白い胡蝶蘭

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白い胡蝶蘭

中村さんの選んでくれたドレスワンピを着ると、今日は濃いピンクのバックの方へと必要なものを入れ替える。 最後の煙草を吸いながら、スマホを充電器から外すとナナさんに短い返信を送る。 今日は確か、彼女は出勤予定ではないと言っていたような気がする。 まあ、ただ寝落ちする前に盗み聞きした中村さんとナナさんの電話から得た情報でしかなかったのだが。 『ブログ、よかったですね!恋愛相談はいいですけど、店の男性スタッフと付き合っていることは、秘密にした方が良いですよ。どうしたら一緒にいられるかは、彼氏さんの頑張りと、ナナさんがもうちょっとお店に貢献出来るキャストになれば問題ないと思います。でも、どちらが正しいのかはわかりません。本当ならば、店を変えるべきなのかも。仕事に行って来ますね!また、会った時にお話出来たら嬉しいです』 そろそろ中村さんの部屋を出よう。 下のコンビニで、傘と、彼とお揃いの銘柄の煙草を買わなければならない。 ユウキさんは仕事の合間合間に返信をしているようで、なかなかラインのやりとりが区切りの良いところまで終わらない。 とりあえず場所は新宿にしよう、と言うことだけは決まっているのだし、行くだけ行っておこうと考えていた。 それにしても、中村さんってこう言う服が好きだったんだ。 いや、そうとは限らないのだけど。 店で着るようなワンピースの何着かの中では、まあコレかな、と言うだけで、本来は全く違うジャンルの服装が好みなのかもしれないし。 でも、中村さんが良いと思ってくれた服を着ていると言うだけで、なんだか嬉しいし、力が湧いてくる。 それは、真っ白なキャミワンピのように見える、セットアップのツーピースのフレアドレスだった。 胸元には繊細で細かいキラキラとしたビジューとパールがあしらってあり、スカートの方は太ももの下の方でフリルになっていて、ふんわり広がって可憐な印象だ。 シンプルだけれど、全体に花柄の淡いピンクのレースが重ねてあり、可愛らしくもあり、高級感もありって感じのAラインのドレスワンピ。 腕の方も、そのレースがきちんとオフショルのデザインで手首までピタリと覆って隠してくれているし、文句なしだ。 ここのところ毎日タクシーに乗っているけれど、今日もタクシーでいいや、と考えて上着は羽織らず、そのまま部屋を出る。 白いハイヒールを履いてドアを開けると、まだ雨は降っていなかった。 濃いピンクのバックから、これまたピンクの亀のキーホルダーを取り出すと、鍵を閉めて、両手のひらで包み込んで一旦ギュっとしてその拳におでこをあてる。 ― 今日も、ここに帰って来ていいんだよね、じゃあ明日も?っては、考えない。 自分に言い聞かせると、それをすぐにバックに仕舞って、ハイヒールのカカトの音を聞きながらエレベーターへと向かう。 甘い甘い夢を見させてもらって、ひたすら頑張って働く。 私はそれでいいの、何か未来を願うのは怖いの。きっと何にも上手く行きやしないんだから。 いつだってそうだったような気がするし、何回も打ちのめされて来たような気がするから。 考えたり、しない。 コンビニに寄ったのに、煙草しか買わなかった。 それはわざとだった。 私もどしゃ降りの中、濡れて帰るのがお似合い。 それでいいと思った。 一緒だね、濡れ鼠。 ― あの時、もしも雨が降っていなかったら、もしもやんでいたら。 タクシーで店に向かっている間に、ユウキさんからラインが届いた。 連絡遅くなってごめんね、待ち合わせ場所は決めてくれて大丈夫だよ、と言ったものだった。 どうやら、お店の方は決めてくれたようだ。 新宿のどこかの居酒屋、と言うことになるのだろうと考えて、落ち合うのに良い目印になるところなんかあっただろうか、と少し考える。 『ユウキさん、お仕事お疲れ様です。一緒に行く居酒屋さんの近くにしませんか?良かったら、お店の名前を教えて下さい。どちらかが早めに着いてしまっても、中で待っていられますし。ユウキさんが、どんなお店を選んで下さったのかも知りたいです』 こんな感じで大丈夫だろうか。 元はミサの指名客だし、酒を沢山飲んで感情豊かに自由奔放に楽しそうにして見せれば、彼は喜んでくれるのだろうと思う。 