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不具合を抱えて
櫛を仕舞いに洗面所へ行っていた中村さんが戻って来る。
もはや当たり前になった光景で、何の違和感もない。
この部屋にいれば、隣には必ず彼が来てくれると言うこんな日々。
何故だろう。
そのことに口元は勝手にニヤつくと言うのに、胸がチクリと痛むのだ。
中村さんは、私の隣にあぐらをかいて座り込むと、焼酎をグラスに注ぐ。
寝る寸前まで、ずっと飲むんだよな、この人ってば。
あのミネラルウォーターは、全て私のものなのだろう。
私も酒に弱いわけではないが、それは、量が飲めて二日酔いにはならない、と言うだけで、そこそこ飲めばただの酔っぱらいにはなる。
だから実際は酒に強いわけではなくて、うわばみなのだろうと思う。
結局酒に倒されている、酒でバカを見てる、多分そう、私はヤマタノオロチの方だ。
簡単に説明をすると、ヤマタノオロチ、つまりうわばみを倒す作戦に用いられたのは酒、と言う話だ。
八塩折之酒と言う強い酒を、スサノオと言う高天原を追放された神様が八つの樽に分けて注いでおく。
そして垣根を作り、その垣根に八つの門を作り、その門ごとに八つの棚を置き、その棚ごとに一つずつ八つの酒樽、つまり酒を設置した。
ヤマタノオロチは喜んだとか、嬉しそうにしただとか、私が読んだ本にはそのような描写は見られなかったので、酒が好きだったのかどうかはわからない。
けれど、それぞれの八つの頭を八つの門に突っ込んで、酒樽の中から八塩折之酒を飲んだのだ。
で、まあ、結局酔っぱらって寝てしまい、スサノオに剣で斬られて退治されてしまうと言う、そんな神話がある。
だから、私はきっといつか酒で死ぬのかもしれない。
それに引き換え、中村さんの方は、酒でフラフラになっていたり、泥酔して寝てしまう、なんて言う姿は見たことがない。
テンションが高そうだな、と思う時はたまにあるけれど。
「…充電器借りますね。ナナさんと、ユウキさんからライン来てる。…あの、昨日、何かあったんですか?」
「ライン、どんなん?ナナか?見せなくていいから、適当でいいから、様子どうなの」
「あー、えっと、焦ってる?のかな。大まかに言うと、キヨシくんを下さいって。自分の指名にしたいって。お願い?…なのかな?」
「あの客、もう店来れないだろ。金銭的に。ナナって、あの客のライン知ってるの?」
「さあ…でも、ブログでは繋がってるんで。やりとりは出来ますね。って言うか私もだった。キヨシくんのフォロー外そう…」
慌てて私はブログのアプリをタップすると、自分をフォローしてくれている人たちの中から、キヨシくんのアイコンを探す。
けれど、おかしい、見つからないのだ。
確か、エンジェルのボトルの写メにした、と言っていなかっただろうか?
酔っぱらいまくっていたとは言え、しっかりとこの目で、私も確認したはずなのだけれど。
「あのキヨシってやつが、ナナに指名がえするのはいいんじゃないか。うた、もうあいつ、いらないだろ。あの客だって、ナナに飲ますくらいは、なんとか出来るんじゃないの」
「それは大賛成です。キヨシくんがそれを望めばいいんですけど。…ブログもだけど…ナナさんやっぱり、辛そうじゃないですか?」
「…あー、多分、団体客の中で、押し付け合いされたのがショックだったのかもしれないけど。…気づいてなさそうだったけどな、本人は」
「そんなことがあったんですか?…私も、されたことある、哀しかった」
「おまえが?何か、客のこと怒らせたのか?」
違うんですよ、中村さん。
私がまだ店に入ったばかりの、新人だった頃の話なんですけどね。
フリーの団体客が来店して、私はその中で割と態度が大きい方につけられたんです。
その時に、その客が私の容姿、体型、着ているドレス、全身を上から下までチェックして、人を傷つけている自覚なんてこれっぽっちもないような、キャバ嬢の心なんて気にもかけていないような、そんな一言を平気で吐いたんです。
「いや、別にいいですけれど、金を支払っているわけですから、こちらは商品ですもんね」
「商品でもあるけど、生身だろ。何だ、キレたわけ?」
「私は、その場ではキレたり出来ないし、泣いたり出来ないんですよ。自分がツラいと感じている、と言うことに気づくのが物凄く遅いです」
