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壊れた日
その日は、同伴してくれた客であるヨシキくんと腕を組んだまま店の自動ドアをくぐった。
そんなのはよくある光景だ。
そうやって客と寄り添って同伴出勤してくるキャストのお姉さんたちは沢山いた。
でも、私だけは違った。
私だけはそう言った行為をしなかった。
今までは、だが。
もう、私の中では、「自分の中の決まり事」「自分はキャストとしてこう見られたい」と言う確固たる気持ちが揺らいでしまっていた。
一度そうしてしまえば、もうなんだか、何もかもがなんてことはなかった。
私はヨシキくんと恋人同士のような雰囲気のまま店に同伴出勤した。
入り口に、客を迎える為にマネージャーがやって来ても、私はその腕を解くことはしなかった。
ただ楽しそうに会話をし続けていた。
私がドレスに着替えてくるまでの間、客だけを先に卓につける為、マネージャーがヨシキくんの案内をする。
その際、私はとても名残惜しそうにして腕を離した。
「待ってて下さいね、ヨシキくん」
なんて、甘えるような声を出して、酔っぱらっていい気分で、なんだかスキップしそうな勢いのままロッカールームへと向かった。
化粧ポーチからロッカーの鍵を出し、中に入っているドレスに着替えると、フロアへ出る時に通るヘアメ用の部屋の鏡の前でもう一度自分の姿を見る。
長い茶色っぽいピンクベージュの髪は緩やかに巻かれていて、ハーフアップにされている。
ところどころから計算されたようなおくれ毛が落ちていて、肩から胸元へと流れ、残りは背中の素肌の部分を覆っている。
真っ白で淡いロングドレスには、濃いピンクのフリルが裾と胸元にあしらわれている。
そして、酔っぱらいながらも、10センチのハイヒールを履き、背筋を伸ばして歩く私。
なんだかまるで、いっぱしのキャバ嬢のようではないか。
そんな風に、思えたのだ。
ロッカールームとくっついているヘアメの為の部屋を出ると、マネージャーがやって来て、私をヨシキくんのいる卓へと導く。
その背中を見つめながら、大人しく着いて行く。
ヨシキくんの待つ卓に辿り着く前に、マネージャーが私に小さな声で言った。
「頑張ったな、うたこ」
私は、いつもと違う、と思った。
私が、酔った客の方から無理に腕を組まれそうになったり、手を繋がれそうになって、苦笑いしながらなんとかその行為をやめてもらう為に「酔っちゃったんですか~?」だとか「ダメですよ、哀しむ人がいるでしょう」だとか「やめてくれないと、ボーイ呼んじゃいますよ~」なんて冗談ぽく言ってやんわり拒否をしていたような日には、マネージャーはこう言った。
「大丈夫だったか?うたこ」と。
今日は、違うのだな、と思った。
頑張ったな、と言われた。
私は。私は。私は頑張ったのだろうか?
何を、どう頑張ったのだろうか?
何かが、私の中の絶対の規律が壊れただけだと言うのに、どう言うわけだか私は褒められたのだ。
マネージャーに何か問いかける前に、ヨシキくんの座る卓へと着いてしまう。
私は思いっきり可愛らしく見えるような笑顔を作ると、ヨシキくんに向かって「ただいま戻りました」と言って、ヘルプでついてくれていたキャストのお姉さんにお礼を言う。
マネージャーが、「うたこさんです」といつものように私の源氏名を告げ、私もいつものように膝をちょっと曲げて一礼してからヨシキくんの横へとつく。
ヨシキくんは人の良い笑顔で私に「おかえり、うたこちゃん」と言って、すぐに私の希望するドリンクをオーダーして良いと、メニュー表を手渡してくる。
私は、何がなんだかわからないまま、けれどヨシキくんのお陰で「頑張ったな、うたこ」とマネージャーから言ってもらえたと言うことだけは確かなのだ、と、ヨシキくんのご機嫌を取るように再び隙間なくピタリと体を寄せた。
この日、ヨシキくんは、私のことを指名する他の客が来店しても、その次の指名客が来店しても、チェックしなかった。
つまり、帰らないでいてくれたのだ。
いつもなら同伴したとしても1、2時間くらいでチェックして、と言って帰って行くのに。
他の指名客と被ると、すぐに帰ってしまう時だってあったと言うのに。
私のドリンクが空になると、すぐに次の物を頼んでいいよと言ってくれた。
他の指名客と被ってしまい、私が席を離れても、ヘルプのキャストのお姉さんにもドリンクを頼んでくれた。
それは、私のポイントへと加算される。
ヨシキくんと、はじめて当たり障りのない話ではなく、まるでお互いがお互いを好きな相手であるかのような会話をした。
