、ミサと一緒だね」
ミサが、体重なんて全部どこかへ行ってしまったんじゃないかと思えるほど、酔ってないんじゃないかと思えるほど、スウ、っと音もなく立つ。
意志の通っていなさそうな自分の手でドアノブを掴むと、開いているスペースを広げた。
あの時に戻ってしまったようだ。
幽霊のようなミサが、フラフラと席へ戻り、カウンターに置いたピンクのバックを自分の膝の上に戻す。
俯いたりしてはいないし、前を向いてはいるけれど、何も見えていない、そんな感じ。
私もすぐにドアを閉めて自分がさっきまでいた席へ腰掛けると、思わずミズキさんがカウンタ―の上で拳の形に組んでいる手に、上から手のひらを乗せた。
あったかい、大丈夫、ミズキさんはミサを見捨てたりしない、そう思いたくて、彼女の温度を確かめたかった。
私一人だけじゃ何も出来ないし、ミサはミズキさんを尊敬していて、正しい人だと信じているのだ。
頼りたくなってしまった、彼女がいるのは心強いと、そう感じていたかった。
「……ユウくん、私と、結婚して…くれるって……」
「そうなのね。その言葉を、ミサさんは真実だと、そう思うことが、出来たかしら?」
「…ううん、だって…約束破ったのは、怒ってるって…すぐ、キレて…」
「怒らせておけばいいのよ。…彼と、喧嘩をしていたの?それとも、仲良くお話をしていただけかしら?」
「…今日スロット行く時、お金沢山あげれば、許してくれるって…それで、仲直りって」
「ちょ、はあ!?…いつも、そうなの?ミサを怒って、金出させてたの!?」
「いつもじゃない!いつもは優しくて、愛してるっていっぱい言ってくれる…!!」
そうだったならば、なんであんなに呆然自失になって、スマホの暗くなった画面を凝視していたのだろう。
結婚してくれる、と言われたのならば、素直に信じ、大喜びするのが普段のミサでないだろうか。
例え金を寄越せと言われたとしても、それは常日頃からそうなのだし、ミサにとっては大きな問題だとは思えない。
本当だ、ママが言っていた通りで、他に何か理由があるのだ。
だって、なんだか、ちぐはぐだもの、…他に何か…そうに違いない。
…彼女を、一番彼に縛り付けておける効果がある、何かが。
「ミサ、話して。本当に、ユウくんと結婚したいの?なんで、あんな顔してたの?嬉しくないの?」
「…嘘かもしれない、って思えた…今日、色んな人の話聞いてたら、おかしいってわかって来た…。でも私、ユウくんが…怖いの…。ユウくんは私を愛していないと、おかしくなるって、だから、愛させていて、って言う」
「…怖いの?…それは、愛していたいけど、愛せない時に、おかしくなるって言う意味だよね?…どう、おかしくなるの?」
ユウくんもメンヘラなのだろうか。
そして、その本質を、奥さんには見せずに生きて行く為に、ミサに依存して、奥さんには頼れない部分や見せられない一面を、ミサには見せている。
それで、なんとかバランスを保っているような、そんな男なのだろうか。
「…放って、おけなくて…。でも、…結婚したら、私もユウくんも、きっと…!」
「でも、結婚するって言う言葉も、嘘だと感じたって言ってたよ?それは…どうして?」
「……機嫌悪いと、…脚を、お腹を、蹴るから…」
「っ!…ミサの、こと…蹴るの?」
「私が悪いから、だから怒られるのは、私がダメなやつだから、正しいことを教える為だから…私のことを、愛して、いたいから…」
そうだ、そう思い込むんだ、自分の為にそうしているのだ、と。
幼い頃に、そう言う扱いを受けて来た人間ならば、尚更そうなのだ。
ミサの過去は知らないけれど、もしも親や周囲の人間から暴力を受けていたのならば、もしくは厳しすぎる躾けを受けて来たのならば、そう言った思考を持つ可能性が高まる。
だって、私はそうだったから。
「…ミサ、それは違うんだよ。ミサ、ねえ、聞いて?」
「でもね!!お金で機嫌直るの!!だから私…店に、出なくちゃ、ならないのに…!だから、働く元気が出ないの、すごく、困ってて…」
そうだ、そう…。
私に助けてとラインして来て、リスカしてて、一緒にカラオケに入った日も、ミサはロングのワンピースを着ていた。
今日だって、珍しくジーパンを履いていた。