「で?何言われたんだ、うたは」
そんなことくらいで?って、思うかもしれないんですけど、私は一瞬何が何だかわからなくて。
その客は、私のことを、一緒に来店していた他の客についていたキャストのお姉さんと交換してくれよ、って言ったんですね。
それだけだったなら、ああ、私の見た目が好みじゃなかったんだな、って、納得して別に気にしなかったと思います。
「でも、…脚の形が好きじゃない、奇形みたいで気色悪い、内また歩きだし、ぶりっ子嫌いだから。って言ったんです。だから、そっちのコがいい、って言って、他のキャストのお姉さんと席の入れかわりをさせられたんです」
「ほー。ああ、それでうたは、自分の脚を見せるのが嫌になったのか。昔はミニも着てたのか。最近まで、自分で脚の形に自信ないって言って、ずっとロングドレス着てた理由って、それだったのか」
「そうですね。私、双子なんです。双子にしては大きかったんですね。でも母は背が、体が小さい人で。多分お腹の中が窮屈だったのか、脚が内側に変形して生まれて来たんです」
「そうなの?全然わかんないけど。真っ直ぐに見えるし、歩けてるよな」
母は、とても心を痛めて、心配をして、赤ちゃんだった私を沢山の整形外科に連れて行ったんです。
小学生になるまで、私の脚はおかしくて、上手く歩くことが出来ずによく転んでいましたし、走ることも苦手でした。
けれど、奇形と言うわけでもなくて、体の成長と共に、脚の形も徐々に普通の人と同じような形へと変化して行ったんです。
毎日毎日、母は幼い私の脚を引っ張って、真っ直ぐになるように引っ張って、けれど父は私や妹に正座を強いる人で。
だから母はこっそりと、父が見ていないところで私の脚を力任せに、時間が許す限り引っ張り続けたんです。
私は、泣いて暴れて、身を捩って逃れようとしていたことしか覚えていません。
でも、母は、やめませんでした。
それは、きっと愛ですよね?
障害者の親なんて嫌だ、見栄えが悪いし自分が不幸な母親のように見られるのは耐えられない、だとか、そんなんじゃないですよね?
きっと、ちゃんと、愛していたからですよね?
なんて…ごめんなさい。
「めっちゃ話が逸れました。私のことはいいんです。ナナさんはなんで、たらい回しになったんですか?」
「…うた、おまえの脚は別に変じゃないし、母親がやってたことだって、うたが苦労しないように、必死で、せめて自分が出来ることを探して、祈るような気持ちでやってたことだと、俺は思うけど」
「……もう。いいんです。だから、すみませんでしたってば。私の話は、いいんです。…でも、ありがとうございます」
さて、話しをナナさんのことへ戻そう、と思いきや、中村さんが私の体を抱き締めて来る。
えっと、今私、股をティッシュでおさえてる、色気も可愛げも何もない女なんですけど。
ティッシュを捨てる為に、長い腕で囲まれた小さな空間でゴシゴシとその部位を擦って拭いて、横にズラしていたパンツの布地部分で覆う。
なんとなく汚れている手で背中にしがみつくのは悪いような気がして、丸めたティッシュを持っている方の手は外側に向けて、一応は両腕を回す。
本当は、ありがとうって言う気持ちの分、強く強く、力を込めて両腕で思い切り抱き締めたかったけれど、うん、だって、もういいから。
中村さんが私から体を離すと、唇に触れるだけのキスをしてくれた。
意味はよくわからないけれど、親の話とかに弱いのだろうか、ぶん殴られて蹴られまくって怒鳴られまくって自尊心削られまくってました、とか、絶対バレないようにしよう。
同情で一緒にいらるのは楽しくないし、出来れば中村さんには、私は不幸なやつだと思われたくなかった。
それに、本当に私は、不幸だったわけではないのだから、そんな話はイチイチしなくて良いのだ。
私はちゃんと幸せだったはずだ、そうなのだ、だって今、生きているし。
気分を変えて、ナナさんのラインに返事を送ると、ユウキさんのライン画面に変え、やりとりの続きの文章を考える。
「…ナナは、いつもと同じだ。最初はいいんだ、ちゃんと最低限の接客は出来るし、会話だって多少ちぐはぐでも、明るいヤツだから乗り切れる。ただ、自分の名刺を渡した後に、ついてた客が名刺をくれなかったらしいんだ。そんなの、良くあることだろ。でも、強請ったんだと」
