好きです

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ビップルームの一室で、ドレス姿のままソファに横になっている私のことを、マネージャーが揺り起こす。 けれど私の酔いはまださめてはおらず、受け答えもまともに出来ない。 気分が悪いわけではなかった。 どちらかと言えば、楽しい気持ちでふにゃふにゃと笑っていた。 マネージャーが、なかなか立ち上がることが出来ない私に何度も優しく声をかけてくれる。 私はそれが嬉しくて、自分の肩を掴んでいたマネージャーの手を取ると、まるでいつも色恋営業をかけている指名客にそうするように、指を絡め、恋人繋ぎをした。 マネージャーはそのことに対して何も言わなかったし、私を咎めなかった。 「うたこ、タクシー呼ぶか?」 「いやです。このまま、ここにいる」 「店、閉めるぞ、もうすぐ」 「マネージャーは、帰らないんですか」 「今日は俺が店閉めることになってるから」 「じゃあ、今、誰もいないんですか」 「もう皆いないから、うたこも帰れ」 「いやだあ」 駄々っ子のように、マネージャーに甘えてしまう。 私は一体どうしたと言うのだろう。 私はこんな我儘を、店で、誰かに、そう、例えばマネージャーにだって、言ったことなど一度だってなかったはずだ。 マネージャーの言うことはちゃんと聞いて来たし、頑張ってNo上位入りも続けているし、それに、私はあんなに拒んでいた色恋営業だって自分なりに一生懸命やっているのだ。 好きでもない人に、いつも触れているのだ。 そんな私は、一度くらいは、好きな人にも触れてみたかったのだ。 「わかった、じゃあ一緒に帰るか」 「マネージャー、どこに住んでるの」 「ほら、着替えられるか」 「うーん、たぶん」 マネージャーが私の腕を自分の肩へとかけると、いつかのように、そう、私の足の爪が剥がれてしまった時と同じようにして、背負ってくれる。 あったかい、細い、痩せた背中だ。 マネージャーのスーツが、私の化粧で少しばかり汚れる。 それでも私は頬を寄せ、首に回した腕でぎゅうっとしがみついた。 「しょうがないなあ、うたこ」 「だって、私、頑張ってるから」 「そうだな、頑張ってるよ」 「だから、少しくらい、」 ミサみたいに、迷惑をかけてもいいでしょう。 少しくらい、ご褒美があったっていいでしょう。 少しくらい、欲しがってもいいでしょう。 ねえ、マネージャー。 何か、言って。 また、私が嬉しくなるようなこと。 私が、喜ぶようなこと。 ううん、もっとたくさん、私を幸せにするようなことを。 私のこと、店に貢献できる大事なキャストとしてだけじゃなくて、普通の、ただの、私にするみたいにして。 「うたこがこんなに酔っぱらうの、珍しいな」 「酔っぱらったからじゃないです」 「へー」 「何それ」 「じゃあ、俺のこと好きだったんだな」 「そうですけど」 おんぶされてフロアを進む間、全然、なんでもないことのように、そんな会話をした。 そのままヘアメの部屋を通って、ロッカールームの前まで辿り着く。 ああ、もう着いてしまう。 まだ、言いたいことがあるのに。 聞いて欲しいのに。 どうしよう、私、本当はもの凄く酔っぱらっているのだろうか、調子に乗りすぎだろうか、こんなの、私じゃない。 私らしくない。 カッコ悪いな。 いっぱしのキャバ嬢なんかじゃなくて、これじゃあどっかの中学生の、ただの恋する女の子のようではないか。 「知ってたけどな」 「知ってたんですか」 「そりゃあ、わかる」 「どうして?」 「ほら、とりあえず着替えて来い」 「はーい…」 ロッカールームへ入ると、化粧ポーチから鍵を取り出して、自分のロッカーを開ける。 店によく着て来る、同伴する客が好みそうな、膝丈の白いタイトなワンピース。 胸元から襟刳りまでは花柄のレース仕様になっている。 腕をビッシリと埋め尽くしている自傷行為で出来た傷跡を隠す為に、上に淡いピンクの薄手のジャケットを羽織る。 カバンの中に化粧ポーチとハンカチと名刺入れを仕舞うと、酔いでふらつく脚をなんとかしつつ、帰り支度をしているであろうマネージャーの元へと急ごうとする。 今日の私は、なんだかおかしい。 それはわかっていた。 でも、どうにもならなかった。 ロッカールームを出て、よろよろとよろけながら、なんとかフロアへ出ると、マネージャーは店の出口付近の卓に一人で座って、静かに煙草を吸っていた。 そこまで行って、彼を見つめたまま立ち尽くす。 さっき、例え促された形だとしても、自分のことを好きだと心の内をバラしたばかりの私を見ても、何にも思っていないような顔をして紫煙を吐く。 淡々とした時間。 彼は灰皿に灰を落とすと、何事かを少し考えているように、再び煙を吸うことはなく、短い間を作る。 こわい。 緊張してしまう。 「うたこ」 「…はい」 「俺は、おまえのことが可愛いよ」 「…う、ん」 突然の言葉に、どこが?とは聞けなくなる。 だって、やっと笑顔をくれたから。 それは、最近手に入れた「No上位入りしたキャスト」に向けてくれるような笑顔とは、ちょっと違っているように感じた。 一度だけ見たことがある、はじめてNo2に入った時に見せてくれたそれとも同じではない。 細い眉毛が優しい形に下がっていて、口元は柔らかな、微かな笑みの形。 見たことのない顔。 それは、困っているのだろうか。 それとも、呆れているのだろうか。 それとも私が、「No上位のキャスト」が、思っていたよりもずっと幼稚で、幼いと言うことに気がついて、どんな風にあしらったら良いのか迷っているのだろうか。 「帰るか」 「はい、あの、マネージャー!!」 「なんだ」 「私のこと、嫌になりましたか?」 「なるわけないだろ」 「…そっか」 良かった。 本当かどうかはわからないけれど、でも、今の私への接し方は、嫌いなキャストに対する接し方ではないように感じられた。 まあ、店の男性スタッフが、キャストのことを面と向かって嫌いだなんて言うわけはないのだが。 だって、自分の給料の為と言うのももちろんあるだろうけれど、店に貢献してくれているわけだし。 大事なコマだ。 何より私は、No上位に入れるキャストになって来ているのだから。 そうそう邪険には扱えない、と言うのが正直なところだろう。 マネージャーは煙草を灰皿に押し付けて火を揉み消すと、その灰皿を厨房の方へと持って行って、すぐに戻って来た。 私は、マネージャーがどこに帰るのかすら知らない。 でも、私と一緒に帰ると言ってくれたのだから、タクシーに乗るところまでは一緒に行けるのだろう。 好きです、マネージャー。  せっかく二人きりだったのに。 その一言は、結局言えなかった。 店の照明を消し、出口へと向かうマネージャーの後ろを着いて行くと、自動ドアを出る。 彼は、シャッターを下ろすと鍵をかける。 そうやって手際よく店を閉めている彼の姿を、私はぼんやりと見ていた。
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