ヨシキくんも沢山お酒を飲んで、私もたくさんのお酒を飲んだ。
もちろん他の指名客の卓でも、同じようにドリンクをオーダーしてもらうと、次々と飲んだ。
ヨシキくんが店を後にする時は、送る為に一緒に出口まで再び腕を組んでフロアを歩いた。
「また、一緒に飲みましょうね、ヨシキくん。私、すごく楽しかった」
私がそう言って控えめに胸元辺りまで手をあげて振ると、ヨシキくんは上機嫌で私のことをやわく抱きしめた。
私は、平気になってしまっていた。
何も感じなかった。
あれほど避けて来たことだと言うのに。
何も、なんにも、感じなかった。
ヨシキくんは、すぐに離れると、満足そうな笑顔で私の頭を撫でて手を振り返す。
「うたこちゃん、ラインするね。いつでも連絡頂戴。じゃあ、また来るよ」
「はい!待ってます、いつでも。ヨシキくん、ありがとうございました」
そうして、ヨシキくんは帰っていった。
けれど、私はまだ帰るわけにはいかない。
まだ営業中の時間だし、自分の指名客だって数名店の中で待っているのだ。
私は酔いからではなく、力が入らずに少しフラついてしまう脚で、なんとか店の中まで戻るとすぐにトイレに入る。
飲み過ぎた酒を吐かなければ、ラストまでまだ飲むのだから、と思い、水洗トイレの前で体を折り曲げると、喉の奥に人差し指と中指を突っ込んだ。
けれど、今日は何も食べていない。
と言うか、普段から私はあまり食べ物を食べない。
えづくけれど、結局唾液と涙だけが込み上げてくるだけだった。
「うたちゃーん」
トイレの、ドア一枚隔てた外から、ミサの声が聞こえて来た。
ミサも同伴して出勤したのだろう。
だって私が遅刻して来た時は、店の中にはいなかった。
ミサが呼んでいる。
私はトイレを流すと、上の水が出て来る部分で指や手のひらを洗い流し、ハンカチで拭く。口元も拭う。そして、返事をする。
少し掠れていて、まるで今にも泣きだしそうな声だと思った。
「ミサ、なーに」
「マネージャーが探してるよ。客んとこ、戻らないと」
「うん、今出る」
「だいじょうぶ?」
「平気だよ」
トイレのドアを開けると、いつも通り酔っぱらっているミサがそこにはいて、そして私は、なんだか急にホッとしてしまって、思わずミサに抱き着いた。
ミサは「どうしたのよ~」と私を宥め、それから「だいじょうぶ、だいじょうぶ、うたちゃんは、だいじょうぶ」なんて呂律の回らない口調で私を励まして、背中を撫でてくれる。
そうか、ミサはいつも、こんな風にしてたんだね。
ミサ、ミサは客を、いつもこうやって、嬉しい気持ちにしたり、喜ばせたりして来たんだね。
好きな人がちゃんといても、ミサの接客のスタイルは変わらなかったし、その好きな人が彼氏になっても、ミサはそれを変えることはしなかった。
ミサの心は、いつ壊れたのだろう?
私はミサに「ありがとう」と言って、一緒にフロアへと戻る。
フロアの入り口に立っていたマネージャーが私たちに気づくと、最初にミサに「卓に戻ってろな」と言う。
ミサは「ありがとうは?」と言ってぶすくれる。
多分、トイレから出て来ない私に声をかけて来いと、マネージャーがミサに頼んだのだろう。
マネージャーが「はいはい、ありがとな、ミサ。客が待ってるから」と適当に笑いながらミサのことを急かす。
ミサは「うたちゃん、また帰りにね」と言って、自分の指名客の待つ卓へと歩いて行く。
真っ赤で膝の下から裾までがレースになって透けている、シンプルなカクテルドレスが良く似合う、シャンとした、ミサのカカトの高いハイヒール姿。
もう、店でしか見られなくなったその姿は、やっぱりカッコよかった。
何も変わらない、私の憧れだった。
マネージャーが「うたこ、行けるか?」と私に聞いてくる。
私はミサを見習って「大丈夫です、すみませんでした!」と言って、背筋を伸ばす。
そう。ミサは言った。「うたちゃんは、だいじょうぶ」。
私は大丈夫なのだ。このくらいなんでもない。
大丈夫だ、頑張れる。まだ頑張れる。まだまだ頑張れる。
マネージャーが私の顔を見て笑う。笑ってくれる。
ミサに向けるみたいな笑顔で。
そっか、私、「頑張った」んだ。
私も精一杯の笑顔を作ると、自分の指名客の卓へと歩き出す。
今日は三人しか指名を呼べなかった。
だったらせめて、オーダーだけでも、もっとたくさん、店に貢献出来るものを頼まなければならない。
どうやったら、シャンパンやボトルを卸してもらえるだろうか。
そんなことは、私にはもうわかっていた。
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