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有終の美
「…ママ、私、楽しくないの、もう嫌なの…楽しくないと生きてる意味ないの…」
「その考えだと、別れて楽しいことしなさい~!しか、言えることはないわ~
~」
「…なんで、離れられないのか、わかんないの…」
「ん~彼はあんたを一瞬は楽しい気持ちにするのかもしれないわね~。でも、一瞬よ~。すぐにどん底に落とすから、その落差で感情が揺れて、ドキドキハラハラするから、楽しいような気がしてるだけね~」
「ああ、なんか、めっちゃわかりますね、それ。落差たまんないんですよね」
「…そう言うものなの?私は安定していたいし、感情が大きく揺れるのは恐ろしいわ。なるべく、避けているのよ。本当の私は、とても怖がりよ」
困ったような表情で微笑みながらそう言うミズキさんを見て、そうなのかも、だからミサを避けていたのかも、なんて思う。
ミズキさんには、そう言った生き方が合っていると本人が決めたのだろう。
それを実現させるだけの良識や常識を持ち合わせているけれど、だからと言って他の人の思考や価値観を無視したりもせず理解しようとしてくれる。
懐が広いけれど、まだ26歳で知らないことも多い、私たちと同じ女のコなのだ。
「自分がどうしたいか、がメンヘラ行為に向かうのは、これ以上先を見たくないからよね~?」
「…うん。もう、私の望み通りにはならない、何にも元には戻らない、って…本当はわかってる…だから…」
勢いで何かやらかして、救急車を呼ばれ、生きていればそのまま精神科に入院してぼんやり暮らそう、とでも思ったのだろう。
…そこまで別のルートを考えられていたかは、まあ、わからないけれど。
これ以上この先に起こるであろう、予想出来る道は、全て自分にとっては選び難い、どれもこれも嫌なものしか用意されていない。
そう知った時、私たちはすぐに逃げ出してしまいたくなる。
ODでもリスカでもなんでもいい、死ぬっぽく感じることをやって、逃避して、実際には死ななくても一度自分をリセットしようとする。
「いい~?酔った勢いでもなんでもいいから別れなさい~。ミサ、姫は、死ぬ真似ごとなんかするくらい情熱的な女なんでしょ~。ただのDVヒモ不倫男の手には負えないわよ~」
「……ユウくんは、メンヘラ慣れてるからって、何しても、ちゃんと愛してるって…」
「口だけよ~。お似合いではあるけどね~!でもね、彼を正せないからと言って、同レベルまで自分を落とすなんてこと、まずやめなさい~」
確かにある意味お似合いで、はたから見ていたら、ただのドラマや漫画だったならば、クズ同士お似合いって感じに見えるのだろう。
ミサのこの恋愛の中に、誰かの感動を生むようなシーンや、気持ちを大きく動かすことが出来る場面など一つもないのかもしれない。
そもそも、そんなことを考えて恋愛をする人などいないだろうし、ドラマチックに感じる感性だって人それぞれだ。
誰が何と言おうとも、きっと彼女にとっては最低で最高の一時だったのだから、もうそれで良いのだ。
「それとね~、知るまでは騙されてた、って言えるけど~。知ってて付き合い続けると慰謝料払わされたりするわよ~。バカみたいじゃない~?付き合ってても金かかって、いざとなっても金かかって~、結婚なんかしたらずっと幸せなんかじゃないのよ~?」
ただ、これは物語ではなくて現実なのだから、映えるような演出など何一つ必要ない。
「酔って帰って暴れてさ~!蹴られて来た分を倍返しで蹴り返してやんなさいよ~!」
ママがニコニコとしてそう言うと、ミサは人差し指で下唇に触れて、そんなクライマックスを想像していたようだった。
そうして、ふ、っと、やっと儚げな、それでも穏やかに口元を緩めて微笑んだ。
「…そう、ですね。私、…あんま先のこと考えるの、上手くないし。無理だし。だったら、いっか!今やっちゃいたいこと、やっちゃっても!」
だいたいが、ろくな方へは行かない、そんな唯一の特技を私たちは持っている。
衝動的に、ぶっ壊す、一瞬で、何もかもを。
あるいは大切なものを、あるいは大きな獲物を、あるいは今までの価値観さえも。
もしかしたら、人生をも。
でもそれは命のことではなくて、命さえあれば、人は再生出来るチャンスがある。
ミサは、命懸けで彼を愛していたかもしれないが、彼が彼女の命そのものではない。
失った後で、周りに再び息を吹き返す為に必要な状況や環境を用意しておけば良い。
しばらくは屍のようになるかもしれないけれど、体は勝手に生きようとする。
