あなただけが良かった

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あなただけが良かった

私は笑う。 一生懸命、その場に合うと思われる表情を作って、それでも酷く酔っていることも含め相手が面白がってくれていることを理解しているので、動きはとても散漫だ。 ソファに両手のひらをついて、ピンと張った腕からは時々力が抜けてしまい、上半身を伸ばし続けてはいられなくなる。 カクン、とその度によろけてテーブル側へ傾く私の肩を、ユウキさんが「おっと」、と言いつつ、大きな手のひらで包み込む。 このビップルームへ来るだけで、今日残っていた力を全て使い果たしてしまったかのような気持ちだった。 けれど、私の心や頭は幾つかネジが飛んでいるので、無茶な使い方も多少は出来るようだ。 あれから、厨房でなんとかハイヒールを履いて立ち上がった私は、マネージャーの背中から目を逸らしながらも彼の後ろを着いて行って、フロアをきちんと歩いた。 そして、このビップルームへと到着した途端、私は当てつけも込めてすぐに裸足になると、優しい声で「おかえり」と言ってくれたユウキさんに向かって駆け寄った。 それから、ソファの上にピョンと乗り、向き合う形で脚を崩して座って抱き着くと、わーっ!!と声を上げた。 ヒロトくんと何の話をしていたのかは知らないけれど、凄く楽しそうに笑っていたので、丸わかりな嘘をついて喚いてみた。 「ヤキモチを妬きましたー!三番目なんでしょう、私!一番と二番以外には、ヤキモチを妬いてもいいですよね!?」 「おお?なんだあ?うたこちゃん、何かの八つ当たりかあ?何かあったか?ヒロトは愛人にしとくね。面白かったよ、たまに喋ろう。ありがとうね」 「うたこさん、お客様にご迷惑ですので、下がって…」 「うるさいっ!黙れっ!マネージャーは、もう出てってください!!」 「何、マネージャーのこと怒ってるの?うたこちゃんは」 「いえ、こちらも八つ当たりを受けているだけでございますので、ユウキ様はお気になさらず」 私が、出てけ出てけと騒ぐので、マネージャーはめちゃくちゃ呆れ顔で、ヒロトくんを呼ぶと二人で退室して行った。 その後は、ぐらんぐらんしている脳ながらも、ユウキさんとまったり話しながら穏やかな時間を過ごしていた。 シャンパンに入れられたアイスはもう溶けていたけれど、嬉しかった気持ちが溶け出しているような気がして、そのまま飲んだ。 きっとこれは、不味いってやつなのだろうけれど、私にとっては優しい味に思えた。 少しでも、楽しくて愉快な気分になりたかったので、私はもうギリギリだろうとわかっているのに、アルコールを求めることをやめなかった。 次に飲む分も、ユウキさんの前でだけはいいかな、と言うような気がして、炭酸を抜いてアイスを入れて作った。 「さーて、じゃあここいらで、うたこちゃんが珍しく怒っていた理由をそろそろ聞いてもいーい?」 「あー!ユウキさん、ダメですよー!せっかく早く忘れて楽しくしてようって思って、努力してたんですよお!私っ」 「まあまあ、他の卓で何か嫌なことでも言われたの?でもそう言う時って誤魔化して笑って逃げて、適当な言葉で自分卑下して諦めるだろ、うたこちゃんて」 「え?そうなんですかね?全然知らないですけど」 「そうだよ。嫌なこと言われても、想定内だったふりして、多分傷ついてんだろうけど、相手には何言ってもいいですよ、どうぞバカにして下さい、って雰囲気出すみたいな、そう言う自分の扱い方すんの、うたこちゃんは」 「へえ…なんか、人間観察されてたんですね、今まで。私ってそんなんですか?」 「だと思うけどな。プライドないとかじゃなくて、後で一人になった時とかに激怒してるのかもしれないけど。そこまでは俺は知らないなあ」 「ううん、そんなに理性的ではないので、ただ相手の機嫌を損ねたりしたくないのと、それ以上貶められる前に自分から自分を下げてるだけだと思います」 でも、だと言うならば、今回はどうしてそれがきちんと機能してくれなかったのだろう。 あんなの、後で怒られるではないか。 いや、怒っているのは私なのだが。 そうか、怒っていたのか私は。 マネージャーのことを、怒っていたのか。 なんで? 管理されていても良くて、全部嘘でも良くて、何もかも真実じゃなくても平気なはずだと思っていたと言うのに。 ― マネージャーだけの色管理だと思っていたから、だろうか。 店側の皆が知っていたとなると、何か、マネージャーの意志とは違う、指示と言う形でなされた「愛っぽい行為」「好きっぽい行為」なんかが混ざっていたと言うことになる。 