脚と、お腹が、きっとそこに出来ているであろう痣や鬱血痕が、見えない服装を選んでいたのだ。
ユウくんは、ミサの心を掴む為に優しくもしたし、愛しているとも言った。
けれどいつの間にか、恐怖でも支配をしはじめて、ただのDVヒモ野郎になっていたのだ。
恋に酔いやすい、陶酔しやすい彼女の性質を考えれば、暴力を振るわれた後で泣きながら謝罪されたり、悪かったと言って優しくされれば、そのギャップで余計に偽物の愛を感じてしまうかもしれない。
自己肯定感の低い人間からしたら、怒鳴られたり酷い目に合った場合は、自分が悪いから、自分が至らなかったから、だから相手が怒ったのだと考えてしまう。
だから、余計に尽くそうとするし、そんな行為をさせないように、彼の理想の人間になろうとして求められるものを差し出し続ける。
ただただ、認めて欲しくて、褒めて欲しくて、くたびれ果てるまで足掻くのだ。
そんなミサにとって、彼女の頑張りが報われる、ユウくんが満足して満たされてくれた、と感じられる、そんな証拠が得られるものが「結婚」だったのだろう。
「…ごめんなさい、…もう、我慢が、出来そうにないわ」
「ミズキさん…!待ってください、ミサは…」
「彼は、性根が腐っているわ」
「……くさって、…」
「ミサさんは、そんな扱いを受けなくても良いのよ。貴女は人間なのよ。愛を利用して、一人の人間を自分の好き勝手にして、食いものにするような男は、ミサさんには似合わないわ。どんなに愛の言葉を重ねているのだとしても、私から見れば、それは偽物だわ」
「……にせもの…?」
ミズキさんは、ここであと一押しすれば、ミサは正気に戻るかもしれない、と思ったのだろう。
そうじゃなければ、彼女はそんな強い言葉をわざわざ選ばなかったと思うのだ。
― でも、それは。
「私は貴方の奴隷じゃない、って、言ってやればいいのよ」
「ミズキさん!!もうダメですっ!!」
「……ど、れい………」
― ミサは、ミズキさんの言うことは、正しいと思っている。
その口から告げられる言葉は、全て正しいことなのだと、そう信じている。
真実を言われているのだと、そう受け取ってしまうのだ。
「ミズキさんっ!ミサのバックっ!!こっちに投げてっっっ!!!」
「え、…?」
私がそう叫ぶと、ミズキさんではなくて、ミサの向かい側で黙って話を聞き流しているフリをしてくれていた、ガタイの良いスタッフの男性の方が素早く動く。
カウンタ―に身を乗り出して、ミサのバックを、太くて力強い大きな手で鷲掴み、後ろへ振りかぶって、私に向かってぶん投げた。
ミサは、か細い両腕でそのバックを抱きかかえるようにして一瞬抗ったが、性別が男性である、その人の力に敵うわけなどない。
大き目のピンクのバックはフルスピードで短い間だけ宙を駆け、私の顔面を覆い尽くすと、バシンッ!!と派手な音を立てた。
私は、鼻と額に衝撃を受け、思わず小声で呻く。
そして、そのままボトリと私の膝の上に落ちたピンクのバックを両腕で慌てて掻き抱く。
「…だめっ!ミサ!!しっかりしてっ!!大丈夫!!大丈夫だから!!」
「…結婚して、くれるって…あいしてる、って…私の、こと…偽物?…私、ずっと、奴隷だったの?」
「違う!!そうじゃない!!そう言う意味じゃない、ミサ!!」
「……う、うっ、あ、…やだああああああああっ!!!!!!」
「…うたこ、さん?」
「ミズキさん、すみません。大丈夫です、大丈夫なんです。…こんなの、よくあること…だから…」
「う、…うっ…うええ、あああああん!!うそ、うそっ!!うああああんっ!!」
先ほどまで触れていたミズキさんの、拳は、今は小刻みに震えていた。
ユウくんに対する怒りからなのか、ミサの今の有り様を見て驚いているからなのか、それはわからなかった。
ママや、二名のスタッフは何も言わず、けれど追い出そうとすることもなく、閉店の準備をはじめた。
帰れ、と言われるのだろうか、と思った。
けれどママは、私に向かってウィンクをする。
「静かに、私たちだけで、秘密のお話をしましょうね~」
明るい声でそう言って微笑み、カウンターを出て行くとドアの鍵を閉めた。
最初のコメントを投稿しよう!