480人が本棚に入れています
本棚に追加
/607ページ
三番目の名刺
幸福な気持ちでユウキさんと落ち合うことになっていた居酒屋へ向かった。
ユウキさんからは、もう少し時間がかかるから先に入ってて、と連絡が来ていた。
どうやら、個室を予約していてくれたようで、そこへ一人で通された。
私は、ユウキさんが来てから、と思って、水以外は何も頼まなかった。
ありがとう、マネージャー、私のことをそうやって簡単に操ってくれて。
やる気を出させてくれて。
居酒屋の方は和食がメインなようで、私が思い描いていたよりはちょっと高級そうな店内だった。
個室は二人用らしく、そんなに広さはなかったけれど、襖で外と区切られていて、黒いテーブルの上にはメニューや調味料や割り箸などもなく、スッキリとしていた。
座る部分は掘り炬燵式で、灯りは天井からぶら下げられた淡い黄色を囲った和証明一つだけ。
腰掛ける部分には、暖かみのある色彩の座布団とクッションが置いてある、全体的に和モダンな印象の店だった。
途中で二人分のおしぼりとお通しと箸が届けられ、私は「ありがとうございます」と店員と短い会話を交わす。
そして、スマホで他の客とやりとりをしている間に、ユウキさんが店員と共にやって来た。
彼は私に話しかける前に、メニュー表と、自分が飲むのであろう酒、それから幾つかの食べ物をオーダーしてから席へと座る。
なるべく人懐っこい顔を意識してニコっと笑うと、私の方から声をかけた。
「お疲れ様でした、ユウキさん。急にどうしたんですか?…なんて、本題に入るのは、まだ早すぎましたか?」
「お疲れ、うたこちゃん。いや、いいよ。それより遅れちゃってごめんね。先に何か飲んでて良かったのに」
「いいんです。ユウキさんにオススメを聞きたかったから。あ、メニュー、どうもありがとうございます」
店員さんが持って来てくれたメニュー表を掴むと、私はユウキさんの方に向かって方向を直し、見やすいように広げて見せた。
マネージャ―のお陰か、緊張もそんなにしていないし、ユウキさんの方も以前ミサと三人で一緒に過ごしていた時となんら変わらないように見えた。
「好きなの飲みなよ。オススメされて、美味くなくても喜ぶのって疲れるだろうしね。食べ物の方は、勝手に頼んじゃったけど。何か好きなのあったら別で頼んで大丈夫だから」
「そうですか?ありがとうございます。私、サワーにしておきます。日本酒とか飲むと、すぐに、くるくるぱーになっちゃうんですよね」
「それはまあ、店までとっておいて。そうそう、ミサなんだけど、連絡とれなかったし、また店辞めたのかと思ってさあ」
「ああ!違いますよ。休暇中なだけです。店にはちゃんと戻ってきますよ!ミサがいなくなったと思ったから、私を指名しようと思ってくれたんですか?」
「うーん、それも違うんだけど。ま、メニュー見て、魚美味いよ、刺身って食べられる?」
「マグロしか食べられないんですけど、いいですか?とりあえず、サワーとお刺身だけ頼んじゃいますね」
「あ、あと、別に俺と一緒だからってスマホ見ないようにしなきゃとか、気にしなくていいからね。俺も見るし、返信もするしさ」
おおう。なんか、楽ちんな人だな、本当に。
とっても助かる、と思いつつも、頻繁にはやめておこう、と決めてから、店員を呼ぶと追加の品物を頼み、ユウキさんに向き合う。
さあ、お話をお伺いしなければならない。
出来れば、納得出来るように説明してもらえると助かるのだけれど。
「じゃ、私もスマホ、テーブルに置かせてもらいますね。うーんと、ユウキさんはミサに興味がなくなっちゃったって感じなんですか?でも、私もミサも、だいたいお酒飲んで好き勝手してただけ、って言う記憶しかないんですよ…同じじゃないですか?」
「あはは、まあそれはそうなんだけどね。ミサは不安定だろ?それでたまに店、勝手に休んだりして、迷惑かけたりしてる。…って思えるんだけど、どう?」
「私はミサと仲が良いので、ミサを庇いますよ?」
「だろうねえ。でもさ、うたこちゃんは店を無断で休んだりしないし、いつもどの卓でも一生懸命だし、ブログも見たけど、元気で頑張ってる女のコって感じだ」
「え、そんな急に褒められると、照れますね。ありがとうございます」
コン、と襖がずれる音がして、店員が「失礼します」と言って入って来ると、ユウキさんの頼んだものと私の頼んだもののほとんどを、テーブルに並べて行く。
オーダーしたものの準備が出来上がるのも、こうして丁寧に綺麗に見えるように品物を配置して行くのも、全てにおいて手際がとても良くて、感心してしまう。
「俺は、なんて言うか…ミサの楽しそうな顔は好きなんだけど、バカ笑いしてたりとか、そう言うのはいいんだけど。アイツたまに泣くだろ。もうツライ、もうツライって言って泣くんだよな。あ、うたこちゃんもいたことあったか?」
「いたこともありましたね。うーん、でもそれは、酔ってつい泣き上戸になっちゃってるだけって言うか」
「病んでるって言うかさ。そう言うの、俺は苦手なんだよね」
それでは、ユウキさんは私のことも苦手だと言うことではないか。
やめておいた方がいい、うん、この同伴も、私指名で店に通うと言う話も、今回限りでやめておいた方が良いと思う。
