土砂降りの火の鳥

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土砂降りの火の鳥

いくらまだギリギリ8月で、夏と言えば酒だろうと言う季節であれど。 平日で、しかも雨が降っているとなれば、客足は自ずと遠のく。 つまり、今日は飲み屋はそんなに混みはしないのだ。 うちの店だって、長い時間滞在してくれている客は、ほとんどが誰かこの店のキャストのお姉さんを指名して来店している客ばかりだ。 フリー客が入って来ても、本降りになってしまう前には、と、言った感じで、短い時間でチェックをしてしまう場合も多く、そんなに騒がしくはない。 そんな日だったのだ。 そんな静かな日が、私にとって重要な意味を持つ日だった。 いや、「重要な意味を持つ日になった」の方が正しいのだろうか。 私はもはや三日間のうちの前半二日がキツ過ぎた為か、その二日間の疲れが出ていたのか、酒を飲んでは楽しくヘラヘラと笑っている、と言う状態だった。 そうしていつも通り、そう、いつもと変わらず、ただ一生懸命に馬車馬のごとく必死で働いてもいた。 結局は、やることは同じなのだ。 客の機嫌を取って、どう言ったことを考えているのか、どんな話題を望んでいるのかを察して上手くそれに応え、細心の注意でもって気を配る。 それは当たり前のことで、最低限出来なければならないことだ。 そして、それにプラスして、オーダーを取れるように会話を仕向けたり、場の雰囲気を盛り上げたり、客の心を出来るだけ満足させつつ上手くおねだりもしてみせる。 私なんか、ちょっとでも力を抜けば、少しでも気を緩めれば、あっという間に要らないコマとなってしまう。 その考え方から、その自分の価値の無さへの虚無感からは、なかなか抜け出せない。 客からも店からも求められないような、誰からも求められないキャストになってしまう。 人としてだったならばどうだろう、と考えることをやめてしまっていたこの頃の私には、それだけが全てだったような気がするのだ。 そんなこと、マネージャーだったらぜーんぶわかっていそうなものだけど、何故わざわざ私に意識させたんだろう? ヘロヘロに酔っぱらった頭では、あまり前向きな答えには辿り着けそうにもなかったのと、山口さんのシャンパングラスがからっぽになったので、新しいものを作らなければ、と考える。 ピンクのボトルの細い部分を握って持ち上げると、軽かった。 わかっていて、新しく次に飲む分を注ごうと、笑顔を彼に向けてゆっくりと傾ける。 「おや、もう入っていないようだ。僕はシャンパンはいいから、うたこさんは何か飲むかな?」 「…私、ドリンクかー、山口さんのキープボトルを一緒に飲ませて頂いても構いませんかあ?」 何より、ちゃんと会話に身を入れなければ山口さんにだって失礼だ。 ラストまで店にいることは出来ないと言っていたとは言え、そのチャンスを作る隙を狙うことくらいはしなければ。 もしそれが叶わないのならば、沢山のオーダーを、出来れば一つでも多くの。 そうだな、どうしよう、いつもと違うな、って感じさせて、ちょっと焦ってもらうとか、どうだろう。 今のところ、彼はこの前とは違う接客を私から受けている。 まるでこの前が嘘だったかのように、全然体に触れて来ない、触れさせてもらえない。 何か、私をもっと酔わせなければならない理由を作ってみよう、と考えた。 上手く行くかどうかは、ともかくとして。 「どうしたんだい、お淑やかなうたこさんもいいけれど、珍しくて、何かあったのかと心配になってしまうよ?」 「ふふ、何もないですよ?本当です。ただ、山口さんにはいつもお世話になってばかりだからなあって。色々と、教えて頂いてばかりだからー、無理をさせたくないなあ、って思っただけですよお」 「心遣いはとても嬉しいし、うたこさんの優しいところが知れて良かったよ。でも、甘えてもらえないと言うのも寂しいものだね」 「そうですかあ?ふふふー!真に受けて、めちゃくちゃ甘えちゃうかもしれないですよー??」 何をどうしたって酷く酔っぱらっているので、戦略なんて適当になる。 それに、やはり手早く私に出来ることと言ったらこんなことしかないのだ。 そもそも色恋をかける方へと山口さんを導き、そちら側の客へと仕分けたのは私自身ではないか。 店内には客数は少なくて、灯りだって落とされていて、店長やボーイの視線もこちらにないことを確認してから、バッと山口さんの首根っこに両腕を回して、頬をくっつける。 「最後までいてあげられないお詫びってことにしておこうかな?」 「…どうしても?朝、辛いの、キツイですもんね…この前は、本当にごめんなさい…」 「いいよいいよ、とても楽しかったからね。さ、早く沢山飲まないと、僕は帰ってしまうよ?」 「ふふふ、知らないんだあ、そんなこと言って…。…お願いしまあーすっ!」 頬をズリズリと山口さんの肩まで移動させると、ただ寄り添っている程度、に見えるように体勢を変える。 変えると言ったって、それでもまあまあ泥酔しているキャストだと思う。 完全にただ絡んでいて、相手である客がそれを喜んでいると言うだけの話だ。 だって、いっぱいいっぱい酒を飲んでしまったのだ。 そして私はきっととても疲れている。 いつだってとても疲れていて、本当はちっとも元気なんかじゃない。 それでも、それでも、と笑うし、明るく振る舞う。 疲労感が染み出てしまわないように、目を逸らす為だけにアルコールを摂取して。 ギリギリ一歩の狂気っぽいことをしでかして、一瞬の愛のように誤解させるものを刺すのだ。 山口さんが良いと言うので、私はエンジェルとクリュッグのロゼの二本を頼んだ。 