皮膚の下で血は流れ続けるし、心臓は脈打つのをやめないし、肺は酸素を求める。
そう言う風に出来ているのだから。
それは絶望的で、けれど何物にも代えがたい、美しくて純粋で当然の現象。
だって、体の方は嫌になるくらい、健康なのだから。
「…有終の美なんて、無理に飾り立てたりしなくていいわ。ミサさん、貴女は強いわよ」
「ミサは綺麗だし、可愛いし、ちょっとおかしいとこも、愛してくれる人、いるって!」
「今回は、愛される努力の仕方を間違えただけよ。何度だって、愛されるわ」
「ま~無責任発言連発ねえ~!」
「ママが真面目な話、ちゃんとしてくれたし!後は、モブの戯言ですよ!」
夢見がちなのは楽しいし、不幸そうな現実に浸るのだって得意だけれど、それだけじゃない。
本来のミサを、多分ユウくんは知らなくて、それは彼女がひた隠しにして来たからなのだと思う。
見せないように、嫌われたくないから、自分の思い描く、彼の好きそうな女を、ずっとずっとやって来たのだろう。
なんとなくだけれどそんな気がする、そしてそれは、ミサの無意識の癖なのだろう。
でもね、もうそれは、やんなくていいんだよ、ミサ。
「いいじゃないっすか、刺したって。ちょっとだけ、有名人になれるんじゃないっすかね」
「言いたかったこと全部言って、スッキリしたらいいと思いますよ!」
「とにかく~!別れたいなら別れて、別れたくないなら耐える~!!耐えられなくなったんだったら、いいんじゃない~?頭くらい、おかしくなったって~!」
適当なことを、無責任なことを、ミサのことを考えもせずに言うけど、それはミサのことを考えているからだ。
私たち外野の声は全部彼女にとってはただのBGMでしかない。
ミサの中ではミサだけが主役で、ミサはここでほぼ決まってしまっているストーリーの、起承転結の、転、の部分に手を加えることが出来る。
ただ、その後に待つ、エンディングだけはどうなるのかわからない。
それでも変わらないことと言えば、彼女は結局、どんな状態になったって死にやしないだろうと言うことだ。
「……私…どこが、好きだったんだろう…楽しくないの、もうやだった…ずっと、嫌だった…!」
「私は、待ってるよ!ミサ、元気になって、毎日楽しくしようよ!金が欲しくて彼女蹴るやつより、どんなに神経使たって、色々求められたって、金くれる客の方がまだいいよ。それに、ミサはもう出会ってるって、さっき占いで言われたじゃん。愛してくれる人と!」
「正しい方が良いと言うのならば、ミサさん、…一般論だけれども、彼の愛し方は普通ではないし、正しいとは言えないわ」
カウンタ―に置いてある、ミサのスマホがたまに鳴って、振動音を響かせているけれど、もう誰もそのことを気にしたりしない。
ミサ本人でさえ、目を向けることさえなく、まさに放置、どこまでも無視、それでいいんだ。
それがいいんだ、そうなって欲しかった、綺麗さっぱり存在を消してしまおう。
言ったじゃん、一緒に埋めてあげるって。
ほら、今離れたのだ、彼女は何かに気づいたし、本当に今日が記念日になるのかもしれない、そんな予感でいっぱいになる。
けれど、そうなるとしても、ならないとしても、私とミズキさんの出費も、沢山の新しい出会いも、尽くした時間も、言葉や気遣いも、何もかも無駄になんてならない。
「すぐに復帰は出来なくても、ミサに会いたがってる人は、ちゃんといるよ」
「……うん。私、皆に、全然返事してない…。したいな、また、店で、楽しく笑いたいな…」
「店以外でだって笑いなさい。好きな時に好きな場所に行きなさい。自分で稼いだお金は自分の為に使いなさい。自分を幸せにする為に使って良いのよ。ミサさん、…私が言うのも変だけれど、自分をもっと愛せるようになると、良いわね」
たおやかなミズキさんの歌うような声、その最後の一言に、ミサの片目からポロリと大粒の涙が生まれる。
それはポタっと溢れ、彼女の着ていたチュニックブラウスの紫の一部分を濃くする。
その様子が、とても美しく思えた。
はじめは小ぶりだった、いつの間にか大雨になった。
深紫の水たまりはどんどん大きくなって、彼女の膝に二つの抽象的な模様を作る。
きっと人は、一度の人生の中で何度も死ぬ。
そして、そのたびに、何度だって地の底を蹴って立ち上がる。
命ある限り。
私はその日、人が生まれ変わる時に現れる一つの色を、この目で見て、心ㇸと焼き付けた。
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