場内を入れてもらっていた時は、本当にいつもとにかくボトルをあけていて、私は飲みまくっていたと言う記憶しかないのだ。 正気の私で会うのは、どうしても緊張してしまう。 だからと言って、どこかで一杯ひっかけてから…と言うわけにもいかない。 『うたこちゃん、居酒屋さんならどんなとこでもいいの?一応個室をとったけど、入りやすい雰囲気のとこにしたから。地図も送っておくね。店から遠くないから迷わないとは思うけど。着いたら連絡するから、うたこちゃんも連絡してね』 『ありがとうございます!了解です!素面でお会いするのはじめてですよね?私、飲まないと本当につまらない女なので、ガッカリしないで下さいね』 何度かラインをユウキさんと送り合っている間に、タクシーは目的地へと着き、私は財布から五千円札を出すと運転手に支払いをする。 釣りを受け取って、ご苦労様でした、と言うと頭を下げる。 しかし、運転手はすぐにはドアを開けず、ミラーにはニコニコと人の良さそうな顔が写っている。 「あの…」 「うん、やっぱりそうだ。君だ」 運転手は、こちらを振り向くと私に言った。 「この間も、君を乗せたんだよ。おじさんのこと、覚えてないかな」 「え、そう…ですか?申し訳ないです、ちょっとわからないです…」 「泣いてたんだよ、その時は、君」 「…!!もしかして、朝ですか?西武線の、小さな駅で…」 「そう!いやあ、元気になったみたいで良かったよ。偶然ってすごいね。いつもあの辺は、流してなかったんだけど」 「あの時は、励まして下さってありがとうございました!私、今日も元気に頑張ります。本当に、ありがとうございました」 「なんだか忘れられなくてね。今、君の笑顔が見られて良かった。今日も、頑張って!」 こんなこともあるのだなあ、と不思議に思いつつ、運転手がドアを開けてくれたので、タクシーから降りる。 丁度、道の端っこだったからか、人がそんなにいなかったので、彼の運転するタクシーが見えなくなるまで、その場でペコリと頭を下げていた。 彼はどうやら、私がキヨシくんの部屋から裸足のまま脱走して、泣きながら乗り込んだタクシーの運転手と同一人物だったようだ。 なんだか、なかなかキヨシくんの呪縛のような、黒いモヤのようなものが、自分の周りには立ち込め続けているような気分になってしまうけれど、でも違うのだろう。 きっと吹っ切る為に、あの運転手とは再び巡り合えたのだ。 急いで店に向かって、ヘアメを終わらせて、中村さん、マネージャーにブログの確認をしてもらって公開しなければ。 私は歩く。 背が低いので、もちろん脚も短い。 それでも大股で、せめて背筋だけは伸ばして。 小学生の時、合唱部だった。 音楽の先生から、ソプラノのソロを任された私は、ピン、と、空へ向かって、頭のてっぺんから声を出すようにするのよ、と習ったのをなんとなく思い出していた。 まるで、神様に届けるように歌うのよ、と。 いつだってこうして、どんなにダメになりそうだったとしたって、背筋だけは伸ばしていようと決めた。 そうしないと、すぐに膝をついて倒れ込んでしまいそうなくらい、どちらかの世界しかなかった。 昔から、そうだった。 いつもは、そんなに綺麗だとは思わないし、見上げること自体もたまにしかないこの歓楽街からの空。 雨模様一歩手前の灰色を、ぐるぐると垂らして雑に掻き混ぜたような青とオレンジ。 微妙な、絶妙なこの色合いは、いつか水彩画で描いて賞をとったトンボと田んぼの風景の空と似ている。 私は沢山のものをちゃんと得て、今ここに立っていて、脚を進めているのだ。 カツカツと高い音を鳴らして階段を上がると、自動ドアを潜り抜け、いつものように部長に向かって明るい声でハッキリと「おはようございます!」と声をかける。 部長も、私に微笑みを浮かべてくれることが増えたような気がする。 私の使っているロッカーの鍵を取ってくれると、手のひらの上に、そっとおいた。 そう、ポトリと落とすのではなく、私の手のひらの上に自分の手のひらを重ねたのだ。 「おはようございます、うたこさん。今日も、22時に間に合いそうですか」 「大丈夫だと思います。どうしたんですか?部長、機嫌いいですね」 「さすがに、もう飾る場所がないので、うたこさんから木村様に連絡しておいて頂けますか?」 「え?」 「花束です。今日は、立派な白い胡蝶蘭でしたよ」 「…またですか?!連絡、私には来てないですよ?