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馬車馬
ユウキさんの卓では、もうほとんど彼が私のお兄ちゃんで私は妹、そして世話を焼いて遊んでやっている、と言うような状況だった。
グラスを、ワイングラスや、チューリップ型の方のシャンパングラスに変えてもらって、そこにドバドバと勢いよく注いで、今の外の天気を逆さまに作る。
ケラケラと笑いながら、ジュースのようにシャンパンを煽っては喉を通って行くプツプツとした刺激に、美味しい―!だとか、楽しいからもっとー!だとか言って、脚をバタバタとさせる。
そんな私を見ても微笑んでいられるユウキさんは何者なの、と言った感じなのだが、彼自身も私に負けず劣らず飲んでおり、そして休むことなく次に歌ううたを考える。
「あれ!あれはどうですか?銀恋とかフレンズとか愛が生まれた日だったら私も歌えますよお!」
「っとに、なんでそんな古い曲知ってんの?うたこちゃんは本当は何歳なの?」
「きゃははは!!超ばばあかもしんないですよ!!妖怪なのかもお!!」
「俺好きなんだけど、うたこちゃん歌ってよ。高橋真梨子のやつ」
「あ、わかったあ!じゃあ、入れますね、待ってて下さいねえ。これだと思うんだけどお…違います?合ってる?合ってたら、おかわり!」
「おー、合ってるね。ま、有名っちゃ有名か。何がいいの?おかわりは」
「それはユウキさんが決めてくれて大丈夫ですよおー!じゃあ、歌いまっす!!」
私はマイクを持つと、ハイヒールを脱いでソファの下のところに揃えてふかふかとした部分に素足で立つ。
ついでなので、ソファの上をつま先立ちでふこ、ふこ、と音楽に合わせて歩いて、気分良く歌い出しの部分でピタっと止まると、背筋を伸ばして、頭のてっぺんから神様に届くようにイメージして声を出す。
ね、小学校の、音楽の先生、そうだよね、こうやるんだよね。
私が歌っている間に、ユウキさんは次のシャンパンを呼び出したボーイに頼むと、自分も声を出して歌いはじめた。
地声が大きいのだろうと思う。
マイクにも負けてないその低い声とハモって、なんだか歌詞も相まって切なくなって来てしまう。
― 連れて行って わかれのない国へ
きっとそんな国はないってことくらい、この歌の主人公は知っていて、実はあったとしても、その国げの扉の鍵を自分から捨ててしまったことを悔いている。
今更尽くしたって遅いのだし、どれだけ愛していたか気づく為に、誰か他の人と遊びで寝ないとわからなかったくらいだなんて、笑えるくらい哀しい境遇を生きて来た人なのだろう。
「この女はさあ、言わなきゃいいのに、言うのかねえ」
「気が咎めてしまって、告げてしまうんじゃあないですかねえ」
「それで、別れてくれって言われるのがわかってても言うってことだろ?」
「そう言う歌なんだと思うんですけどねえ」
「ん、おかわり来たよ、ちょっと休憩しよう!次の卓で、うたこちゃん使い物にならなかったら、困るからね」
「わーい!クリスタルだあ!ありがとうございますっ!ユウキさんっ!」
長い髪がバサリと自分の頬や額を叩くほどに、私はグラつく頭をなんとか支えている首を前に振った。
ペコリと可愛らしいお辞儀をしたところで、今更もうユウキさんの前では何一つ取り繕えるものなどないのだから、酔いのままに行動し、酔いのままになんでも面白くして笑っていた方が良いと思った。
ボーイは、新しいシャンパングラスも持って来てくれていたので、彼がシャンパンをあけて、注いでくれるのを待つ。
そして、ぼーっとしながらも、なんとなーくついポロっと言ってしまう。
「ヒロトくん、シャンパンあけられるようになったんだね。じゃなかった、なったんですね。よかったですね。練習したの?」
「え?あ?僕ですか?はい、そうなんです。ドンキとかで安いの買って帰って…家で」
「へー!じゃあ、シャンパン飲めるんだね」
「そうですね。捨てるのもったいないので、飲んでますよ」
「ヒロトって言うのか。そうだ、次にうたこちゃんが呼ばれたら、ヒロトがついてよ。女のコと喋るもいいんだけど、ヒロトはうたこちゃんより、多分年下だろ?」
「…そんなこと出来るんですか?僕、よくわからないので、聞いてみますね。では、一旦、失礼致します」
私は、じろり、っとわざとらしい流し目でユウキさんの表情を窺い見る。
一体今度は何を企んでいて、何を仕出かす気でいるのかわかったものじゃない、なんて失礼なことを考えてしまう。
ヒロトくんは、ナナさんと違ってなんでもかんでもつい口にしたりはしないだろうけれど、アルコールが入ってしまえばどうなるか、それはわからない。
何を聞き出す気でいるのだろう。
「ちょっとお、ユウキさーん、ヒロトくんのことからかって遊んだりしたら、ダメですからねえ?」
「からかうつもりなんてないって。俺はこの店が好きだからさ、指名の女のコのこと以外だって知りたくなるんだよ」
「もっとダメな気がしますけどー?ヒロトくんからなら、何か聞き出せそうーとか思ったんじゃないんですかあ?」
「なーんにも。ただ、一緒に飲んで楽しく喋るだけだってー!」
どうなのだろう。
ユウキさんについては、まだ全然詳しくないので、どういうつもりなのかが全くわからない。
でもこの店でバレちゃいけないようなことで、ヒロトくんが知っていることなんかあったかな。
ヒロトくんなら、まあ大丈夫なんじゃないかな、そんなに店の内情とかにも詳しくはないと思うし。
まあ、何か喋っちゃうかも、と言うならば、ナナさんとのことくらいだろうか。
私とマネージャーのことなんか、きっと一切知らないだろうと思う。
気づかれるような真似を、店の中ではしたことは、一度もなかったはずだし。
大丈夫かな?