とは、さすがに自分からバラすわけにも行かず、曖昧に困ったような微笑みを浮かべることしか出来ない。
ほー、なるほど。
メンヘラ嫌い、と言うわけか。
いや、まあ無断欠勤とかを平気でしてしまうような、そう言うタイプのキャストが苦手、とも取れるけれど。
「誰でも病むことはあるじゃないですか。ユウキさんの前だから、安心して、ミサは泣いていたんじゃないでしょうか?」
「いやあさあ、俺は一応客だからね。泣いているキャストを宥めたり慰めたりする為に店に行ってるわけじゃないから」
「ごもっとも」
私が思っていたことをズバリとユウキさんに言われてしまったので、ふ、っと吹き出してから柚子サワーの入ったジョッキの取っ手を掴むと、ユウキさんの、多分焼酎だと思うのだが、そのグラスの方へと傾ける。
カチン、と小さな音が鳴って、乾杯をすると、私は柚子サワーをゴクゴクと一気に飲んだ。
喉が渇いていたし、メンヘラ嫌いな人にメンヘラな部分を一切見せないようにして話をしなければならないのだ。
そう思うと、まあ多少は緊張感が戻って来てしまった。
「楽しみに行ってるわけだからさ。楽しいのがいいんだよ、俺はとにかく。そう言えば、うたこちゃんは他の店のキャストのコとかのブログとかも見たりするの?」
「たまーにしますかね?勉強がてら、と言いますか。どんな風にしたらキャバ嬢っぽく見えるんだろうって思って、研究してます」
「あ、じゃあさ、このコ、たまに見るといいよ。俺の一番好きなコ。ちなみにうたこちゃんは三番目」
「おお、美人さんですね。さすがって感じです。私は圏外でいいですよ、そんな気を遣って頂かなくても」
ユウキさんも酒を飲み干したようだと言うことに気づいたので、料理に箸をつけている彼に、次は何にしますか、と問う。
同じもので良いと言われたので、からっぽになったジョッキとグラスを、店員の取りやすい位置にずらして、少しばかりテーブルの上を片付ける。
それから、襖を開けると店員を呼び、自分の柚子サワーと先ほどと同じ酒をお願いします、と頼み、私も箸を取ってマグロの刺身だけを二口ばかり食べた。
「三番目が一番大事なんだよ、俺は。一番目は、一番。そのまんま、ずっとずっとそのコが辞めるまで推すんだ。二番目は、もう店出してるママでさ。時々会いに行って喋るくらいでいいんだ。俺が楽が出来る場所って感じだな。なんでうたこちゃんを三番目って言ったか、って、別に今までミサが三番目だったわけじゃないんだよ。三番目は空席だったんだ。ま、少しの間、そこにいてみてよ」
「はあ…、よくわかりませんけど、わかりました。一番目、の、この美人なキャストさんは、有名なお店に在籍されている方ですよね?疎い私でもさすがにわかります。ずっと推してくってことは、私なんかにかまけている場合ではないのでは?」
「たまにはいいんだって。そう言う、他にも遊ぶとこ、何個かないとさ」
「ほーう。だからユウキさんって、誰のものにもならない!って感じがあったんですねえ」
これは、なんとなく私がずっと思っていたことだった。
誰か一人のキャストに思いっきり入れあげてしまうこともなく、けれど、一番のオキニの大切な日には必ず駆け付けカッコイイところを見せる。
三番目は、適当に遊ぼうかなって時の、キープくらいの感覚なのかな、と予想した。
まあ、だったらそりゃあ沢山笑って、楽しく過ごせた方が良くて、出勤している日も多くて、気が向いた時に店に行けば会うことが出来るキャストが丁度良いだろう。
「そう言えば俺、うたこちゃんに名刺って渡したことあったっけ?」
「あ、いえ。ミサの本指の方だったので、私、受け取らなかったんですよ。あの時は、せっかく下さったのに、お断りしてしまって申し訳ありませんでした」
「じゃあさ、今日交換しよう、良かったら」
「いいんですか?こんな、はじめてのご飯の時で。まだ、何もユウキさんのこと、楽しませたり出来ていないですよ?」
「いいっていいって。うたこちゃん、気配り上手だし、話し聞くのも上手いじゃん。楽しいよ、俺は」
「だったらいいんですけど…ありがとうございます。ま!これから店で、迷惑いっぱいかけますからねー!明日になったら、あーやっぱりあんな女やめとけば良かった!!ってなるかもしれないですけどね?」
自分のバックから化粧ポーチを出すと、名刺入れを探る。
その中から一枚引き抜いて、ボールペンで裏の白い部分に短いメッセージを書き足す。
私は絵が得意だったので、ついでにユウキさんの似顔絵を描いておいた。
それを渡すと、ユウキさんは喜んでくれて、それから自分の名刺も私にくれる。
名刺、いっぱい持ってるなあ、と言うことがわかったのだが、その中からトランプの一枚を選ぶように、私に寄越したそれ。
色んなことをやっていて、そのうちの一つなのだろう、と思われる。
どんな会社名が書いてあっても、私にとっては特に気にはならないし、名前だけがわかればそれで良いかな、と言った感じなのだ、名刺は。
そう、名前さえわかれば。
ただ、ユウキさんの場合は、その名前ってやつに、私はついつい心の中で動揺してしまった。
最初のコメントを投稿しよう!