それが、嫌だったのかもしれない。 操り糸の主は一人で良かったのだ、私は。 飼い主は一人で良かったのだ、私は。 だから、ショックを受けたのかもしれない。 「ただ単に、めちゃくちゃに酔っぱらってたから、感情が爆発しちまっただけかもしれないけどさ。言ったろ?嫌な卓とか、酔い過ぎてキツかったら、俺んとこ来ればいいって」 「…いやあ、多分それ、私がマネージャーにお願いしても、彼はそうしてくれないと思うんですよねえ」 「そうなの?シャンパン入れますからとか言ってさ。店長とかヒロトに言えば?」 「…そうか、店長…ヒロトくん…他のスタッフに言えば、対応が違ったりするのかもしれないですね…」 「大事な大事な三番目だからね。うたこちゃんの愚痴は聞くつもり」 「接客をしている時間帯、お金を頂いている方に、私なんかの愚痴、話したりしないですよ。つまらない時間になっちゃうじゃないですか」 「俺にはつまらない時間じゃないから大丈夫。まあ、話したくないようなことなら無理には聞かないけどね」 そんなバカな。 楽しい時間を過ごす為に店にやって来ているのだから、どうにも出来ないようなキャストの女のコの悩み事や泣き言はあまりされると困る、と言っていたユウキさんが。 さっきと違いますよ、言うことコロコロ変わってますよ。 まあ、ユウキさんもそこそこ酔っぱらってはいるようだし、たまにはそんな気分になることだってあるのだろうか。 それとも、「三番目」にはそれだけの「特典」もついて来ると言うだけなのだろうか。 「うーん、ユウキさんがよくわからないです。つまり?三番目とは?」 「まー、今度日曜とかも遊ぼうよ。日曜をあけてもらえる客になるくらいは、店寄るからさ」 「はあ…それは、ありがとうございます…?で、いいんですかね?」 私はアイスの浮かんだシャンパングラスを掴むと、コクコクと無理のないペースでアルコールをゆっくりと摂取する。 ユウキさんと共にいるこの空間が、そう言う、普通の飲み方をしても良いと思える場になっていたことには、自分ではまだ気がついてはいなかった。 私はいつだって、何かがはじまってしまう時には鈍感で先を考えてもいない。 だから安易に運命の渦にのみこまれてしまった後で、結局感情が散々に揺さぶられ、身を削るような出来事が山のように起きるのだ。 臆病者な癖に、自分の未来に関することにはセンサーが働かない、ポンコツな人間なのだ。 ユウキさんの微笑みに、酔っぱらいのヘラヘラ笑いで返しながら、新しい話題に相槌を打つ。 私が話そうとしない愚痴を、忘れさせようとしてくれているのだろう。 店や、飲み屋とはまったく関係のないような話をして、私を笑わせてくれるので、同じくこちらも他愛もない話をする。 その、滅多に私がしない「他愛もない話」を、ユウキさんはとても喜んでくれた。 「うたこさん、お願い致します」 「…え?」 部屋のドアが開いたことも、マネージャーが入室していることも、全くわからなかった。 そのくらいユウキさんに夢中で話していたのは、どうでも良い私の趣味のことだった。 自分の好きなゲームの、様々なシーンを繋げて色々な歌や曲を使い編集された動画が沢山あり、それをたまに何時間でも見て回ってしまうだなんて言う、どうでも良い話。 「うたこちゃん、多分ラストだ。頑張ってね、送りだろ?」 「…はい。ユウキ様は、まだお時間がございますので、ゆっくりと準備して頂いて大丈夫ですので。…うたこさん、お願い致します」 「…はい。行って来ます、ユウキさん。なんか、くだらない話をしてしまって、すみませんでした」 「そんなことないって、面白かったよ。俺も好きなゲームあるし、ま、むかーしのだけど。今度、その話でも聞いてよ」 「…はい。わかりました。楽しみにしてますね」 私はソファから脚をおろすと、床に放ったままになっていたハイヒールを拾う為に、マネージャーの立っているドアの方へ行く。 下を向いたまま、まず片方を拾って床の方を見ながら足を入れる。 顔を上げるのが怖かったし、彼の目を見るのがどうしても嫌だった。 けれど、もう片方のハイヒールを拾おうと伸ばした手がそれに触れるより先に、マネージャーがしゃがんで、それを拾った。 ― 私を壊すのは、あなた一人で良かったのに。 そうして、手渡されるハイヒールを受け取る為に、彼の表情を、近距離で見る羽目になる。
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