見捨てないで

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見捨てないで

とりあえずスマホをカバンから取り出して、誰からの連絡だろう、と思って液晶画面に目をやる。 すると、スマホが知らせていたのは、ラインの受信ではなくて電話の方で、まさに今考えていた「マネージャー」からのものだった。 ああ、時間がない。電車はまだ来ない。 私は今にも泣き出しそうな気分のまま、通話ボタンに触れた。 『おはよう、うたこ。ラインの返信なかったけど、今日どうした』 「マネージャー!!おはようございます!!すみません、私、寝坊してしまって、どうしよう!!」 『大丈夫だから、うたこ。同伴してくれそうな客に、連絡とかしてみたか?』 「でも、私髪もちゃんとやってなくて、とりあえずヘアメしないと」 『焦らなくていいから、ちゃんと店に来ればいいだけだから』 「だって、私、遅刻したく、ないんです」 『うたこはいつも真面目だよな。とりあえず、ちゃんと店に来るだけでいいんだから』 そう、私は真面目で、バカすぎるほど真面目で、無遅刻無欠勤で、せめてそのくらいはクリアしないときっと誰にも目をかけてもらえない。 何一つ、取柄も魅力もないのだから、せめて努力で出来ることくらいは精一杯やらなければならないと言うのに。 だから、だからなんとか毎日苦手なことでも、無理そうなことでも諦めずに、耐えて耐えて、苦しくても辛くても笑顔を作って、そうやって来たのに。 もう、ダメになっちゃうの? 私の、バカ。 私が病んでるせいだ。 元気になりたいよ。 私、薬なんていらないような、普通で十分褒められるような、そんな女の子に、なりたかったのに。 「マネージャー…」 『どうした』 「私が、遅刻したら、もう、…褒めてもらえなくなりますか?」 『そんなことないから。あれからちゃんと毎日指名も呼んでるし、このまま頑張ればいいだけだ。な、大丈夫だからな、しっかりしろ』 「マネージャー、私頑張る。頑張るから、だから、だから、」 だから、どうか、見捨てないで。 また私のこと、前みたいに褒めて。 きっとちゃんと、No上位入りして、それを継続できるキャストになってみせるから、その為に頑張るから、だからお願い。 お願いします。 私のこと、ミサのついでじゃなくて、ミサのお世話係じゃなくて、ミサの仲の良いキャストとしてじゃなくて、私を私として見て。 『出勤しようとしてるんだろ?今駅か?』 「そう、ホームで、電車来るの待ってて…」 『わかった。頑張れ。おまえなら、大丈夫。待ってるからな、うたこ』 「…うん」 涙が零れ出しそうだった。 でも、化粧が崩れてしまうのは嫌なので、私はヒリヒリとする喉の奥へと、喚き声を押し込んだ。 『待ってるからな、うたこ』 その言葉で、なんとか自分を立て直す。 マネージャーの方から先に電話を切られてしまうのが嫌で、自分の方から先に通話を切るボタンを押して、電話を終わらせた。 電車がホームに来ることを知らせるアナウスが流れる。 私はハッとして、もう既に薄暗くなりはじめている空に向かって背筋をシャンと伸ばした。 これから季節はかわり、どんどん暑くなってくる。 もっともっと日が長くなる。 それでも私はこうして、夜の帰宅ラッシュの人たちでギュウギュウ詰めの電車とは逆の、反対方向の線路を走る、ガラガラに空いている電車に乗って、あの歓楽街へと向かうのだろうか。 電車がホームへと入って来た。 風と耳に痛い音を纏ってやって来る黄色が、藍色の空間にやたらと映える。 私はスマホをバックには仕舞わず、手にしたまま電車へと乗り込むと、ドアのすぐ脇に立ってライン画面を開く。 一番上は、今日来店してくれると言う約束をした指名の客だった。 その客に「お仕事お疲れ様です。会えるの楽しみにしています。でも無理はしないでね、いつも元気な貴方のことが私は一番すきだから」なんて、思ってもいないことばかりを連ねた文章を作って送信した。 それから何人かに返信をし、名前を見て性格や職種を思い出し、もう仕事が終わっているであろう客を何人か見繕う。 「お仕事お疲れ様でした。うたこです。実は、事情があって困っているんです。今から新宿で少し会えませんか?」なんて、そんな文面に哀しそうな絵文字をつけて、それをコピペして、先ほど見繕った何人かの客に向けて一斉に送る。 一人でも返事が来たら、それでいい。 誰からも来なかったら仕方がない。 出勤予定時間の20時まで、もう30分もなかった。 きっと、ダメだ、私ははじめて遅刻をしてしまうのだ。 そう思った。 『待ってるからな、うたこ』 私はさっきのマネージャーの言葉を思い出して、なんとか「きっと、ダメだ」と思った気持ちを、頭を振って追い出す。 走る。走るんだ。西武新宿駅に着いたら、走ればいい。 出勤予定の時間を過ぎてしまっていてもいい、頑張って間に合おうとしたのだと言うことをわかってもらえれば、それでいいじゃないか。 胸の中は暗く重たいモヤがかかっているままだけれど、それでも、私はせめて走る。 ふと、握り締めていた手のひらの中のスマホが再び振動する。 何名かの指名客やフリー客から、ラインを幾つか一気に受信していた。 幾つかの「ごめんね、今からは無理なんだ」と言うような返信の中に、一つだけ「何かあったの?21時からだったら行けそうだけど、待ち合わせはどこがいい?」と言う内容のものがあった。 私は、座り込んでしまいそうなほど心底ホッとして、それから電車の中でその気持ち通り一旦しゃがみ込んでしまう。 ダメだ、いけない、いくらガラガラとは言え、何人かは人が乗っている。 しっかりしなくては、そう、私はもっとしっかりしなくてはいけない。 私はすぐ近くの、空いている席へと移動すると腰掛けて、ふう、と震える息を吐いた。 21時からならば、一度店に寄ってヘアメも終わらせてから向かうことが出来そうだった。 私はまずは「来てくれる」客よりも、先にマネージャーにラインをしていた。 同伴してくれるかもしれない客が見つかったこと、OKだったら今から店でヘアメをお願いしてから待ち合わせに向かうつもりでいること、それから、さっきは励ましてくれてありがとうございました、と、そんなことを文章で伝えた。 最後の一文は、入れるかどうかちょっと迷ったけれど、でもだけど、どうしても言いたくて、打ち込んだ一文だった。 次に、21時に待ち合わせをしてくれることになった客に丁寧なお礼の文章を作ると、感謝の言葉を沢山重ね、同伴してもらってもいいかどうかを訊ねた。 寝坊したから、とはさすがに言いづらくて「お腹が痛かったので病院に行っていたら、とても混んでいて時間がかかってしまった」と言うことにしておいた。 なんてありきたりな言い訳だろう。 客は信じてくれるだろうか、同伴のお誘いだと知ったら断られてしまうだろうか、と不安だった。 しかし、その客は私の言葉を信じ、そして「大変だったね、それじゃあ疲れているだろうから、同伴中はのんびり過ごすといいよ」と、そんな、とんでもなく優しい返信をくれたのだった。 日頃、慣れないながらも頑張っている一生懸命なキャスト、いいコ、として演じて来て本当に良かった、と思った。 そして、その客には心の底から感謝をして、私が出来る精一杯で楽しませようと誓った。 頑張る、私は頑張るんだ。 マネージャーが、店で待っている。
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