もしも、自分がチェックする前に二本とも飲みきれなかったならば、どちらかは持って帰って飲むと良い、と言ってくれた。 そう、私にお土産をくれたと言うわけだ。 時間は残り少ないのだろうか、と思いつつもクリュッグの方をボーイにあけてもらうと、次から次へとシャンパングラスへ流しては飲み込む。 「僕は次でチェックするからね」 「えー!!そうなんですかあ?もう少し早く知ってたら、…もっと…」 「もっと、…なんだい?」 「ふふっ、もっとお、…いいことあったかもしれないですよ?山口さん!」 「どうやら教えてもらえないようだね。…お土産を、増やしてあげようか?」 私がクリュッグを一本飲み切ったところだった。 そのボトルの注ぎ口に唇をやって、大体の人は下品だろうと思うような、そう言った揶揄でちゅ、っと僅かに残る液体に吸い付いて舐めた。 と、同時くらいに、マネージャーがこちらに向かって歩いて来るのが視界に入る。 どうだろう、何か、私のお土産は増えるだろうか。 「今度、写真を撮って、送りますね」 何の、とは言わないでおく。 それに、実際に何の写真にするかどうかすらまだ思いついてはいなかった。 まあ、それっぽい、ちょっとセクシーに加工した唇の写メでも送れば良いのではないだろうか。 適当過ぎるけれど、そのくらいのお遊びが良いのだ、山口さんと私は。 そう言った関係で、大きくそれを崩そうとはしていないし、亀裂を入れようとも思っていない。 お互いに引かれるようなことはしない、と言うことだ。 でも、もしかしたら? を、時々匂わせる、そんな関係だ。 「山口様、お時間ですが、如何なさいますか」 「あのねえ、マネージャー!山口さんがお土産に、もう一本エンジェルを持って帰ってもいいんだってえ!」 「…確認させて頂きますが、本当によろしいのですか?うたこさんと、一緒に飲まれなくても」 「…どうしようねえ。困ってしまうなあ。じゃあ、一時間の延長分を支払うから、半分の三十分で帰る、なんてことは出来ないかな?君、どうだい?」 「山口様が、それで問題ないとおっしゃるのでしたらこちらは構わないのですが…よろしいのですか?」 どうやら交渉成立、と相成ったようだった。 私はその場で座ったまんま、バンザーイと両腕をあげると、下ろしたその腕をそのまま山口さんの肩の上へと乗っけた。 そこからは、山口さんが後悔したとしたって知らない。 だって、私がどちらが早く飲みきれるか試しましょう?って言ったのに乗ったのだって山口さん。 私が浅く腰掛けていたソファから片尻が滑って床に落っこちちゃったのだって、床でもそのまま座り込んで飲み続ける私を見て、笑って写真を撮りながら、チャンスだと言って沢山のシャンパンを飲んだのだって山口さん。 気づいたら一時間経っていて、マネージャーが「30分の時に、声をおかけしたのですが…」と困ったような苦い笑顔で私たちに延長を聞きに来たのも、全部全部二人で大爆笑したのだから。 お尻を打ってしまった私に、結局五本のシャンパンを入れて、一本のシャンパンのボトルのプレゼントを贈ることとなった山口さんは、使ってしまった金額のことなんて考えていないように上機嫌に、笑い過ぎてヒクつくお互いの体を支え合ってフロアを歩く。 その後ろを、ヒロトくんが念のために、どちらかが転んでしまった時などに手助けする為、ついて来る。 そうして、自動ドアを潜り抜け、結構な土砂降りに山口さんを心配してみせる。 彼は大丈夫だと言って鞄から折りたたみ傘を出す。 踊り場でまた今度は、もう少し大人な飲み方を練習しておきますね、なんてしっかりレディっぽいフォローを入れつつ、山口さんの手の平と手の甲を自分の手のひらで挟み込む。 「では、また、ですね!山口さん。今日は、いつもと違った楽しみ方…どうでしたかあー?」 「うーん、こう言うのもいいねえ!写真が全然撮れなかったよ。それでもねえ、うたこさんの無邪気な顔が沢山見れたのは収穫だよー!」 「私も、山口さんの大きな笑い声、忘れられそうにもありませんー、ふふふー」 「早く忘れてねえ、恥ずかしいからね…」 そんなやりとりをしている間も、後ろにはヒロトくんが控えているので、大っぴらなことは出来ない。 静かに、山口さんの手のひらを撫でて、優しく包んで、そして離す。 「では、また是非、思いっきり笑いたい時でも、思いっきり私に上品な女性ってやつを、叩き込みたい時にでも、いらして下さいね!待っていますからねー!」 「ああ、うたこさん、また。また、絶対に来るからね。心配しないで、待っているんだよ」 私は笑顔で手を振りながら、それでも頭の中では次に戻るビップルームのユウキさんとの接客のことを考える。 その後では、ミサから私へと指名がえをした指名客と、ブログを見て一度来店してくれてから何度めかの来店になる、指名の客だ。 この二組の卓ではシャンパンはあまり沢山はねだれないとわかっているので、ユウキさんにかかっている、と言うのが正直なところだ。 さて、お尻は痛いし、足元もフラフラで、頭はぱっぱらぱーだけれど、それでも私は行かなくてはならないのだ。 山口さんの背中が見えなくなる。 私は振っていた手を下ろすと、深呼吸をする。 ああ、体中をアルコールの血液が巡っている。 もちろん脳ミソも、心臓も、どこもかしこも。 私は倒れたって、まだ立ち上がらなければならないし、立ち上がれなくても飲むことを止めたりしないのだ。 「うたこさん、行かないんですか」 「行くよおー!」 さあ、再び、何度でも。
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