やるしかない

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やるしかない

これ以上飲んで酔っ払ってしまったら、私は正気を失うかもしれない。 ミサが、ミサの指名客たちにしているように、そのまま身を委ねてしまうようなキャストになってしまうかもしれない。 私が今日とった接客は「色恋営業」であって「枕営業」ではない。 私は客とは、寝たくなかった。 ミサに「今日はごめんね、酔っぱらっちゃったし帰るよ」と言うと、ミサは特に気にした風もなく「そっか、じゃあまた今度ね」と笑顔のまま言って、いつもと変わらない態度で接してくれた。 それからしばらく休憩すると、ミサは立ち上がり、よろよろとしながらもロッカールームのある方へと向かって歩いて行く。 その後ろ姿を見ながら、私は本当は声をあげて泣き出しそうな気持ちになっていた。 本当は、ミサと二人きりで一緒に帰りたかった。 それなら、泣かないで済むと思っていた。 私はきっと自分の部屋に帰ったら、一人きりで泣くのではないかな、となんとなく感じていた。 そうなるのが嫌だった。 ミサ、ミサ、行かないで、一緒に居て欲しいよ。 本当はそう言いたかった。でもそんなことは言えない。 アフターだって大切な仕事だし、ミサの客はミサとのアフターを楽しみにしていて、この歓楽街のどこかでミサのことを待っているのだ。 ずいぶんと長い時間俯いていたようだった。 いつの間にか、フロアからもロッカールームからも、キャストのお姉さんたちの声は聞こえなくなっていた。 ボーイが掃除や卓のテーブルの片付けをしていて、部長は待機席の目の前のいつもの定位置で何か書き物をしていた。 もしかしたら寝ていたかもしれない。 送迎の車が来たと言う知らせすら、聞いた覚えがなかった。 私は立ち上がろうとして、そして失敗する。 再び、膝を折り、ガクンと待機席のソファに座り込む。 そこに、店長がやって来て、私に言う。 「うたこさん、送迎もう行っちゃったから、ちょっと休んでから帰りなね」 「…はい、すみませんでした。酔っぱらいました…」 「全然大丈夫だよ、うたこさんは普通だったよ」 「そう、ですか?」 「いつもと変わらず、頑張り屋なうたこさんだったね」 「…ありがとうございます、もう少ししたら、着替えます」 店長から言われた「普通だったよ」が私の落ち込んでいるような、何かに迷っているような気持ちを少しばかり和らげてくれた。 私、「普通」だったんだ。 良かった。 私、普通になれたんだね、頑張って来て、本当に良かった。 うん、そうなの、きっとそう。 私、「普通」になりたかったんだから、ずっと。 テーブルの上に放っていた化粧ポーチとハンカチをズルズルと引き寄せると、ハンカチをポーチの中にしまい、ロッカーの鍵を出す。 着替えなくては。 そう思って、今度こそどうにか立ち上がると、ハイヒールの中で、もう限界だとばかりに、爪が剥がれかけていた足の指が痛みを訴えた。 そうだ、すっかり忘れていた。 私は店に来る時に、部屋から駅のホームまで走ったその時、足の爪が剥がれかけたのではなかっただろうか。 痛いな、と思った。 ズキズキと熱を持って、つま先が悲鳴を上げていた。 けれど、私は元々店用のハイヒールをロッカーに用意しているキャストのお姉さんなどとは違って、私服の時点で既に履いてくるキャストだ。 替えのペタンコな靴やサンダル、スニーカーなどはない。 黒いソファに痛む方の脚の膝を乗せると、ハイヒールを脱いでみる。 爪は、完全に剥がれてしまっていた。 普段タクシーを止める場所まで歩いて行けるだろうか。 もういっそ、どこかで始発を待って電車で帰ろうか。 疲れてしまった。 なんだか、とても疲れてしまっていた。 何に疲れていたのかも、もうわからないほどに。 先のことも、これからどうするかも、全てのことを考えるのがとても億劫だった。 「お疲れ、うたこ。脚、怪我したのか」 「…お疲れ様です、はい、ちょっと、爪とれちゃって」 さすがにキャストはもう帰さないといけない時間になっていたのだろうか。 注意されてしまうだろうか。 でももう、私、一歩も歩きたくない。 私、動けない。 私の様子を見に来たのであろうマネージャーは、私の横に来るとかがんで、まずはハイヒールを脱がせると、私にそれを手に持つように言う。 それから両腕を取り、自分の肩にかける。 よ、っと声を上げて、そうして私のことをおぶると、そのままフロアをぬけ、ロッカールームまで連れて行ってくれた。 私はあっけにとられた。 マネージャーにおんぶされてしまった。 言葉が出なかった。 ただ、すごく痩せているひょろっと背の高いマネージャーの背中は、私よりは大きくて、少し広くて、ゴツゴツとした背骨が、ヌードブラで盛って盛って作っている大きな偽物の胸にあたって、それがちょっとだけ恥ずかしかった。 「着替えられるか?」 「…はい、本当に、すみません、ありがとう、ございます」 「うたこ、頑張ったからな」 「…そうでしょうか」 「うん、頑張ってた。いつも頑張ってるよ。偉かったな、うたこ」 「…うれしい」 ロッカールーム前のヘアメの為の部屋で背中から降ろされる。 私は正直に、素直に、思ったことを言ってしまう。 だって。だって。いつも、頑張ってるって。知っててくれたの。 嬉しいよ、マネージャー。 私、いつも頑張れてる? 本当にそう思ってくれてる? 私の気持ち知ってるから、そう言う顔して、そう言うこと言って、上手くもっと売り上げ伸ばせるキャストにしようとしてるんじゃないの? 他のキャストのお姉さんに、色管理してるかもしれないって本当? マネージャーが、本当に好きな女って、どんな女? 「前に言ってた相談って、なんだ?」 「あ…二つに、増えました、相談」 「いーよ、昼前くらいからだったら電話出れるから」 電話。ラインじゃないんだ。 電話で相談していいんだ。 店を閉めて、マネージャーが家につくのは昼前くらいなのだろうか。 男性スタッフって何時くらいに帰ってるんだろう。 迷惑にならない時間に、話をしたい。 マネージャーが、ロッカールームのドアを開けて、私に中へ入るように促す。 私はヨロヨロと裸足のまま中へ入ると、自分のロッカーの場所まで進み、寄りかかる。 マネージャーが最後に「うたこ、期待してるからな」と笑顔で言って、ロッカールームのドアを閉めた。 「期待、してる…」 私は、期待されるキャストになったのだろうか。 今日、あんな私のことを見て、色恋営業でしかない接客の仕方を見て、マネージャーはそう思ったのだろうか。 私は、褒められたのは嬉しい、すごく嬉しい、けれど、少しだけ複雑だった。 だって私は全然大人なんかじゃなかったから、自分がはじめて手を出した、「色恋で客を引っ張る」と言うやり方に、自分でショックを受けていた。 私はあんなことが出来てしまうのだな、そのやり方を褒められたのだな、と思うと、なんだかやりきれないような気持ちになった。 それでも。 私はNo上位入りしたい。 もう後戻りなんて出来ない。 マネージャーのことが好きかもしれない。 だってまだ体があたたかい。 くっついてたところが、あたたかい。 マネージャーは、私がNo上位入りしたら、なんて言って褒めてくれる? 今日よりもっと、褒めてくれる? 泣きそうだった喉のつかえはもう取れていた。 もうやるしかないと思った。 きっと私、期待されるキャストになったんだ、と自分に何度も言い聞かせる。 だから私はもう、こんなことで泣いたりしない。
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