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色恋営業
店に着くと、先ほどまでの悲壮感はどこへやら、打って変わってすぐさま立ち直った私は元気いっぱい明るく「おはようごさいまーす!!」と大きな声で挨拶をする。
やる気満々で、自動ドアが開き次第、軽快にヒールを鳴らしつつフロアへと一歩踏み込んだ。
入り口を入って厨房のある細い通路を抜けてすぐのところにある、部長の特等席である小さなカウンターへ向かうと、ロッカーの鍵がかかっている木のボードから自分のものを掴み、化粧ポーチの中へとしまう。
何か書き物をしている部長に、今日はヘアメイクをお願いする事を伝え、その分の金額をお財布の中から取り出す。
ふと、部長が顔を上げて、私の顔をちゃんと見ると、口を開いた。
「うたこさん、おはようございます。同伴、22時に入れそうですか?」
「大丈夫だと思います。優しいお客さんなので、時間は守ってくれると思います!」
「一応、遅れそうだったらマネージャーに連絡入れて下さいね」
「わかりました!」
「頑張って下さいね」
「…はい!」
部長が、あの厳しくて、滅多に私に笑顔なんて向けてくれたことのなかったあの部長が、私に「頑張って」だって!
あんなに自分は何一つまともに出来ないダメな人間だとしか思えなかった私だったが、No上位入りが出来るかもしれないと聞いた日から、毎日指名の客を数名被らせるくらいには頑張って呼んでいたことが功をなしたのだろうか。
それとも、指名の卓でなるべく高いオーダー品を出来るだけ頼んでもらえるような会話の流れに持っていって、食べまくって飲みまくっていたのが良かったのだろうか。
私はいつも間にか、部長からまで笑顔を向けてもらえるようになっていた。
やっぱり、私だって、もしかしたらミサみたいになれて来たと言うことなのだろうか。
店に期待されているキャスト、ってやつになれているのではないだろうか、なんどと、ちょっとだけ調子に乗ってしまう。
いや、でもダメだ。
調子に乗っていると、上手くいかなかった時のショックが大きいし、何よりも驕ってはいけない。
謙虚に、一生懸命、精一杯、やるだけだ。
それが基本的には、私の出来る唯一のことであって、それ以外のことなんか、ほとんど何にも出来やしない。
忘れてはいけない。
私は人の何十倍も頑張って、やっと「普通」なのだから。
だったら「褒めてもらう」には、人の何百倍も何千倍も頑張らないといけないのだ。
そのことを忘れてはいけないのだ。
私は、待機席でそれぞれ客に営業ラインを送ったり、スマホでゲームをしたり、お喋りをしたりしている、今日出勤のキャストのお姉さんたちに「おはようございます!」と声をかけ、まだ客のまばらなホールを急ぎ足で抜けてヘアメイク室へ向かう。
何人かのキャストのお姉さんからの「おはよー」と言う返事を背に、目だけで思わずマネージャーの姿を探す。
20時30分、マネージャーと話している時間などないと言うのに、ついそうしてしまう。
ダメだな、私。
マネージャーだって、もう仕事中だと言うのに。
既に来店していた客と、その客についているキャストのお姉さんの卓でオーダーを取っているらしい背中を見て、それでも何か一言、頑張れる言葉をもらえないだろうかだなんて、期待したりして。
ヘアメイク室へ入ると、多分マネージャーが「遅れてくるコがいるから」と頼んでくれていたのだろう。
一人だけ、ヘアメさんが私の髪をセットする為だけに、自分のバイト時間を過ぎても残っていてくれた。
私は、「本当にすみません、よろしくお願いします」と言うと、小さな美容院のようになっているその一角にある、一つの椅子にすぐに腰かける。
ヘアメさんは、「気にしないでいいよ」と言って私の髪を櫛で梳かすと、ヘアアイロンと細いヘアピン、細くて見えないくらいの小さなヘアゴムを使って、器用に、所謂夜の蝶のように見える髪型を作り上げてくれる。
髪をやってもらっている間に、目の前の鏡台に置いたバックからスマホを取り出すと、マネージャーに「着きました、さっきはうろたえたりしてすみませんでした」と改めてラインを送る。
次に同伴してくれると言う客に、待ち合わせ場所に21時にいけそうなことと、本当に感謝しています、と言う内容の文章を打ち、可愛らしい絵文字を沢山つけて送信した。
「出来たよ」と言う声で、ハッと顔を上げ、鏡へと目をやると、まるで自分じゃないような私の姿が映っていた。
ああ、やっぱり、自分でやるのとは全然違うな、と思った。
こっちの方が断然キャバ嬢っぽいし、仕事の出来るキャストのように見える。
マネージャーはなんて言うかな、どっちの方がいいって言うかな。