どうしよう、本当に、家には花束なんて飾るスペース、なくって…」 「今日まで、ですね。こちらは、薔薇が少ししおれてきましたので、飾り替えましょうか?」 「すみません、そうしてもらえると…。木村さんにもラインしておきますね!なんて言おうかなあ」 ブツブツと呟きながらロッカーの鍵を化粧ポーチに仕舞うと、フロアを抜けてヘアメ室へと向かう。 フロアでは、ヒロトくんと、もう一人の年上のボーイが何か話をしながら、卓のテーブルの準備なんかをしていた。 ヒロトくんはどうするつもりなのかな、ナナさんはどうなってしまうのかな。 ヘアメ室のドアを開けると、そこにはヘアメのバイトのお姉さんが2,3人と、その内の一人と立ち話をしているマネージャーがいた。 いつも思うのだが、ヘアメのバイトのお姉さんたちも、皆美人さん揃いなのだ。 美容師を目指している、もしくは、見習いとしてすでに働いている人ばかりなのだから、やはりオシャレで髪型もそれぞれ素敵な人ばかりだ。 私は少しだけ気おくれしてしまいつつも、マネージャーに声をかける。 「おはようございます、マネージャー。ブログの方、チェックお願いしても良いですか?」 「ああ、おはよう、うたこ。じゃ、座って髪やってもらえ。その間に見るから」 「うたこさん、おはよ。今日も、同じアレンジでいいのかな?」 「…うーん、巻きおろしで、少しだけハーフアップを上の方で作ってもらってもいいですか?」 「わかった。じゃ、座っててね。時間、20時だよね?余裕かな!」 マネージャ―に、ブログの下書きの画面を開いたスマホを手渡すと、私はヘアメの為の鏡台の内の一つに座ってバックを膝におくと、横に立っている背の高い彼を見上げる。 ブログの方は、どうやら合格だったようで、今回も勝手に公開のボタンを押されてしまう。 いいんですけどね、別にね。 「…あの、マネージャー、…どうですか?」 「ん、何が。ほい」 「あ、どうも」 手渡されたスマホを受け取ると、すぐにライン画面をタップして、ユウキさんやミサや、ナナさん、他の指名客やフリー客からの連絡がないかどうかをつらつら確認する。 木村さんには、一言、お疲れ様です、のスタンプを送る。 それから、静々とした雰囲気を心がけて文章を作る。 『今日も、本当にありがとうございます。ふふ、でも部長が、もう店が花束で溢れちゃうって困ってましたよ。今度は花束じゃなくて、また一緒に飲めるお酒は如何ですか?花束は枯れてしまうと、少し悲しい気持ちになってしまうんです。ワガママを言ってしまってすみません』 ユウキさんには、あとちょっとしたら教えてもらった居酒屋さんに向かいますね、と一言送り、こちらにも『お疲れ様です』のスタンプを送信する。 マネージャ―は何も気づかなかったようなので、まあいいかと思い、自分のヘアアレンジが完成し次第、席を立って、バックを肘の内側にかけ直す。 「行ってらっしゃい、うたこさん。今日、髪傷んでたから、トリートメントしといたよ」 「ありがとうございます!すみません、気を遣って頂いて」 このやろう、マネージャーが私の後ろ頭の髪の毛をめちゃくちゃにしたせいだろう、多分。 けれど、そんなことはおくびにも出さずニコっと笑顔でヘアメのお姉さんに頭を下げると、ヘアメ室を後にする。 フロアを通って自動ドアに向かおうとすると、マネージャーもついて来たので、「なんですか?」と声をかけると、彼は「見送ろうと思って」とだけ言う。 そして、部長の前を二人で通り過ぎ、自動ドアを出たところで、スマホを見て地図を開いた私に向かって、マネージャーは言うのだ。 「すごく似合ってるよ」 「え?」 「白が合うな、うたは」 …なんだ、意味、わかってたんじゃん、バカ。 「行って、来ます。…中村さん」 「ん、頑張れるな?」 「頑張ります」 「今日の木村さんの花束、持って帰るか」 「…どうしたんですか?置くとこ、なくないですか」 「花瓶買って来るから、一、二輪くらいなら大丈夫だろ、キッチンにでも活けとけばいいよ」 「私は、なんでもいいですけど」 そう言うと、マネージャーは私の頭をポンポンと優しく叩いて、自動ドアを潜ってあっと言う間にいなくなってしまった。 彼は、胡蝶蘭が、そんなに好きなのだろうか。
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