「うーん、名刺、集めてるんですかね?名刺ってそんなに重要なんでしょうか」
「人によるだろうけどな。キャストにせよ、客にせよ。ま、会社知られたくないとか、名刺持ってないやつだっているだろうし。で、その客はラインなら教えるって言って、ナナもラインの交換までは出来たんだと」
「じゃあ、営業をかけられる状態には持って行けたんですね」
「その後だな。出会えた記念だから、素敵な写真を一緒に撮りたいだのなんだの言って、まあ…シャンパンをオーダーしてもらおうとしたらしくてな」
「……それで、なんだこのキャスト、ってなったんですか?うーん、時間帯によりませんか?もう、ナナさんもお客さんの方も結構酔っぱらっていて、って言うような状況の時だったら…別にそのくらいは…」
「いや、オープンしてすぐだよ。それと、ナナには合ってないな、ああ言うセリフでオーダー取らせようとするのは。で、はじめはさ、このコ面白いから、って。客の方も気を使った言い方して、他のキャストと入れ替えてたんだけど、どの客と話してもシャンパン強請ってたみたいでな。あだ名つけられてたわ、シャンパンちゃんがいるから、本物はなくてもじゅうぶんだよ、ってな」
例えそうだとしても、やりようではなんとかなる場合もありそうだが。
いや、そもそも、こんな状況になったこともないし、団体客の雰囲気もわからないからなんとも言えないが。
私、シャンパンちゃんだから、飲まないとエネルギー切れて寝ちゃう!とか、不思議ちゃんキャラ無理やり演じたりして。
強引かもしれないけど、一番金を持っていそうな客に自分が回されたと察せたならば、腕を組んだりして、多少は女の武器とやらを使って、シャンパンちゃんなのに、みんながシャンパン飲ませてくれません!えーん、なんて、可愛い子ぶって…。
どうにか、遠回しに「貴方ならそんなことしないよね」って、匂わせてみるだとか。
まあ、ハッキリ言ってどれも無茶苦茶だし、チェンジされなかっただけマシ案件だとしか言えないが。
もしも指名客の卓だったならば、もしも客の方も結構酔っぱらっていたならば、もしもその団体客たちの目的が、そうやって騒がしくパーッと飲むことだったのならば。
そうか、空気が読めない、と言うか、自分のついた客のタイプを見極められないと言うことなのだろうか。
で、キヨシくんならば、なんだか沢山シャンパンを入れていたし、同じ方法でも成功していたはずだ、と考えたのだろうか。
「…あ、ナナさんから返事…。って言うかその前に、ユウキさんがどこ行きたいのって聞いてくれてるんですけど、私はどこに行きたいんでしょうかね??」
「ユウキさんは、普通の居酒屋でも、バーでも、お高いレストランでも、ファミレスでも、買い物でも、どこでもいいって言うよ。ただ、うたが居やすい場所を伝えればいいだけ」
「そうなんだ…どうりでミサが、楽チンって言ってたはずだ。じゃあ、本当に居酒屋でいいかな。居酒屋さんで、ゆっくりお話ししませんか、でいいかな。うん。ナナさんは…ああ、ううう…そう、かあ…」
「はははは、わかるよ。ナナの返信って、トンチンカンだろ?最初は俺の文章がわかりにくいのかとか、俺も悩んだんだよ」
「…はい。まさか、通じないとは。これ、電話とかで話した方がまだマシなんですかね…?」
ガックリと項垂れてしまう。
どうしたら良いのだろうか。
ナナさんは、もはや、クビ待ちと言う状態なのだろうか。
そうなのだろう。
もしくは、自分から店を辞めるのを、部長や店長は待っているのだろう、と言っても過言ではないかもしれない。
でも、あんなに良いコなのに、すごく素直で頑張っていて、私にだって優しくしてくれたのに。
ただ、何かがおかしくて、上手く嚙み合わない、読解力なのかそれとももっと他の能力なのか、何か足りていないものがある。
まるで、生まれつきなのかと思えてしまうそれ。
例えば私の脚、からかわれて、気持ちが悪いと言われて、怪我を何度も負って来たこの不具合。
そんなのと、似ているのかもしれない。
彼女が店を辞めてしまうのは寂しいなと感じるけれど、私に出来ることなどないと、観念してしまいそうになる。
そんな返事を食らった。
そのくらい衝撃を受けた、ナナさんからの返事ってやつ。
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