私は、「ありがとうございました、お疲れ様です」とヘアメさんにお礼を言うと、今度は今さっき通って来たばかりのフロアへ出て、キャストのお姉さんたちと部長に「行って来ます」と告げ、店の出口へと向う。
同伴してくれる約束になっている客が、落ち合う場所をわざわざ店の近くにある居酒屋がいいだろう、と指定してくれたので、21時にはなんとか間に合う。
その居酒屋へ向かう間、なんとなく胸を張る。
髪型がいつもと違うからだろうか。
それとも普段厳しい部長から笑いかけてもらえたからだろうか。
危うく寝坊して遅刻をするところだったと言うのに、私と来たら本当に現金なものだ。
客と約束していた居酒屋に着くと、待ち合わせです、と店員に言う。
その客は先に着いて待っていてくれたようで、申し訳ない気持ちが倍増する。店員に案内されて個室へと通されると、待っていてくれた客は私を見て「お疲れ様、大丈夫だった?」と笑顔で気遣う言葉をくれた。
「すみません、私が頼んだのに、遅れてしまって」
「大丈夫だよ。うたこちゃんは、何飲む?俺と同じのでいい?」
「はい!ご飯は食べましたか?お仕事だったんですよね?」
「ごめんね、先に少し食べちゃった。何か頼む?」
「ご飯は大丈夫です。せっかくなので、いっぱいヨシキくんと喋りたいな、って思って」
「うん、うたこちゃん座って。ゆっくりしなね」
「ありがとうございます」
彼は、容貌は50、60代くらいに見える、落ち着いた穏やかな性格をしている客で、飲みに来る時も仕事帰りであることが多かった為、身なりもきちんとしている、とても温和で優しい、そんなおじさんだった。
けれど、はじめて私が彼の卓へとついた時に「くんづけで呼んで欲しい」と言われたので、私は敬語は崩さなかったけれど、名前を呼ぶ時にはくんづけで呼んでいた。
いつも一人で来店して、綺麗な飲み方をする客だった。
私を指名する前はずっとフリーで通って来ていたとマネージャーが言っていたので、場内をもらった時には驚いた。
それからは必ず私指名で店を訪れてくれるようになり、時々は同伴をした。
ラストまでいると言うことはなく、それ故アフターにも誘われたこともなかったので、多分妻子がいたのではないのかな、と予想している。
彼はいつも私のことを、含みのあるような目で見つめていたけれど、私に触れようとしてきたことはなかったし、ハッキリと色恋を望まれることもなかった。
「あまり遅くまでは店にはいられないけど、ごめんね」
「そんな、全然いいです。すごく助かりました、本当にありがとうございます」
「うたこちゃん、今日はちょっと違うんだね」
「ああ、髪型のことですか?実は…」
客の、ヨシキくんの向かい側の席に座ると、彼はオーダーを取りに来た店員に自分の飲んでいる日本酒と同じものを私の為に頼んでくれる。
そうして二人で何気ない会話をして、私はいつものキャバクラ嬢の方のキャラで受け答えをし、たった40分ほどの時間で、なんとかヨシキくんのことを楽しませることが出来るように、沢山の作り話をした。
行ってもいない病院での話をしたり、通ってもいない専門学校の話をしたり、居もしない友達の話をしたりする。
ヨシキくんの方も多分、もしかしたら嘘の職種を言っていて、居るはずである妻子をさもいないかのように日常を話し、私はその話の中に、些細な面白い部分を見つけては、楽しそうに笑って見せる。
22時、同伴で客と来店するならばこの時間までには、と決められている時間が近づいて来ると、二人で居酒屋を出て店へと向かう。
もうその頃には、飲み慣れていない日本酒を何杯か飲んだ私は既にほろ酔い状態になっていた。
ヨシキくんの方はそんな私を見て、少し喜んでいるようだった。
まだ若くて、酒にもそこそこ強かった私が、同伴の時点で酔うことは、今まであまりなかった。
ふわふわとしていて楽しかった。
気分が高揚していた。
安心できる客と、遅刻を回避できたと言う安堵感。
その上同伴分と、指名の分のポイントが得られるのだ。
何かお礼を、と思った。
全部この客、ヨシキくんのお陰なのだから。
何か特別な、すごく喜ぶような、そんなお礼を。
私を、あの、今にも泣きだしてしまいそうだった私のことを救い出してくれた、そんな彼に。
私は店に向かう道中で、ヨシキくんの腕に、自分の腕を絡ませた。
そして、手のひらを合わせると、指の間を自分の指で埋め、恋人繋ぎをして肩にこめかみをちょこんと乗せた。
ヨシキくんの指が、大きくて熱い手のひらが、私の小さな手をギュッと強く握り返して来た。
感謝の気持ちからとは言え、私ははじめて、客に自分から色恋営業のような手管を使ってしまったのだ。
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