ヒロトくんだったら、多少の時間ユウキさんと過ごしても、何も問題は起こらないかな。
「ふーん?いいですけどお、じゃあ、後で何を話したのか、教えてくれますか?ダメなら、ヒロトくんに聞いちゃいます」
「そうだなあ、別に構わないけど、俺からは言わないかなあ。ヒロトに聞くのはいいよ、別に好きにして」
「おっけえ!了解しましたあ。じゃ、飲もっか?ユウキさんって、顔赤くなったり、具合い悪くなったり、全然しないんですねえ」
相変わらずのペースでシャンパンを飲む私を見て、ユウキさんは笑う。
休憩だって言っただろ、と、私の手にしているシャンパングラスを奪うと、マドラーを突っ込んでくるくる回す。
こうして炭酸を飛ばして、酔い易さを失くすのだ。
多分。
本当に炭酸を飛ばせば、酔い易くなくなるのかどうかと言う真実を、私は知らない。
けれど、他のキャストのお姉さんがそれをやっていると、可愛らしくて、なんかいいな、と感じるのだ。
私も以前やったことがあるのだが、客から、おまえはそんなキャラじゃないだろ、と言われ、マドラーを奪われた。
それから私は、その行為を「自分には似合わないのだ」と決めつけ、再びやることはなかった。
だから、なんだろう。
なんて言ったら良いのかわからないが、むず痒いと言うか、私を「飲み係」以外の扱いをしてくれていると言う感じがして、嬉しくて。
そんなユウキさんは、私がもじもじとしている間に、アイスペールから溶けかけたアイスを一つ取ると、炭酸を抜いた私のシャンパンの中に一つ浮かべた。
「うたこちゃんの為に、アイス持って来てもらってるんだから、使っていいんだからね」
「…うん。ありがと、ユウキさん」
そうだ、シャンパンしか頼んでいないのにアイスを頼んだのもユウキさんだった。
けれど、全然使わないから、一体どうしてここに必要なのだろうとは思っていたのだ。
まさか、私が自分の酔いの程度を考えて飲むように、と、そんな理由でここに用意されていただなんて。
全然考えてもいなかったし、気づきもしなかったから、はい、と、手渡されたアイス入りのシャンパンを一気飲みにしてしまうことなんて出来なかった。
私は、チビチビとシャンパングラスの縁に唇をつけては、舌で舐めるようにして少しずつ飲む。
突然大人しくなった私を見ても、ユウキさんはつまらないとも言わなかったし、何か無理に話しかけて来たりもしなかった。
ただ酔っていただけかもしれないけれど、私はユウキさんのことをほんの少しだけ、他の客とは違うな、と感じてしまった。
もちろん、一番の女のコがいて、私は三番で、もしかしたらそのうち記憶にも残らない女になるのだとしても。
別になんでもいいのだ。
だって客なのだから、キャバクラのキャストなのだから。
そんなものだろう。
私が、ユウキさんに何か話しかけようと、口を開いた時に、丁度このビップルームの部屋のドアも開いた。
ヒロトくんが、笑顔と戸惑いの混じった微妙な表情で、マネージャーと共に中に入って来る。
私は、心底ホッとした。
マネージャ―、貴方の顔が、今見られて本当に良かったです。
「うたこさん、お願い致します」
「…はあーいっ!」
私はユウキさんに向かって微笑みかけると、シャンパングラスをテーブルの上に置く。
アイスの浮かんだ、炭酸の抜けたその液体を、マネージャーになんとなく見られたくないと思ってしまった。
私が、休んでいるような、休んでも良い場所を見つけてしまったような、そんなところを見つかってしまったような気がしてしまった。
何も、悪いわけじゃないのに、どうしてだろうか。
気まずく感じてしまった。
だから、せめて返事は元気いっぱい、酔っぱらいらしくする。
フラつく脚だってしっかり踏ん張って、マネージャーの元へ向かってヨロヨロと歩く。
私のかわりにヒロトくんが室内に進み出ると、ユウキさんが座っているソファの、テーブルを挟んだ向かい側にある丸いすに一礼してから腰掛ける。
「行ってきまあーす!ユウキさあーん!!」
「行ってらっしゃい、うたこちゃん」
だんまりから、今度は急にハイテンションに戻った私に、ユウキさんが苦笑いをしている。
ドアの前でマネージャーの隣に並んで、世界一幸福そうな満面の笑みを浮かべて、私は次の卓へと仕事をする為に、馬車馬になる為に向かうのだ。
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